甦った記憶
「何……どういうこと?」
兄様の衣裳部屋には、当然彼の服がかかっている。
けれどその他に、夢で見たリーナの青いドレスも大事そうにしまわれていた。なぜか破れ、繕った跡がある。
「どうしてここに?」
なぜ彼女のものが、ここにあるのだろう?
他にも白いドレスや大人っぽい小物が出てきた。
当然、あの青いショールも!
私はショールを手に取り、額に押し当て考える。
頭がすごく痛い。
やっぱり熱があったみたい。
だるくて、顔に熱が集まるのがわかる。
だけどそのまま、しばらくじっと考えた。
――私はこのショールを知っている?
これは城の舞踏会に行く途中、兄が馬車の中で私にかけてくれたもの。青いドレスは露出が多かったため、「ずっとショールを羽織っていた方が良い」と、前を合わせながら口にしたのだ。
それと全く同じショールがここにある。
酔って帰ったあの日、兄はこれを大事そうに抱き締めていた。
まさか!
まさかそんなことって……
次々と溢れ出る記憶に、思考がついていけない。
頭の中で目まぐるしく変わる景色、いろんな色や言葉、そして人の顔。
ここがどこかも忘れ、私は焦る。
待って、待って、待って――!
押し寄せる色の洪水で、額に汗が浮かび息苦しい。頭の痛みもひどくなる。
――狭い所は嫌い。
広い場所に行きたくて、私は衣裳部屋から寝室へ戻った。
きちんと整えられたベッドに、兄オーロフの痕跡は何もない。
もしかして、昨夜からずっと……帰っていないの?
頭の中を整理して、外の空気が吸いたい。
青いショールを持ったまま、私は戸を開けてバルコニーに出た。
怖い場所のはずなのに、もはや気にならない。今は思い出した事実の方が怖く、一気に成長した自分に戸惑い、怯えている。
私の記憶は戻った。
セリーナという名の私は義兄にだけ、リーナと呼ばれていた――
いったいどうして、彼を忘れてしまえたのだろう?
あの煌めく瞳、情熱的な囁きを。好きだと告げられ、結婚しようとまで言われていたのに、私は全てを忘れてしまったのだ。
婚約するはずだった私達。
伯爵になったばかりのオーロフの未来は、輝かしいものになるはずだった。
けれど彼は今、私のせいでこんな場所にいる。王都から離れた辺鄙な場所で、私と二人寂しく暮らしているのだ。
最後の記憶は毒に関わるもの。
彼に警告したくて、私は急ぎ城まで馬車を走らせた。
今でもこうして無事ってことは、あの事件は解決したの? それとも誰かが犠牲になったせいで、首になってここへ来た?
そんなはずはないと、思い直す。
だって私達は堂々と、王都を出発したから。
彼の切ない表情は、以前の私に向けられたもの。
彼が「リーナ」と呼ぶのは、記憶を失う前の私。
今の私は「セリーナ」としか呼ばれず、相手にされていない。
毎晩彼は、どんな思いで私の側にいたのだろう? 自分を忘れた私を、彼を純粋に兄と慕う私を、どんな思いで見守ってきたのだろう?
私のために、何もかもを捨ててこの場所に来たオーロフ。けれど今では私を嫌がり、遠ざけている。
オーロフを想うと、胸が苦しい。
私は彼を愛しているし、忘れた時間の中でもずっと、心の奥には彼がいた。
この気持ちをどう伝えればいい?
もしかして、もう遅いのかな?
いつまで経っても思い出せない私。そんな私に失望し、彼は他の女性と仲良くなったのかもしれない。だから最近、夜に出掛けるようになったの?
夢で見たリーナのセリフ。
その意味を、私はようやく理解する。
『バカね、すぐに手をとらないから』
確かにそうだ。
子供に戻った私はオーロフに甘えて優しくされて、一緒にいるのが当然だと思っていた。いつも自分が優先で、彼の気持ちを考えなかった。穏やかな日々に満足し、こんな場所で彼の未来と可能性を潰してしまったのだ。
私はやはり、あなたに相応しくない。苦しめるだけの存在なんかになりたくなかった。あなたを困らせるため、側にいたんじゃないのに――
どうすればいいの……?
