朝の二人
連れて行かれたのは、見覚えのあるヴァンフリードの私室。磨き抜かれた高価な家具といつもの長椅子。その先は今まで知らなかったけれど、最もプライベートな空間である寝室へと続いていた。
彼は迷わず部屋を横切ると、私を広くて大きなベッドの上に横たえた。
「ま、まま待って! 王太子……様。ここって……」
「おや? セリーナ、呼び方が元に戻ってしまっている。ヴァンって呼ばなきゃダメだろう?」
「いや、呼び方よりも……こ、この部屋は!」
ヴァンフリードは青い瞳を煌かせると、楽しそうにこう言った。
「言っただろう? 『安全な場所に連れて行く』って。ここは王太子の寝室だ。私の知る限り、この部屋ほどしっかりした造りで安全な場所はないと思う」
「いやいやいや、ダメだから。結婚もしていないのに、一般人が王太子のプライベートな空間に入るっておかしいから」
「なんで? 君は私のものだろう? 婚約者だし、おかしくないと思うけど」
「おかしいって! 第一ものじゃないし婚約者でもないし。嫉妬させるためにそこまでするなんて!」
「婚約者じゃない? 嫉妬? 君はいったい何を言っている。いくら記憶がないとはいえ、昼間の私の言葉を無かったことにするつもり?」
う……どうしよう?
なぜか話が通じない。
「ああ、セリーナ。そんなに心配そうな顔をしなくても大丈夫。君が望むまでは何もしないから。私としては、一刻も早く君を『本物の婚約者』にしてしまいたいけれど」
私の髪を一房手に取り、口づけながら言う王太子。
どういう意味だろう? だって婚約をしてしまえば、お父様の側室であるローザと自由に会えなくなるのでは? それとも、正式な婚約者という隠れ蓑があった方が、彼女と堂々といちゃつける……のか?
そう考えて、ハタと気づいた。
そうか! ローザの昼間の言葉、『私とヴァンとはその……ほら、わかるでしょう?』っていうのは、もしかしてそういう意味? 自分達は男女の深い仲だから、邪魔するなってことなの?
私の記憶が戻ったことを知らない王太子。自分もすぐ隣に寝転がると、肘をついた手に頭を乗せ、面白そうにこちらを眺める。
「どうした? セリーナ。そんな目で見られると保証はできない。それとも君は、私の自制心を試してるの?」
「な、なななんで? 近い近い近い」
真夜中の寝室で超至近距離。ベッドは大きいはずなのに、互いの息がかかるほど近くにいる。「絶対安静」のはずなのに心臓バクバクで、まったく安静じゃないんだけど。
慌てて逃げようとしたら、上掛けをかけられて腕の中に閉じ込められてしまう。
彼はどうせからかっているだけだろうけど。チャラ……モテる王太子と違って免疫のない私は、こんな時にどうすればいいのかわからない。ギュッと目を閉じ身体を固くする。
「ごめん、意地悪を言い過ぎたようだ。緊張しないで楽にして? 君は身体を治す事だけに専念すればいい。これからは、私が君を守るから。もう二度と、誰にも君を傷つけさせない」
言いながら彼は、私の額に落ちた髪を、耳の後ろに挟んでくれた。くすぐったくて目を開けると、青い瞳がじっと見つめていた。優しい手つきと柔らかい眼差しに、胸がツキンと痛んでしまう。
だったらあなたからは?
私の心を一番傷つけるあなたから身を守るためには、どうすればいいの?
