私の名前は……
気づいた時には、真っ白などこかに立っていた。
「もういい。知らない場所で、よく頑張ったな」
この口調は、誰のものだろう?
振り向く影はぼんやりして、よく見えない。
「……あなたは、誰?」
問いかけた私に、その人が低い声で笑う。
「あなた? ずいぶん他人行儀だな。父ちゃんを忘れたのか?」
「父ちゃん!?」
そうか、これは大好きな父ちゃんの声だ。
あたしは急いで駆け寄る。
「ああ、良かった。父ちゃん、あたしを待っていてくれたんだね? ずっと迷子になった気分だったよ」
「迷子? その割には元気そうだな」
迷子と元気は関係ないと思う。
でも、久しぶりに会った父ちゃんがあたしを心配しているとわかって、とても嬉しい。
久しぶり――?
ふと何かが引っかかり、あたしは立ち止まる。
「どうした? 早く来ないと置いていくぞ」
「うん、そうだね。……ねえ、ここどこ?」
真っ白な霧が立ちこめた中に父ちゃんとあたしだけが立っていて、他は何も見えない。音も匂いもないので、なんだか奇妙だ。
「父ちゃん……」
「どこでもいいだろう? 一緒に行くのか行かないのか」
「もちろん行くよ!」
あたしは叫んで、大好きな父ちゃんの腕を取った。
父ちゃんは、大きな手で私の手を握り返してくれる。
良かった、いつもの父ちゃんだ。
優しいかと思えば冷たくなって、だけどまた優しくなる。
――本当に?
違和感を覚え、首をかしげる。
「ぐずぐずするなら、置いていくぞ」
「……う、うん」
……まあ、いいか。父ちゃんをこれ以上怒らせてはいけない。
遠くの方に、小さな灯りが見えた。
父ちゃんは、そこを目指しているようだ。
「帰ったらコンビニに行く? テレビで見たスイーツに可愛いのがあって、そのぉ……」
ねだるように父ちゃんの顔を見上げるけれど、表情がわからない。ちょうど霧で隠れて知らない人のようにも見え、なんだか怖かった。私が怯んだ直後、後ろの方で声がする。
『――ナ』
優しい響きに、なぜか胸がキュッとした。
気になって、あたしは振り向く。
霧の中にぼんやり浮かぶあの影は…………?
その人は白い服を着ているらしく、金の飾りだけが浮いて見えていた。
『……恋に気づけなかった愚かな男の話でもする?』
声がなんだか寂しそう。
――お願い、そんなに悲しまないで。私の好きなあなたは、もっと楽しそうにしていたでしょう?
ふいに頭の中で、女の人の声がする。
私の好きなって?
あたしは父ちゃんが好きだけど、あなたは違うの?
「いい加減にしろ! いつまで待たせる気だ」
しまった、あたしのせいで父ちゃんの機嫌が悪くなった。
ぶたれる前に、言う通りにしよう。
「ごめんなさい。お願いだから、置いて行かないで」
自分の言葉に胸の痛みが増す。
あたしは急いで振り返り、別れを告げる。
「白い服の人、ごめんなさい。あたし、父ちゃんと行くから……バイバイ」
どうしてわざわざ断るのか、自分でもよくわからない。けれどどうしても、挨拶をしておきたかったのだ。
私の声が聞こえないのか、はるか後ろに立つその人は、まだ何かを話している。
『……君はどんな話が好き?』
――あたし? 絵本もいいけど、本当は物語が好き。戦う話はカッコいいし、冒険ものはワクワクする。父ちゃんと違って、彼はいつもあたしの意見を聞いてくれた。明るく優しく稽古の時は厳しくて、笑うと大きな目が猫のように細まるのだ。
あたし――いえ、私は彼を知っている!?
『セリーナ、君が目を覚ましてくれるなら、僕は自分の命を差しだしたっていい』
「やめて! そんなことをしないで」
降り出した雨の中、思わず叫ぶ私。
すぐ横で、父ちゃんが苦々しげに吐き捨てる。
「ふざけるな! 人がわざわざ迎えに来てやったのに、急がないと濡れるだろ。これだからお前はハズレなんだ」
父に罵られた瞬間、全てを思い出す。
小さな頃にハズレと言われた私は、父にとっくに捨てられている!
その後は――。
突然大きく成長した私は、偉そうに腕を組む。
父に向かって、同じように吐き捨てた。
「うるっせえ、お前こそハズレだよ。なーにが、わざわざ迎えに来てやっただ。どうせ所持金なくして、仲間に見捨てられたんだろ? 今になってようやく捨てた娘を思い出したってわけ?」
「……なっ」
父が目に見えてうろたえる。
楽しいことや賭け事が大好きな父は、中身が子供のまま、いつまで経っても成長できなかった。子供は子供を養えない。彼には初めから、親としての資格や資質がなかったのだと思う。
そんな父に振り回されハズレと言われた私は、どんどん自信をなくしていった。だけど、今は違う。
「生み出してくれたことには感謝している。でもね、親が子を全否定するのはダメだ。それに、私の世界はここじゃないから、一緒には行けないよ」
戻りたい場所がある。
大切な人達がいる。
そこには、愛するあの人だって待っている。
大きな娘に反抗された父が、珍しく頭を下げた。
「紅、すまなかった。過去は水に流して、もう一度やり直そう」
それって、加害者のセリフではないような……。
私は首を横に振る。
どうせ未来を築くなら、父ではなくて彼がいい。
だから父とも、前世の乱暴だけど心の弱い自分とも、ここでお別れだ。
私は自信を身に纏い、品良く微笑む。
「紅とはどなたのことですか? 私はセリーナ。還るべき場所がある者です」
――さようなら。私はもう、過去に心を囚われない。
呆然と立ちすくむ父を残し、私は彼の元に駆け寄ろうと身を翻した。
走り出した途端、ジュールが告げる。
『……心の底から愛していると、言わせてほしい』
「待った待った待ったぁ! せっかくだから、遠くじゃなくって直接聞かせてえぇぇぇ!!」
私の名前はセリーナ。あなたが私を見つけてくれたから、私はあなたと帰りたい。
そう思ってジュールに近づこうとするけれど、身体がひどく重くて手足も自由に動かない。残念そうに肩をすくめたジュールが、私に背中を向ける。
――ダメ、待って。お願いだから行かないで。
私は前に進み出そうと、全身に力を込めた。
「セリー…………ナ? セリーナッ!!」




