あなたの名前
「どうかな、セリーナ。私の事を少しは思い出せた?」
王太子はそう言って、ちょくちょくこの部屋を訪ねてくる。
こいつ実は暇なんじゃね? と思ったが、どうやらそうでもないらしい。だって、昨日も兄が怒って連れ戻しに来ていたから。
まったく、イケメンだからって何しても許されると思うなよ? 仕事は真面目にしておいた方がいいんだぞ?
とはいえ、気にかけられているのはすごく嬉しい。兄も十分過保護だけど、王太子は更にそれを上回っている。まあ、元々面倒見が良くて優しい性格なんだろうけど。だからアタ……私も、つい甘えてわがままを言ってしまう。
「いんや。あ、でもさっき食べたフルーツ入りの焼き菓子には覚えがあるかも」
「そうか。だったらもっと用意させよう。他には? 何でも言ってくれていいから」
「じゃあ武器と鎧と動きやすい服?」
「そんなものを欲しがるなんて、やっぱりセリーナは面白いね」
「……え?」
「冗談は止めてくれ」そう言われて、ムッとされるかと思ってたのに……
この人、もしかして本当に私のことをよく知っている? 本性を知ってて笑い飛ばしてくれるのか?
失礼な態度でも彼はそのまま受け入れてくれる。それどころか時々、熱のこもった青い瞳で見つめてくる。
どうしてだろう。どうして私は、何も憶えていない相手に心が動くんだろう? 胸が時々苦しくなるのは何でだ?
考えていると声をかけられた。
「全部は用意できないけれど、それならこれを」
渡されたのは、鞘に赤と青の宝石が埋め込まれた銀の短剣。束には二つの薔薇と剣の紋章が入っている。どう見てもこれは王太子個人のもの。気軽に預けていいもんじゃないような。
「いや、何も今すぐ武器が欲しいってわけじゃなくて……」
言った途端に後悔した。
拒絶しようとしたら、悲しそうな顔をされたから。
いったい何なんだ? 何でそんなに構おうとする? 王太子だし、顔もいいから話し相手なんてよりどりみどりだろうに。こんな高価なものを渡さなくたって、彼に寄って来る女性なら、いっぱいいるはずだ。
「セリーナ、せめてここにいる間だけでも、持っていてもらいたい」
おいおい、城の中ってそんなに物騒なのか? 四六時中護衛や侍女が張り付いているから、実家にいる時より安全なんだけど。まあ、武器は嫌いじゃないから、ちょっとぐらいなら預かってやってもいい。
「それなら今だけ。だけど貸出料とか払えないから」
「そんなものは要らない。本当はもっと特別なものをあげたかった」
「いや、いい。必要ないし。それより、そろそろ仕事に戻らないとまずいんじゃないのか?」
本気で心配になる。
王太子がフラフラしていると、やばいんじゃないのか?
「じゃあセリーナ、私の名前を呼んで? そうすれば、今日も一日頑張れそうな気がするから」
何じゃそりゃ?
名前呼ばれただけで頑張れるって、安上がりじゃねーの?
でもまあ、三食昼寝付きで居候している身だ。だいぶお世話になってるし、少しくらいなら言う事聞いてあげてもいいかもな。
「名前って?」
「そうか……君は本当に、私のことを忘れているんだね」
彼は寂しそうに呟くと顔を近づけてきた。意味深な顔はやめろー。見ているこっちまで戸惑ってしまうから。
何も憶えていないはずなのに、胸がキュッと苦しくなる。そんなに切ない表情をされると、どうしていいのかわからなくなってしまう。
「ヴァンだ」
「ヴァン?」
なぜだろう?
その名を口にした瞬間、何かを思い出せそうな感じがした。彼の嬉しそうな笑顔を、前にも見た事がある気がする。胸がチクリと痛む。この感情は、何だ?
だけど同時に、頭の中で声が響く。
――ヴァンと呼んではいけない。彼をそう呼んでいいのは、彼の好きな人だけ。
「ええっと王太子様、もしかして本名は別にあるんじゃあ……」
「ヴァンフリード=アルバローザというのが私の名前だ。だから、ヴァンで合っているよ? まあその名は、許した者にしか呼ばせていないけれど。私と踊った時、君は愛称の方で呼んでくれた」
そ、そうなのか?
それなりに親しかったってこと?
でも私、ダンス踊れたっけか?
青い瞳が刺すように私の反応をじっと見ている。
……ゴメン、やっぱり全然思い出せないや。困った顔で見返すと、彼は肩をすくめた。
「じゃあ、私はこれで。寂しくなったらいつでも、呼び出してくれて構わない」
王太子……ヴァンはアタシの頬にサッとキスを落とすと、護衛と共に退室した。
な、なな何~~!?
突然のことに固まってしまう。
そうかと思えば急に顔が熱くなってくる。キスされた部分に手の平を当てて考える。
うん、ちゃんとわかっているよ? これって確か挨拶だったよな。特別な意味なんてないんだよな。こっちの世界に慣れてないから、驚いてしまった。ドキドキしてるの、そのせいだから。
大丈夫、自分の立場はわかっている。
たまたま倒れたのが城の中だったから、ここで看病されてるだけ。責任を感じた王太子に残るように言われているだけだ。
それに、「仕事が立て込んでいるので王太子様の邪魔をしないように」と今朝も兄からきつく言われたばかり。私の方から呼び出すなんてもっての他だし、するつもりもない。
だから向こうが来た時に、ほんの少し軽口を叩いているだけ。別に、顔を合わせるのを楽しみになんかしていない。退屈だからって扉の方なんて見ていないから。
王太子……ヴァンはどうしてここに来るんだろう? 毒を口にしたからって怒って訴えるわけないのに。それとも、この世界のセリーナが可愛いから? 水色の髪と緑の瞳が好きだとか?
出歩いてないからわかんないけど、女官だけを見ても、周りはみんな美人だ。城には他にも綺麗な人がたくさんいるんじゃなかろうか?
私の所にわざわざ来なくたって、彼なら他でいくらでも時間が潰せそうだ。責任を感じて心配するにしても、ちょっと度が過ぎていると思う。
まあ、あんなに優しくて誠実なら、きっとモテモテなんだろうけど。
暇なせいか、ついヴァンのことばかりを考えてしまう。
いけない、王太子って偉い人だ!
ここにいる間は親切でも、城を出てしまえば一切関わりのない人。
まあ、これはあれかな。
運動不足でうじうじしているせいだよね?
身体を動かそうと思った私。
そういえば……とベッドの上にあぐらをかいて、貸してもらった短剣を鞘から外してじっくり眺める。
すんげぇ高価なだけでなく、刃も光っていて鋭そう。得意なのは木刀とか角材だけど、これはすぐに使えそうだし悪くはないかも。
っていうか記憶がちょっぴり抜けてるだけで、身体の治りは順調だから。
「あ、ヴァンに明日帰りたいって言うの、忘れてた」
ずっとベッドの上で生活していたから、身体が鈍って仕方がない。つい甘やかされてゴロゴロしていたけれど、そろそろ現実に戻らないといけない。
そう思ってベッドから床に降りた途端、扉の向こうから来訪を告げる声がした。
「セリーナ様、ご面会の方がいらしてます」
あ、ちなみにここは二階で、部屋の外に常に護衛が見張っている。だから私がいいと言うまで、誰も中には入れない……王太子以外は。
でも、誰だろう?
医者の時間は終わったし、どうせ義兄以外覚えていないから、会っても仕方がねー……ないんだけど。無視することもできないので、短剣を枕の下に隠して許可を出す。
入ってきたのは、やはり見覚えのない人物だった。