もちろんそんなことを言えるはずもなく、疲れていた私は、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
翌朝――
ぐっすり眠った私は、身体を起こして大きく伸びをした。疲れも取れて回復したからか気分爽快だ。
でも、ここってどこだろう? 何か大切なことを忘れているような……
「セリーナ、気分はどう? 私の隣で熟睡できたようで良かったよ。男としては、かなり自信を無くしたけど」
銀色の髪を朝の光に煌めかせた青い瞳の王太子が、寝室に入ってくるなり嬉しそうに声をかけてきた。彼は既に着替えを済ませているようだった。
「隣? ……って、ああぁぁぁ!?」
「どうした? 一夜を共にしたのに、色気のない叫び声を上げるなんて。まあ、そんな所も君らしくていいけれど」
「そ、そんな言い方をするのはやめて! だって、何もなかったのに……」
「どうしてそう言い切れる?」
「はい?」
ちょっと待て。
上掛けをめくって思わず自分の夜着を確認した。大丈夫、着衣は乱れていないし、特に変わった様子も見られない。というより、何かあったら疲れていたとしても、さすがに起きていると思う。
「ああ、おかしい。朝から君の可愛らしい反応が見られて嬉しいよ。もちろん、何もしていないよ。君と約束したからね。だけど、周りはどう思うだろう?」
「えっ?」
上機嫌なヴァンフリードは私に近付くと、甘ったるい声で囁いた。
「これで私達の婚約を止める者は誰もいない。反対されたとしても、朝まで一緒に過ごした事実があるから、黙らせるのは簡単だ」
「はあ!?」
「ねえ、セリーナ。私は言ったはずだ。出会った時から君が好きだと。記憶をなくしていても構わない。そろそろこの先を本気で考えて欲しい」
私の頬に手を当てて、真剣に語りかけてくるヴァンフリード。さっきまでふざけていたはずなのに、表情を一変させている。そんな顔をされると、胸が苦しくなるからやめて欲しい。
彼ほどの地位の人が、時間を割いてわざわざ世話を焼いてくれたのだ。私を好きだ、というのは何となく信じられる。だけどあなたは、他にもっと好きな人がいるでしょう?
高貴な身分の人は、好きな相手全てを自分のものにできるのだとしても、私は大勢の中の一人になるのは嫌だ。まして彼の最愛の女性との隠れ蓑に使われるなんて!
「あなたにはローザがいるでしょう? 彼女はどうなるの? それとも、このまま続けていくつもり?」
思わず聞いてしまった。
彼女との関係を知っていながら、黙ってはいられない。いくら好きでも、自分をたまにしか見てくれない人の側にはいられない。
「……ローザ?」
ヴァンフリードが顔をしかめた。でも、そんなことには騙されない。だって、あなたは彼女に『ヴァン』と呼ばせていたでしょう? パーティーで彼女の声を聞いた時、とても苦しそうだったもの。
「なぜこのタイミングでローザが出てくる? 君は何か知っているのか? それとも、誰かから聞いた?」
肩を掴んで私を揺さぶる。
どうして? 彼女の名前を出した途端、あなたがこんなに必死になるなんて。
やっぱり、私には無理だ。
あなたの愛が向こうにあると知りながら、彼女と張り合う事などできない。
「すまない。責めているわけではないんだ。何か手がかりになることを知っていたのかと思って……。お願いだ、泣かないでくれ。でないと、我慢できそうにない」
「手がかり?」
ヴァンフリードの言葉で、私は自分が泣いていたことを知った。だけど、気になったのはそこではない。
切羽詰まった様子の彼から、なぜか思いがけない単語を聞いた。王太子の顔を探るように見つめる。好きな人のことを話しているはずなのに『手がかり』っていうのは変だ。いったいどういう意味だろう?
「ごめん、もう限界だ!」
言うなり彼は唇を重ねてきた。
激しいキスに、息ができない。
どうした、突然。
今のどこにスイッチが入る要素があったんだ?
「ふわっ……」
またしても変な声が出てしまう。だって、舌まで絡めてくるから。苦しくなるのは、キスが深いから? それとも、ドキドキしていてうまく息が吸えないから?
「泣かないで、セリーナ……好きだよ」
優しくベッドに押し倒しながら、甘い声で言うのは反則だ。微笑みながら大事そうに、私の髪を撫でてくれる。大好きな深くて青い瞳が、私を見て嬉しそうに輝く。
そんな表情をされたら、頭の芯が痺れておかしくなってしまいそう。ふわふわして、目の前のあなたのことしか考えられなくなってしまう!
だけど、ヴァンフリードはそうでもなかったみたい。急に身体を起こすと、閉じたドアに向かって声をかけた。
「……何だ」
落ち着いた冷静な口調は、さっきとは別人だ。
「準備が整いました。いかがいたしましょうか?」
「すぐに向かう。そのまま待たせておいてくれ」
「かしこまりました」
王太子は私に向かってニッコリすると、こう言った。
「残念、邪魔が入ったようだ。セリーナ、続きはまた後で」
いや、しないから。
思わず流されちゃっただけで、次はないから。
「仕度ができたら、私の元まで案内してもらうといい。君の疑問も全て、解消されるはずだから」
何が言いたいんだろう?
「ねぇ、ヴァンフリード……様、それってどういう……」
「ヴァンだ」
振り返ってそれだけ言うと、彼は寝室を出て行ってしまった。




