だからあなたに伝えたい
「ほほほ、いい気味だわ」
ジュールの姉が途端に元気を取り戻し、靴のつま先で私の手を踏みつけた。
ただでさえ危ないのに、こんなことをするなんて……。
もしかして、本気で私を消そうとしている!?
目の焦点が合っていない彼女を、興奮させてはいけない。
かといってこれ以上踏まれたら、片手一本で身体を支える自信がない。
――どうしよう?
焦りと恐怖が増す中、私は必死に考える。
すると従者がようやく動き、ジュールの姉を羽交い締めにした。
「エリシア様、こちらへ」
「何するのよっ!」
そのまま彼女を手すりから引き剥がし、バルコニーから追い出してくれたようだ。
「とりあえず、命拾いはしたけど……」
ほっとしたのもつかの間。
海からの風が強く吹きつけ、身体が大きく揺れる。白いエプロンがはためき、髪を結んでいた紐が取れた。手すりを掴んだ手に力を入れるものの、もう片方の手は全く届かない。
腕一本では身体を引き上げられず、もうすぐ限界がきてしまう。
「お願い、早く戻ってきて!」
さっきの従者を待っているのに、一向に姿が見えない。
「どこに行った? まさかこのままなかったことにして、見捨てるつもりじゃあ……」
不安に駆られたその時、追い打ちをかけるように石の手すりに亀裂が走った。
「な、なにごと!?」
古くなった手すりは脆く、パラパラと石が崩れて崖下に落ちていく。私はなりふり構わず、大声で叫んだ。
「誰か、誰か助けて!!」
バキッと音がして、手すりが傾く。
かろうじてバランスを取るものの、下手に動けば手すりが根元から外れそうだ。
「ここまで……か?」
すると、頭上で声がした。
「セリーナ!!」
聞き慣れた声がして見上げれば、待ち望んでいた人が立っている。
幻覚? いや、違う。あれは……。
「ジュール様!」
ジュールが床に伏せ、こちらに向かって手を伸ばす。
彼の指が手に触れた瞬間、私は安堵の吐息を漏らした。
「はあ……って、うわっ」
「危ないっ!」
安心したせいか、手の力が緩んだようだ。
ジュールがとっさに手首を掴んでくれたおかげで、崖下への転落は免れた。
「セリーナ、まだだ。引き上げるまで頑張って」
「はい」
ジュールの声に励まされ、怖さは薄れた。
急に力が湧いた気がして、私はもう片方の腕をバルコニーの床に伸ばす。
「くっ……」
――あともうちょっとで届きそう。
しかし、一瞬の油断が命取りだった。
「ひゃあっ」
「なっ……」
海上から吹きつけた突風が、私を身体ごと吹き飛ばす。掴まれていたはずの手は外れ、もう片方の手も虚しく宙をかく。
「セリーナッ!」
信じられない思いで、彼を見た。
迷わず身を乗り出すジュールだが、もはやその手は届かない。
私は仰向けの姿勢で、海に向かって落ちていく。
「セリーナーーッ」
悲痛な叫びが上から聞こえた。
大好きな琥珀色の瞳が潤んでいる気がして、私は微笑む。
「愛しているわ」
好きよりももっと強い言葉を、唇に乗せた。
消えゆく今だからこそ、あなたに伝えたい。
きっともう、届かないけれど――。
あなたと一緒にいられて、私は幸せだった。
好きだと言われないまでも、「ずっと側にいてほしい」と告白してもらえたから。彼と過ごした時は楽しく、笑いに満ちていた。おかげで不幸な前世を忘れられたし、未来を夢見ることができたのだ。
――ごめんなさいジュール、悪いのは私だね。貴方はためらわずに、その手を伸ばしてくれたのに……。
強い風は白いエプロンを翻し、涙さえも吹き飛ばす。
お姉さんに続いて私も転落したので、優しいジュールは心を痛めるかもしれない。
――気にしないでと言えば良かった。いや、やっぱり少しは気にしてほしい。彼は私を、時々思い出してくれるかな?
最期に考えたのは、もちろん彼のこと。
ジュールを想うと、自然に口が綻ぶ。
再び突風に煽られた私は、何か硬いものに叩きつけられた。
そして――…………何もわからなくなった。




