私の可愛い人
「政務をおろそかにしていいわけがないでしょう!」と言われ、セリーナにとうとう部屋を追い出されてしまった。王太子である私――ヴァンフリードも、彼女の前では形無しだ。
クスクス笑いながら仕事に向かう。
からかうのが楽しくて触り過ぎた結果、どうやら本気で怒らせてしまったようだ。まさか、あそこで拳が飛んでくるとは思わなかった。だがセリーナは、怒った顔も可愛いらしい。もちろん、くるくる変わる表情の全てが愛しくて、見飽きることがないけれど。
私を受け入れてくれたことが嬉しくて、柔らかな唇から『ヴァン』と紡ぎ出される甘い声を聞きたくて、つい必要以上に構ってしまった。潤んだ緑色の瞳で見つめられた私がどう感じるかなんて、君はこれっぽっちも考えていないよね? 本当に、愛しい君はどこまで私の世界を色鮮やかにしてくれるのか。
楽しい時間はあっという間だった。側を離れたくないのはやまやまだが、これ以上会合を後回しにすることはできない。特にオーロフは大事な義妹を私に託した後だから、直ぐに戻らねば難解な案件をわざとこちらに渡して、今後セリーナとなかなか会えないように画策するかもしれない。
私は急いで執務室に向かった。そこにはすでに、オーロフとジュール、そしてカレント王国の大使であるカルロと彼の秘書の姿があった。彼らは椅子から立ち上がると、揃って私に頭を下げた。私も片手を上げて彼らに応え、遅れた非礼を詫びる。
案の定、私を見るオーロフの目はまったく笑っていなかった。まったく……私だってやっと手に入れた愛しい人を目の前にして、かなり我慢を強いられたのだ。睨むのではなく、褒めてもらいたいものだと思う。
無論、そんな感情はおくびにも出さず、咳払いを一つするとカレントとの交渉に取り掛かることした。
一息いれようと提案し、お茶の用意をさせる。
順調に進む話し合いに気をよくした私は、早めに終わればもう一度セリーナに会えるとほくそ笑んだ。入ってきた女官にメモを渡されたオーロフが、私に近寄ると耳打ちをしてきた。
「セリーナは王城内の図書館に向かったそうです。多分また、司書のコレットという女性と一緒にいるのでしょう」
ああ、あの小柄で利発そうな女性か。
それならさして問題ではない。
異性と一緒にいるのは許さないが、同性ならいいだろう。セリーナには私のものだという印をつけたいくらいだ。けれど、しつこくし過ぎると嫌われかねない。せっかく両想いになったのだ。婚約を正式に発表するまでは、逃げられないよう細心の注意を払うしかないだろう。
想いはすぐにセリーナへ飛ぶ。
彼女は、今まで出会ったどの女性とも違っていた。水色の長い髪と緑の瞳の可愛らしい姿をしていながら、口調や仕草は乱暴で、私の王太子の地位に興味を示さない。初めて会った時も、話しかけても最低限の受け答えしかせず、その後は嫌そうに背を向けただけだった。後からそれは、私のことを王太子だと知らなかったためだと判明したが、だからといってその後の態度が変わるわけでもなかった。
遠慮のない物言いと態度が妙に新鮮で、一緒にいて気を遣わずに心地よかった。今思えば私は、彼女の大人しそうな外見と内面とのギャップに惹かれてしまったんだと思う。
生まれた時からこの国を継ぐ者として、上に立つ者としての教育を施されてきた私。誰よりも賢明で誇り高く在るのが当然だとされ、期待に応えようと懸命に生きてきた。周りからも王太子として相応の扱いを受けてきたし、敬われるのが当たり前だと思っていた。セリーナに叱り飛ばされた時は衝撃的だった。一方で誰も考えつかないような提案をしてくる彼女に私は魅了されてしまった。
本心を見せずに偽りの笑みで武装した私に、君だけが本物の笑みを与えてくれる。
勇ましいくせに初心で可愛らしい。泣き虫なくせに、芯が強く誇り高いセリーナ。いろんな表情を見せる君に、私は自分でも驚くほど夢中になっている。これほど興味を惹かれる愛しい存在に、私は今まで出会ったことがなかったのだ。
いつしか君は、私にとって手放せない存在となっていた。知れば知るほど、心の中に君の占める割合が大きくなっていく。誰にも渡したくない、ずっと側にいたいと思ったのは初めての経験だ。どうしても手に入れたい、早く自分のものにしたいと強く願ったのも。だから君が毒で倒れた時、私は自分の世界が足下から崩れていくような、そんな錯覚を起こした。
