最悪で最高の一日
思わず息を呑んだ。
記憶が戻ったことは黙っていたのに、どうしてわかってしまったんだろう? 王太子は私の肩に手を添えると、少しだけ悲しそうに言った。
「バレていないとでも? セリーナ、私はどうすれば君に信用されるのかな? さっきだって、私がローザに毒を飲ませると思っていたようだしね」
「そ、それは……」
だって、彼女を脅した時の表情がすごく真に迫っていたもの。それに、グイード様も義兄もジュール様も誰も止めようとしなかったから、それなら私が止めなくちゃって思って……
そう考えて、ふと気がつく。
もしかして、彼らは王太子が変なことをしないってわかっていたの? だからその場から誰も動こうとせずに、見守っていた?
「君は私のことをどんな男だと思っているの? 裁きもせずにローザを葬ろうとしたとでも? 君は、記憶がない方がまだ素直だったね。急にヴァンと呼ばなくなったのは、私のことを思い出したからだろう?」
ぐ……そ、そうだけど。
まあ、疑っちゃったのは私が悪かったんだけど。私なら、ローザを拳で脅そうとしていたかも。
王太子を愛称で呼ぶのって親密だし勇気がいるから呼べなかった。しかも、ローザが『ヴァン』と親し気に言ったことを思い出した後だったから、すごく嫌だった。
「時々君は、感情を隠すのが下手になるね。昨夜も部屋に入った途端、君の身体が強張るのがわかった。あの部屋が私のものだと知っていたからだろう? 私が『記憶』と口にする度、君の瞳は曇った。あの時、もう既に思い出していたよね? でも言ってくれなかったってことは……がっかりしたよ」
「がっかりした」と言われて、目の前が真っ暗になった気がした。私はまた、前世と同じことを繰り返したの? 好きになった人に捨てられてしまう?
王太子は、私のことをよく見てくれていた。なのに私は彼を見ず、信じきれていなかった。「好きだ」という言葉も私に向けられる優しさも、本気にすれば深みにはまりそうな気がして、なるべく考えないようにしていた。自分の心に必死に抵抗していた私は、貴方に想いを告げることなくここまできてしまった。
記憶を取り戻したことを隠していた。
自分が傷つくことが怖かった。
背中に突進したのは、貴方に手を汚して欲しくなかったから。愛されたいと願うくせに、私は心のどこかで、貴方を信じることをためらっていた。
ひどいことしてごめんなさい。
真剣な想いに応えなくってごめんなさい。
貴方はこんな私を丸ごと受け入れて、好きだと言ってくれたのに……
『ヴァン』と名前を呼ぶだけで、嬉しそうに笑う貴方。その笑顔を愛しく思っていたくせに、私は貴方の名前をなかなか呼べずにいた。嫌われるのが怖かった。離れなくてはいけない時に、想いを残しておきたくなかった。
でももう、遅い。
私は彼を失望させてしまった。
私はまた、大好きな人に嫌われてしまったのだ。ヴァンフリードは……ヴァンはこんな私をきっと、許してはくれないだろう。
女々しい泣き顔を彼に見せたくなかった私は、彼にくるりと背中を向けると、出口の方へ一目散に駆け出した。逃げたのだと思われてもいい。一刻も早くこの場を離れたかった。家に帰って自分を慰め、心ゆくまで反省したい。
それなのに――
王太子の方が敏捷で、足が長いのをすっかり忘れていた。彼はドアの近くで私をあっさり捕まえると、ぐいぐい迫ってきた。じりじりと後退した背中に、壁が当たる。ヴァンフリードが背後の壁に両手をつくから、私は彼の腕の中に囲い込まれてしまった。
「セリーナ、この私から逃げられるとでも?」
挑発するようにそう言うと、彼は端整な顔を近づけてきた。銀色の髪が揺れ、青い双眸は射すように私を見ている。
ここで泣くのはおかしい……唇を噛んで私は懸命に耐えた。
「がっかりした」と言いながら、追ってきた王太子。謝れってことだろうか? こんなに世話してやったのにってすごく怒っている?