青いショールを握ったまま、白い手すりを背に空を振り仰ぐ。
よく晴れた青空に、白い鳥が飛ぶ。
くっきりしたその対比に、思わず涙が零れた。
『もしも貴方を好きにならなければ……。私は戻り、貴方を自由にしてあげたい。愛を知らない頃に、もう一度戻りたい――』
いくら好きでも、相手の幸せを奪うような愛など要らない。
「……セリーナ?」
腕を組み、開き戸の所に佇む貴方。
昼過ぎになってようやく、帰ってきたみたい。
自分の部屋にいる私を見て、怪訝な表情だ。
美しい金色の瞳が、私を映す。
そして笑みを浮かべた。貴方を振り回してきた私の罪など、何もなかったというように。
こんなに大切な人を、なぜ忘れてしまえたのだろう? 私は貴方の優しさを、どうして当たり前だと思っていたの? 貴方にはこれ以上、自分を犠牲にして欲しくない。
だから――
私はまっすぐ貴方を見つめ、唇を動かす。
「ごめんね、兄様……いえ、オーロフ」
貴方は息を吸い込んで、信じられないというように目を丸くする。
「まさか……リーナ、なのか?」
すぐにわかってくれるのね。
貴方はやっぱり頭がいい。さすがはお義兄様……いえ、私の一番大切な人。
『愛しているわ』
唇の動きだけで、そう伝えた。
でも、あれ?
これってなんか、どっかで聞いたような場面だ。
まあ、いいか。
それより私、今、思わず告白しちゃったよね?
気分が悪いところに恥ずかしさが加わり、余計にくらくらする。
そろそろ部屋に戻ろう。
私が手すりにもたれた背中を起こした、その瞬間――
バキッッ
なんだかイヤ~~な音がする。
見れば、今まで寄っかかっていた手すりの上部が折れ、海の中へ落ちていく。
私、まさかの体重オーバー!?
そういえば、ここは古い城。
「万全の状態とは言えません。気をつけてください」って案内されてたの、すっかり忘れてた。
というより、手すりだけ木で作るなんて、おかしいでしょ。
材料費ケチらないで、しっかり石で作っておけば、問題なかったのでは?
少しでも動いたら、残りも壊れてしまいそう。
「うわわっっ!」
それは、一瞬――
貴方が慌てて駆け寄るのと、木の手すりが折れるのは同時だった。驚愕に目を見開く貴方の顔が見える。
「――っ! リーナっっ!!」
なんてこったい!
いつもなら、こんなヘマはしないのに。
「くっ……」
義兄が走り寄り、私の片方の手首を掴む。
私はその手で、出っぱったところを必死に掴もうとした。
真下を向けば、海が見える。
青いショールが落下していくのがわかった。
手を放せばきっと、そのままドボン。
だけどかなりの高さがあるから、落ちたら命は無いかもしれない。
海からの風にあおられて、裾から風が入り、スースーする。
「何をしている、早くもう一つの手も貸せっ! すぐに引き上げるから!」
怒鳴るオーロフ。
本気で焦る表情は、かなり珍しい。
でもそんなに乗り出したら、貴方まで危ない目にあってしまうよ?
なぜか私は冷静で、手を伸ばす彼の腕に、折れた木の破片が突き刺さっている様子も見えた。
「リーナ、お願いだ。早くしてくれ! このままでは二人とも海に落ちてしまう」
持ち上げたいけど、もう片方の腕に力が入らない。後ろに倒れた時に怪我をしたようだ。身体もなんだかだるくって、あちこち痛い気がする。
熱のため、朦朧とした頭で考えた。
ねぇオーロフ、泣きそうな目で私を見るのはやめて? 最後まで、バカな私のためにごめんなさい。もう十分。私は貴方のおかげで、十分幸せだったから。
生きることを、諦めたくはなかった。
だけど貴方が助かるためには、やっぱこれしか方法はない。
私は彼に向って微笑むと、掴んでいた手を放す。
全体重に海からの突風が加わり、私の手首が彼の手をすり抜ける。
刹那、身体が浮き上がったような感じがした。
信じられない、という表情の貴方が手を伸ばし、悲痛な声で私の名前を叫ぶ。
「リーナッッ!!」
ようやく思い出した愛しい人の声を聞きながら、私は崖下の海に身を躍らせていた――




