抜け落ちた記憶
途方にくれていたら、続けて部屋に飛び込んできた者がいる。
「リーナ! お前、大丈夫なのかっ」
慌ただしいのは兄貴……義兄のオーロフ。
ああ、良かったホッとした。
ようやく知っている顔が現れた!
この世界に転生して間もないせいで、アタシには知り合いがいない。ここでの暮らしに馴染もうと、必死に伯爵令嬢としての教育を受けているところだ。今のアタシ――セリーナは身体が弱かったせいで、ずっと床にふせっていたのだという。そのせいで、まだ庭にしか出してもらった事がない。だとすれば、見たことがないだけで、ここは伯爵家の一室なのか?
兄は銀髪の青年に頭を下げると、すぐ横にやって来た。兄の方が年上に見えるのに礼をするなんて、この人そんなに偉い人? 不思議に思って二人を見比べる。アタシの視線に気づいた義兄が、質問をしてきた。
「リーナ、大丈夫か」
まあ、平気と言えば平気かな?
義兄のオーロフの顔を見ながら頷く。
彼は私をセリーナではなく、リーナと呼ぶ。
何でそんなに心配そうな顔をしているのかよくわかんねー……ないけど。いけね、言葉遣いに気を付けなくっちゃ。兄は案外厳しい。
「リーナ、何が起こったのか覚えているか?」
何が起こったか?
そういえば、何でここにいるのかわからない。
兄の言葉にアタシ……私は首を横に振る。
「では、私のことはわかるか?」
さすがにバカではないから、それくらいはわかる。アタ……私は縦に首を動かした。
「では、この方々は?」
銀色の華やかな兄妹?
見たことがあるような気もするけれど、やっぱりよくわからない。
私は首を傾げた。
「……!」
「そんな!」
息を呑む青年と、その隣でショックを受ける美少女。どうしてだろう? さっき『婚約者』だって言ってたことと関係があるのかな?
「少しよろしいですか?」
話しかけてきたのは近くにいたお医者さん。
うちの医者ではないような。
目や舌や口の中を見られたり、いろいろ触られたりしている。だけどわけがわからない。
「お名前をお聞かせ願えますか?」
「セ……リーナ=クリス……テル」
無理に声を出して思った。
いったい何だ?
このガラガラおっさん声は。
「ここがどこだかわかりますか?」
「……ベッド」
決してバカにしているわけではない。
なぜか風邪をひいた後のように喉が痛くて、なかなか声が出せないのだ。なるべく喋りたくない。
「すみません。質問を間違えました。あなたは今までどこにいましたか?」
「家」
答えは簡潔な方がいい。
だって、声を出すのが辛いから。
それともちゃんと「前は日本にいた」っていうべきだった?
「今はいつですか?」
ええっと、この世界の暦ってどうだったっけ?
いけない、ど忘れしたみたいだ。
その後も、医者はア……私に簡単な質問をしてきた。
ほとんどが答えられるものだったけれど、なぜか時間や人物、場所に対して知らないことばかりを聞いてくる。今が朝か昼かもわからないし、この部屋が何階にあるのか、そもそもどうしてこんな所にいるのか……そしてこの人たちが誰かだなんて、初対面だし答えられるわけがない!
「セリーナ、本当に私の事がわからないの?」
医者の横から顔を出す、銀髪のイケメン。なぜかひどく悲しそうな顔をしている。
何でだ?
まさか本当に婚約者だったっていうんじゃあ……
いや、やっぱねーな。
まったく覚えてないんだから。
医者は兄貴ではなく、なんと銀色頭の方に説明を始めた。
「一時的な記憶の障害が見られます。毒で息ができなかった影響かと。身体の方はもう少し回復して詳しく知らべてみないことには、何とも言えません」
何かスゲェやべぇ単語を聞いた気がする。
毒? なんだ、毒って。
記憶に障害?
頭がボーっとしているだけなのに?
身体も調べるって何だよ。
このまま動かないってことはないよな?
前のセリーナみたく、ずっとベッドに縛りつけられるのは嫌だ。考えたら、すっげー怖くなってきた。でも、声を出すのも辛いから叫びたいのを我慢する。だけど、ショックで涙が浮かんでくるのをどうすることもできない。おかしいな、こんなに弱えぇ奴だったか? アタシ。
「ごめん、セリーナ。私がもう少し早く気が付いていれば……。大丈夫、君はすぐに良くなる。犯人もすぐに捕まえるから」
銀色頭はベッドに腰かけると、すぐ側で優しい声で囁いた。苦しそうなその顔は、見ているこっちまでが辛くなる。彼は白い手袋を嵌めた人差し指で、私の涙を優しく拭った。
真剣に見つめる深くて青い瞳がすぐ目の前にある。
何でだろう?
初めて会うはずなのに、なぜこの青に見覚えがあると思ってしまうんだろう? 彼の見せる表情に胸が痛くなるのは何でだ? 手を伸ばして「心配いらない」と言いたくなるのは何でなんだ?
彼は私の頬を両手で挟むと、そのまま唇が触れ合いそうなほど顔をぐっと近づけてきた。
「いい加減にして下さい、ヴァンフリード様。リーナは病人で、あなたのことは全く覚えていないようです」
後ろにいた兄が、銀色頭を引き剥がす。
ナイスだ、兄貴。
なんだかよくわかんないけど、ドキドキが止まんねぇ。
「焦り過ぎね、お兄様」
人形よりも可愛らしい美少女が、横でボソッと呟くのが聞こえた。
後から義兄のオーロフに聞いた話によると、ここは城の一室。何でもアタ……私は先ほどの美少女と赤毛の女性とお茶をしていたらしい。城って……来たことないって言いたいけれど、どうやらそうでもないらしい。私は、ここ半年ほどの記憶が頭から抜け落ちているんだそうだ。
その間にさっきの銀色頭や美少女だけでなく、赤毛の女性やいろんな人とも知り合いになっていて、ちょくちょく城にも来ていたんだとか。
スゲェな、私!
まあ、全然覚えてないんだけど……
そんな私が記憶を失くす原因となったのが、『毒』。紅茶用のミルクの中に入っていたらしい。
当初、給仕の若い女性が疑われた。
でも、身元がしっかりしていたし、証拠がなかった。
次に疑われたのは、赤毛のベニータとかいう人。彼女は公爵令嬢で、銀色頭のことが好き……らしい。だから、彼女を調べたけれど、やっぱり関係なかった。というより、その人に命を狙われるほど、私は銀色頭と仲が良かったのか? よく覚えてないんだけど。
ルチアちゃん――あ、銀髪の美少女のことね! いわく、ベニータの『勝手な逆恨み』らしい。結局何もしていないのに逆恨み呼ばわりされるとは、ベニータとかいう人も気の毒に。
じゃあいったい誰が犯人なのかというと、現在調査中とのこと。近いうちに捕まるだろうとのことだった。
それでも「危険だからセリーナを一刻も早く家に連れて帰りたい」と言った義兄に対して、「ここの方が最高の治療ができるし、守りは固めるから大丈夫だ」と、銀色頭が強硬に主張したそうだ。
そうそう、銀色頭はなんと王太子だった!
兄から聞かされた時は、ビックリしてしまった。でも、慣れ慣れしかったのはそのせいか、とちょっと納得。その王太子がアタシのことを、なんと『婚約者』だと言っているのだとか。まあ、義兄がきっぱり否定していたから、やっぱ違うと思う。
そんなわけで、城の一室にお世話になったまま、三日が過ぎようとしている。徐々に身体も動くようになってきたから、完全復活まではあと少しだ。




