戻らなければ良かったのに
誰かのすすり泣く声が聞こえる。
その声は、とても悲しそうで寂しそうで。暗い中で声を殺して泣いている。泣くまいとすればするほど、嗚咽が大きくなる。
応える者は誰もいない。
いつだってそう、一人ぼっち。
聞き覚えのあるこの声は……もしかして、私?
「すまない、悪かった。お願いだ、セリーナ。そんなに苦しそうに泣かないでくれ!」
声がしたので目を開けると、深くて青い瞳が目の前にあった。自分の方が泣きそうな顔をして、彼が必死に訴えかけている。
「良かった、気がついて。大切な君を危ない目に遭わせてすまなかった。医師を呼ぼうか?」
先ほどと変わらない状況のまま。私はベッドの上に腰かけたヴァンフリードの膝の上で、しっかり抱き締められている。頬をすり寄せ優しく話す彼は、私のことを本気で心配しているようだった。
深窓の令嬢みたいに気を失ったと思ったら復活! ってことは、あんまり時間が経ってないのかな?
激しい頭痛は鈍い痛みに変わっていた。けれどもう、頭の中は霧が晴れたようにスッキリしている。
「大丈夫か? 一瞬、気が遠くなったようだけど……。何も知らせず悪かった。だけどこうでもしない限り、証拠が揃わなかったんだ」
やっぱり――
彼は『婚約者』という名で私を囮にして、また悪者を捕まえようとしていたのね? それならそう言ってくれれば良かったのに。変に構ってくるから、期待をしてしまった。私のことを一番好きなんじゃないかと勘違いしてしまった。
「何か言ってくれ、セリーナ。恨み言でも何でもいい。君の声が聞きたい。元気なようならさっきのことも含めて、全てを説明するから」
掠れた声で髪に頬ずりしながら話すのは反則だ。そんなことをされたら、私のことを『大切な人』だと言う彼の嘘を信じたくなってしまう。
けれど、戻った記憶がそうではないと告げている。彼が本当に好きなのは、彼の名をごく自然に『ヴァン』と呼んだあの人。
だって、グイード様も言っていた。
『……ヴァンと彼女とは因縁があるからね』
『恋愛ってなかなか思い通りにはいきませんよね』
私がそう聞いたら、グイード様はこうも言った。
『そうだね』
あれは、甥である王太子の気持ちを代弁していたのだと思う。もしくは、質問した私の気持ちがバレていた?
記憶なんて、戻らなければ良かったのに。
そうしたらきっと、私は夢の中にいられた。ヴァンフリードが……王太子であるヴァンが本当に私のことを好きだという幸せな夢の中に――
「くっ……うう……うぅ……ひっく……」
「どうした、やはりどこか痛むのか?」
やばい、泣けてきた。
顔を近づけ心配そうな声を出し、おろおろする王太子。
あなたが悪いわけじゃない。あなたを好きになってしまった私が情けないだけ。みっともないのはわかっているけど、涙が止まらない。昨日の昼間はあんなに幸せだったのに、今はもう、こんなに悲しい。
ヴァンが私に好きだと言ったのは、彼女に嫉妬させるため? 同じような背格好の私を隣に置いて、彼女を振り向かせたかっただけなの? でも、あなたの好きなあの人が、ジュールを味方につけて私を狙わせたのだと言ったら……。あなたは私を信じてくれるのかな?
でも待てよ。
気を失う前に「茶番か?」って聞こうとしたら、黙らせたよね。「ジュールが関わっていた」って言おうとしたら、無理やり口を塞いだよね。それってどういうこと?
まさか、ローザが私にしようとしていたことを、始めから知っていたとかじゃあないよね? わかっていながら彼女の罪を庇うために、私を黙らせようとしたわけじゃないんだよね?
いけない、考えだしたら本格的に気分が悪くなってきた。吐きそうになったので、口に手を当て我慢をする。
「うぐっ……くっ」
「誰か! 誰か来てくれ!」
我ながら弱っちくて情けない。
急に許せなくなったから、王太子から離れようともう片方の手で彼の胸板を押す。
けれど……
放してもらえないのは何でだ?
「すぐに医師を呼んでくれ! それと、何か受け止める物を。彼女が安心して眠れるよう部屋を整えておくように」
駆けつけた護衛や女官に指示を出している。そっとしておいてくれれば、そのうち治まると思うんだけど。こうなった原因はあなただから。離れてくれたら嬉しいし、自分で何とかできるから。
大げさにしないで欲しい。
そんな風に優しくされたら、ローザよりも私の方を好きなんだと勘違いしてしまう。
「ほら、無理しないで。つらければ寄りかかるといい。君はもっと私に甘えていいんだ」
違う、逆!
放して! できればそっとしておいて欲しいの!
そうこうしているうちに、医師がやって来た。いろいろ触られて次々に調べられている。その間も王太子は、ずっと私に付き添ってこの場を動かない。真剣に見ている青い目が怖い。
診断結果は『過労』。
元ヤンともあろうものが、情けない。
たったあれっぽっち動き回っただけなのに「絶対安静」と言い渡されてしまった。
何てこったい! 一刻も早くここを出て、家に帰りたかったのに……
部屋は窓が割れっぱなしなので、カーテンが変な様子で揺れている。怖くはないけど、ここで横になるのはちょっと嫌な感じだ。そう思っていたら、ヴァンフリードが私の膝の裏に手を入れて抱え上げた。
「うわ、ちょっと……何!?」
「安全な場所に連れて行く。まさかここで、安心して過ごせるとは思っていないだろう?」
いや、まあそうだけど。
でも、横抱きにする必要はないんでないかい? 義兄に見られたら、何て言われるか。うろたえる私に気づいたらしく、長い足で廊下を歩きながら王太子は言った。
「ああ、大丈夫。オーロフには今、調査に行ってもらっているから。君の厳しいお目付け役ならいない」
「……だったら!」
余計にこんなことをしてはいけないと思う。いくらローザに振り向いて欲しいからって、嫉妬をさせるために私といるのはよくない。
王太子が私を抱えて廊下を歩いているのを目撃されたら……。夜中に夜着姿の私をお姫様抱っこって、噂になるのは目に見えている。それとも、もしかしてそれが狙いだとか?
「言っただろう? 君は私の婚約者だって。早く思い出してくれればいいのに……」
そんな情感たっぷりに言われても。
実はもう、思い出してる。
ヴァンフリードの言動やあーんなことやこーんなことも。だけど今それを言ったら、ややこしいことになりそうだ。
確かに「半年間、カレントの大使が帰るまで婚約者のフリをする」と約束した。だけど別の女性を好きな彼の『偽の婚約者』だなんて。そう振る舞うのはつらすぎるし、半年なんてとてもじゃないけど耐えられない。だったらこのまま、しらばっくれた方がいいような気がする。
彼が私を運んだ先、それは見た事のある例のあの部屋だった。