「なんて顔をしているんだ。そんなに噛んだら、君の愛らしい唇が傷ついてしまうだろう?」
困ったように言葉を発したのは、王太子の方だった。彼は両手で私の頬を挟むと、顔を寄せてきた。
「セリーナ……」
優しく重ねられた唇からは、ほんのり蜂蜜の味がした。ヴァンフリードは自分の舌で私の下唇を慈しむようになぞると、何度も口づけた。くすぐったいけれど切ない別れのキスに、胸が締めつけられるように痛む。
「セリーナ、君は私のものだろう? いい加減に諦めて、認めたらどうだ?」
唇を離した彼が、掠れた声で囁く。
え? ……あれ?
予想していたセリフとだいぶ違っている。
「だって……私にがっかりしたって……」
呼吸をしながら合間に喋る。
「違う。がっかりしたのは、信用されていなかった自分にだ。十分待ったし心を尽くしてきたつもりだったのに。何がいけなかったのかと思ったら、つい口に出てしまった」
そうなの?
だったらまだ、望みはあるの?
「私のことを嫌いになったんじゃ……」
「嫌いな相手を抱き締めてキスをしたいと願う程、私は物好きではないな」
言うなり彼は、言葉通りに私をきつく抱きしめた。中断されていたキスが再開され、徐々に深くなっていく。
待って……まだ話したいことがあるの。
なのに息継ぐ暇もないほどの荒々しい口づけで、呼吸が苦しくなってしまう。
「ダメ……もう……勘弁して」
王太子はそんな私を見ていつものようにニヤリと笑うと、今度は真面目な口調で話し始めた。
「セリーナ、私は君が好きだよ。素直なところや面白いところ、他人を思う優しさのすべてが愛しくて、目が離せない。側にいて『ヴァン』と呼んで欲しいのは君だけだ。君は私をどう思う? 一緒にいても構わないと、少しは思ってくれるかな?」
真剣な目をしていたくせに、最後にウインクして茶化すところがこの人らしい。強引かと思いきや、きちんと私の気持ちを尋ねてくれる。彼を信じたいと思う。だけど、モテる彼の隣でずっと好かれる自信が、私にあるの?
「何も言えないなら、せっかくだから続きをしようか?」
私をからかう青い瞳。
思えばこの輝く瞳が、私はずっと好きだった。
私だって――貴方が好きだ。笑顔も困った表情もムッとする様子も全部が好き。私をからかった後、意地悪っぽく笑う姿も今では愛しく思える。できることなら偽物ではなく、本物の婚約者になってみたい。大それた願いなど、持たないように気をつけていたけれど。
ここにきて、私はようやく気がついた。
彼がどう思うか、ではない。
自分が彼のことを好きか嫌いか。
それならもう、答えは既に出ている。
私は青い瞳を真っ直ぐに見つめ返すと、縦に首を動かした。
「セリーナ……絶対にわかっていないね? ただの続きではない。もう止めることはできないんだ。それでもいい?」
こんな時、何て言えばいいんだろう。
別にいいけど?
それとも、よろしくお願いします?
どちらも違うような気がする。
それよりもまず、私は彼に自分の気持ちを伝えたい。今まで傷つくからと、怖くて誰にも言えなかった言葉。
恥ずかしいけれど、思い切って告げてみることにする。私は背伸びをして彼の首に腕を回すと、耳元にそっと囁いた。
「ヴァン……私も。あなたが一番好き」
ドキドキしながら王太子の顔を見る。
目を丸くして固まる様子が可愛くて、思わず笑ってしまった。 彼の驚いたこの表情を、私は一生忘れないだろう。たとえ拒絶されたとしても、素直な気持ちを言っておかないと、私も後悔するから……って、うわっっ!
私の腰を両手で掴んで高く持ち上げると、王太子はその場でくるっと回った。私は慌てて落ちないように彼の首に腕を回した。満足そうなその笑みと、はしゃぎっぷりが普段の彼からは想像できなくて、びっくりしてしまう。
「セリーナ、私は君が好き過ぎて、どうにかなってしまう! 最悪の日になるはずが、君のおかげで最高の一日になりそうだ。誰が何と言おうと、もう絶対に逃さない」
ヴァンフリード……青い瞳のヴァンは嬉しそうにそう言うと、私をギュッと抱きしめた。
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