『夜明けの薔薇〜赤と青の輪舞曲』序章
どれだけの時が経過したのだろう?
どんな顔をして会えばいいの?
私は今朝、真実を聞かされたばかり。
あの人は……私の愛する彼は、罪を犯してしまった。
「私のため」だと言うけれど、到底赦されることでは無い。
私が存在しなければ、起きるはずもなかった出来事。
いつものように、貴方は笑う。
貴方の甘い唇が私の首筋を這い、手が慈しむように私の肌をまさぐる。かと思えば狂おしいほどの情熱を、私にぶつけてくる。
重ねた身体。絡み合う吐息。抑えきれないむき出しの激情。
こんなに近くにいるのに、こんなに深く繋がっているのに、貴方の心だけが遠い。
貴方は私を「愛している」と言いながら、私自身を見ようともしない。私の望みを、わかってもくれない。私はただ、貴方と一緒にいられれば、それだけで良かったのに――。
「……どうして!」
「どうして? そんな事を聞くのか。君を愛するのに理由は要らない。君はここで美しく咲けば良い」
「あなたはこれが愛だと言うの? こんなのは愛じゃない。いくら何でも間違っているわ! あなたはおかしい……」
「狂ったと言いたければ言えばいい。全ては君のせい。例え嫌がられても離すことなど出来ない! 強く憎めばいい。深く恨めばいい。もう後戻りは出来ないし、するつもりもない」
「そんなっ!」
――私は絶望の淵に沈んだ。
こんなはずでは無かった。
こんな風に変わってしまうとは思わなかった。
貴方を愛した事さえも、間違いだったと言うの?
どうしてわかってくれないの?
私は、こんな愛の形など望んでいなかった。
いったいいつから、歯車は狂ってしまったのだろう。
いったいどうして、貴方はおかしくなってしまったの?
狂気と愛の狭間で足掻く貴方を、それでもまだ愛しいと思う自分も同じ罪に堕ちているのかもしれない……。
隣で眠る貴方を見つめる。
寝顔だけは、優しく穏やか。
私はそっとベッドを抜け出し、バルコニーに出てみる。
朝の光が眩しい。
新鮮な空気はいつだって清らか。
けれど……。
私に自由は無い。
私はここから、出る事さえ許されていない。
白い手すりを背に、絶望に駆られて空を振り仰ぐ。
よく晴れた青空に白い鳥が飛んでいるのが見える。
くっきりしたその対比に、思わず涙が零れる。
『私は自由になりたい。私は戻りたい。貴方と出会う前の、愛を知らない自由な自分へ――』
いくら好きでも、こんな愛など要らない。
困ったように開き戸の側に佇む貴方。
私がいない事にすぐに気がついてしまったのね?
腕を組み首を傾げて貴方は私を見る。その美しい瞳で。
罪や穢れなど全て無かったというかのように……。
そんな姿でさえも愛おしい。
貴方の過剰な愛を私は赦してしまっていた。
けれど貴方は愛の意味さえ、わかっていなかった。
こんなにも貴方を愛しく大切に想う、私の気持ちさえも。
私のせいで貴方が壊れていく様を平気な顔で見ている事などできない。これ以上貴方に罪を重ねて欲しくもない。なのに私の声が、私の心が、あなたに届かないと言うのなら……。
……それなら私が逝きましょう。
貴方に罪を重ねさせるわけにはいかないもの。
私のせいで狂うと言うのなら。
せめて貴方がこれ以上苦しまないよう、せめて心安らかでいられるよう私の方から消えましょう。それで貴方の魂が救われるといいのだけれど。
――もう、いいでしょう?
もう十分なのではないかしら?
貴方と共に過ごせて良かった。
その気持ちに、偽りはない。
私はこの世の誰よりも、貴方を愛している――。
最初からこんな結末だと知っていたなら、私は貴方を好きにはならなかったのかしら?
いいえ、それでも私は貴方を愛した。
別の誰かなんて要らない。
深く愛した事、今でも後悔はしていない。
泣きそうな表情で真っ直ぐ貴方を見て、最期に一度だけ無理に笑う。
『愛しているわ』唇の動きだけで、そう伝える。
それは、一瞬――。
私の意図に気付いた貴方が、驚愕に目を見開く。
私はそのまま背を仰け反らせ、床を蹴って手すりを乗り越えると、背中から宙に身を躍らせた。
白いドレスの裾が、鳥のように空を舞う――。
「――っ! セリーナっっ!!」
慌てて手すりに走り寄る。けれどもう、遅かった。
「そんな……セリーナ、どうしてっ!」
『ラズオルの青薔薇』は崖下の海に呑み込まれ、見えなくなってしまった。永遠に続くと思われた幸福な時間は、突然終わりを告げた。
虚しく叫ぶ声も慟哭も、彼女に届く事は無かった――。




