壊れた日常 1
どうしても眠れない……
夜遅いのに、お兄様がまだ帰って来ないのだ。
「先に寝ていい」と言われたけど、怖くて明かりをつけているため、眠くならない。
お兄様のいないベッドがこんなに広いなんて――
いや、変な意味じゃなく。
――ん? 変な意味ってどんな意味だ?
時々、関係ない言葉が頭の中に浮かんでくる。
すごくハキハキした言い方だし、変な言葉遣い。
こんな話し方をしたら、きっとお兄様は私を嫌うわね。 ただでさえ彼は今日、私を残して出掛けたのだ。子供のお守りは嫌だと、見捨てられたらどうしよう?
何度も窓から暗い外を見て、馬車の灯りを確認する。
夜も遅いし、どこかに泊ってくるのかな? 侍女のオルガはああ言ったけど、本当は好きな人と会っているのかもしれない。
考え出したら気になって、余計に目が冴えた。よく眠れるよう、ホットミルクでも飲みに行こうかな?
調理場目指し、廊下を歩く。
侍女にお願いすれば早いけど、オルガに会ったら昼間の話が気になって、質問攻めにしてしまう。
怖いけど、私は我慢した。
いつまでも甘えていてはいけない。
早く大人にならなくちゃ。
「あれ?」
気づけば書斎から、明かりが漏れていた。
誰か調べ物? こんな時間までどうしたんだろう。
そっと開けて中を覗くと、そこにいたのは……
「お兄様!」
私は大きな声をあげた。
クラバットを外し、シャツの前を開けた姿でくつろぐ兄は、長い髪がほんの少し乱れている。お兄様の着替えくらい何度も見慣れているはずなのに、心臓の音がうるさい。デスクにもたれる姿がカッコよく、私は目を離さずに歩み寄る。
今、机の上に置いたのは、青い……ショール?
「やあリーナ。いや、セリーナだったか。どうした、眠れないのか?」
お兄様が私の名前を間違えるなんて珍しい。
それにしても、いつ帰ってきたのだろう?
「お兄様こそ。お帰りになっていたのなら、どうしてここにいるの?」
なぜすぐ、私の側に来てくれなかったの?
「どうして。お前がそれを、私に聞くのか?」
唸るように低い声のお兄様は、なんだか様子が変だった。
綺麗な顔は相変わらず。
でも少し、赤いみたい。
あ、もしかして。
「お兄様、お酒を飲んでいらしたの?」
「ああ。たまには飲んで、つらいことを忘れたい」
「そんな!」
私は息を呑む。
お兄様はそんなにつらいの?
私と二人でいるのが、本当は嫌だった?
記憶を失くした義妹、手のかかる私のせいで好きな人といられずに、悩んでいたの?
「リ……セリーナ。話があるんだ」
どうしよう!
お兄様はいつでも優しかった。
だから私は、一緒にいるのが当たり前だと思っていた。穏やかで幸せな毎日が、これからもずっと続くと信じていたのだ。
その考えは間違いで、私が勝手にそう思っていただけ。お兄様は世話に疲れ、私のことを疎ましく感じているみたい。
両手を握り締め、痛む胸の前に置く。
また捨てられると思うと、すごく怖い――。
『オーロフ』という名前も、お兄様に好きな人がいるというのも、私は今日初めて知った。それなのに、「これ以上一緒にいられない」と、宣言されてしまうのかしら?
「嫌っ!」
私はガタガタ震えた。
薄い夜着で寒いというわけではない。
「どうした? リーナ……セリーナ」
焦ったような表情なのに、またもや名前を間違えられた。
兄にとって私がその程度の存在だったのだと、改めて気づかされてしまう。
叫び出したい気持ちを我慢して、歯を食いしばる。
でも、溢れる涙は止められない。
好きな人に嫌われるのは嫌よ。
兄様お願い、私を嫌わないで!
「もう無理だ。そんな目で、私を見るのは止めてくれ」
兄様のかすれた声。
彼の目が、苦しそうに細められた。
そんな顔を見たくはなくて、私は思わず瞼を伏せた。
けれどその拍子に、涙がこぼれ落ちる。
無理ってどういうこと?
本当はずっと嫌だった?
私は要らない子なの?
お兄様まで、私を邪魔だと言うのね。
こんなに弱い自分は嫌だ。
アタシはもっと、強かったはず!
――ん? アタシ?
「リーナ……泣かないで。お前に泣かれるのは、耐えられない」
兄様はさっきからずっと、私の名前を呼び間違えている。
私の名前はセリーナで、リーナなんかじゃない。
間違えるのはどうして!!
突然、彼は私を引き寄せると、息もできないくらいに強く抱き締めた。
「リーナ!」
背中に腕が回された。
もう片方の手が、頭の後ろに回される。
髪に触れる唇は、いつもみたいに穏やかじゃなく、激しい感じ。サラサラした兄の髪が零れ落ち、私の頬にかかる。
「オーロフ……」
その瞬間、彼がビクッと動く。
私の口をついて出たのは、昼間オルガに聞いた兄の名だ。
どうして今、彼の名を?
名前を呼ぶだけで、どうしてこんなに苦しい気持ちになるの?
あなたはなぜ、そんなに哀しい顔を――
兄様は私の頬を両手で挟むと、綺麗な顔を近づけた。
私の唇に彼の吐息がかかる。
間近で見る金色の瞳に、私の胸はますます苦しくなった。
ねえ、お願い。
悲しい顔は止めて。
私に誰かを重ねるのも。
ただ慰めたくて、私は右手を上げて彼の頬に触れる。
その途端、兄様は私の手を掴み自分の口元に持って行く。合わせた視線を外さずに、そのままゆっくり手のひらに口づけた。
――この表情を、私は知っている……?
目を大きく開け、兄様を見つめる。
あと少し、もう少しで何かを思い出せそう。
頭がモヤモヤして、よくわからない。
わかっているのは一つだけ……私はこれからも、兄様の側にいたい!
けれど兄様は、掴んでいた手を急に放す。
私の両肩を持つと、自分からやんわり遠ざけた。
「すまない、セリーナ。今夜はどうかしていた。酔っているから、一人で寝てくれないか?」
冷静な声には、ほんの少し苦渋が滲む。
「どうして?」
酔っていたって大好きよ。
お酒の匂いも我慢するのに。
なぜ私を突き放すの? 好きな人がいるし、本当はその人と会ってきたから?
「理由を知りたいか? でも……お前にはまだ早い。リーナならともかく」
兄が苦笑する。
先ほどまでの悲しくて苦しそうな表情は、とっくに消えていた。
「リーナ……さん?」
胸が痛む。
顔も知らないその人が、羨ましい。
私と似た名前の彼女が、お兄様の好きな人?
兄様にそんな表情をさせるその人が、私は嫌い。
愛しそうにその名を呼ぶ兄様も、大嫌い!
お願い、私を遠ざけないで。
兄様の一番が私じゃなくてもいい。
リーナさんの次でも、一生懸命我慢するから。
どうか私を嫌わずに、見捨てないで!
けれど、溢れる思いを言葉にできず、私は黙って目を閉じる。
「もうおやすみ、可愛いセリーナ」
穏やかな声でそう言うと、兄様は私の髪にいつもの優しいキスをした。