助かってくれて良かったと思う。
たとえ当初、君が私を忘れていたのだとしても。
忘れた記憶なら一から作り直せばいい。
君ともう一度。今度こそ間違えず、他の誰にも渡さずに最初から恋をしようと決めていた。まあ、そうはいっても私のことを思い出さない君に、焦っていた部分もあった。変化を見逃さないように観察し、私のいない間の出来事は護衛や女官に逐一報告させていた。ローザを疑い泳がせてはいたものの、君に手を出さないかと心配だった。
ローザは、年齢を感じさせない可愛らしい外見に反してかなり狡猾だ。無知であるように見せているが、かなり頭がいい。でないと薬師の家系に生まれたからといって、独自の方法で毒の抽出などできないだろう。側室なんかにならずとも、彼女なら薬師としても活躍できていただろうに。
そんなローザの作り出した毒のせいで、半年ほどの記憶を失くしたセリーナ。君に忘れられた私は、悲しかった。だが、無事助かったことに安堵して、城内に君を留める理由ができたと密かに喜んだのも事実だ。
執務の合間に会えるのは幸せだった。
話をして私の名を呼ぶ声を聞くだけで、疲れが吹き飛ぶ。君に『ヴァン』と呼ばれると、過去のつらい記憶や出来事が浄化されていくようで、穏やかな気持ちになれた。君が回復するまでずっと、いや、回復しても帰さない理由はないものかと気づけば思案にくれていた。
そんな時、ローザが君の部屋を訪れたという報告が入った。すぐに駆け付けられるよう、その日から夜も兵を待機させることにした。だが、君がローザの手の者に襲われたのは、翌日の夜のこと。叫び声が上がったら、すぐに突入する算段をしていた。けれど君はなかなか叫び声を上げない。声を聞き、ようやく部屋に入った時には全てが終わっていた。
兵が去った後、私の腕の中で力を失くした君。あの時私は自分を責めた。危険がないようジュールを配していたが、まさか腕の中で泣かれるとは思っていなかった。苦しそうに涙を流す君を見て私は誓った。
『これからは、私が君を守るから。もう二度と、誰にも君を傷つけさせない』
あの言葉はまごうことなく私の本心だ。
今朝、連行されるローザを見送った後で君は私に聞いてきた。
「大丈夫? ローザのことが好きだったんじゃあ……」
いったい、どこをどうすればそういう発想になるのだろう? これだけ好きだと言っているのに、君は私の想いが真剣なものだと、まだ信じようとしないのか。思わず本音をもらした。
「……王や王太子が、個人として本当に愛されているかどうかを判断するのは難しい」
けれど君は緑の瞳を見張るばかりで、何も言わない。だからつい続けて意地悪を言ってしまった。
「それで? 君はいつ記憶を取り戻したと、私に言うつもりだった?」
うろたえるばかりで何も答えない君に、私の不満は止まらなかった。
「君は私のことをどんな男だと思っているの?」
「あの時、もうすでに思い出していたよね? でも言ってくれなかったってことは……がっかりしたよ」
がっかりしたのは、自分自身にだった。
君に頼られ、信用される存在でなかったことにひどく落ち込んだ。私が君をこんなに想う一方で、私のことなど何とも思っていないのかと。
心の中に潜む恋情や嫉妬を、君だけが引き出すことができる。こんなに熱く激しい感情が自分の中にあるなんて、君に会うまで気づかなかった。一旦燃えてしまった炎は、もう二度と消すことができない。私は君を手放せそうにない。どこに逃げようともどこまでも追いかけ必ず捕まえ、私の隣に引き戻す。
――その名は『執着』。
私の心は、君に囚われてしまったようだ。
「ヴァンフリード様、再開してもよろしいですか?」
彼女の義兄であるオーロフが聞いてくる。
もちろん私に異論はない。
あるとすれば――
「ああ、だがあと一つだけ。婚約の時期を早めたい。それに関連して……」
また一つ、王太子として私は自分の希望を叶えることにした。
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