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目覚め

 *****



「お兄様は私のこと、どう思っているんだろ?」


 鏡に向かって小さく呟く。

 胸に芽生えたほのかな思い。

 どうしてこんな気持ちになるのか、まだよくわからないんだけど。


 夜中に兄様にギュッとされて以来、少しずつ思い出している。

 あの時私は、小さな自分になっていた。

 夢で見て、ようやくあれが昔の事だとわかる。

 今はもう、遠い日の悲しい記憶――


 あの頃私は、とても寂しかった。

 何日も家に戻らない父ちゃんを待って、押し入れにじっとしていたから。おとなしくしていれば、すぐに帰ってくると信じて。


『私が悪い子だから、父ちゃんは私を知らない場所に放り込んだの? ここは外人みたいな人達ばかりで、なにを話しているのか全然わからない! おとなしくしていたら、今度こそ家族の待つ家に帰れるのかな? そこには父ちゃんや母ちゃん、(あお)(ゆかり)もいて、みんなが笑って私に「お帰り」って言ってくれるんだ』


 けがをして混乱していた私は、固く信じていた。

 気づけば知らない場所にいて、言葉もわからなかったから。私はそれを、日本にいる父ちゃんのせいだと思っていたのだ。


『父ちゃんが意地悪をして、私をわけのわからない所に連れて来た』


 だから、おとなしくしていようと考えた。

 じっとしていれば、父ちゃんが迎えに来てくれるかもしれない。


 そのため私は、口を開かなかった。 

 知らないはずの人達が、なぜか悲しい顔をしていたけれど。

 関係ないふりをしていれば、みんなが諦め、私を父ちゃんの所に帰してくれるかもしれない。どうせ知らない人達だもの。きれいな顔の人さらいかもしれない。



 

 だけどたった一人だけ――

 最初からずっと、私に優しくしてくれた人がいた。

 その人は茶色の長い髪に金色の目。

 時々私を見つめては、悲しそうに笑う。

 私が嫌がることは絶対にしないし、触ろうとした手はいつもすぐに引っこめられる。


 その人がちゃんと話せる女の人を連れて来てくれたから、私はここが日本でないこと、もう家族のいるところには帰れないのだとわかった。自分が『セリーナ』という別の名前で、ここで暮らしていたことも。だけど、これから先どうしていいのかわからない。


 金色の目のその人は、コレットという女の人から一生懸命日本語を習っていた。初めは私より話せなかったのに、あっという間に覚えて私を追い越してしまった。

 すごいな! うちの父ちゃんや母ちゃんよりすごい! 

 だから私は、その人にこう聞いてみた。


【あなたはじゃあ……私のお父さん?】


 こんなに私の事を考えてくれるなら、この人は私のお父さんかもしれない。だけどその人はつらそうな顔で、こう言った。


【お父さんとはひどいな。せめてお兄さんと呼んでくれないか?】


『お兄さん』と聞いた時、なぜか体のどこかが苦しくなった。

 どうして? 

 青という兄ちゃんがいたけど、そこまで仲良くなかった。

 どっちかっていうと、私は妹の紫と仲良し。

 なのにどうして?


『お兄さん』と呼んだその人が笑うと、どうしてこんな気持ちになるんだろう?


 その日から私は、その人を『お兄さん』と呼ぶ。

 カッコよくて優しくて、ステキな私のお兄さん!


【彼はあなたのために日本語をおぼえたのよ】


 コレットという人がさよならをする時にそう言ってくれたから、私はますます嬉しくなった。

【あなたのために】という言葉が気に入ったのだ。


『お兄さん』は私のことを考えてくれる。

「ずっと一緒にいよう」と言ってくれる。

 それがすごくくすぐったくて、嬉しかった。




 海がとてもきれいだから――

 私はなんとなく「こんな所に住みたい」と言ってみた。

 するとお兄さんは、「お前が気に入ったなら、ここにしようか」と笑ってくれた。

 お兄さんはいつでも、私のことを一番に考えてくれる。

 本当に海の近くに住めるなんて!


 だけど一部屋だけ、初めて見るのに怖い場所がある。

 昔読んだ絵本に出ていたのかな? その部屋の海の真上にあるベランダが、危ない感じがした。


 お兄さんは言葉も教えてくれる。


「お兄さんより『お兄様』と呼ぶ方が大人みたいだよ」


 そう言ってにっこりする。

 お兄さんが笑ってくれるなら。

 私はその日から『お兄様』と呼ぶことにした。


 お兄様は毎晩、暗い所を怖がる私のために一緒に寝てくれる。悲しい夢を見て夜中に起きるたび、「大丈夫だよ」と優しく言ってくれた。お兄様がいれば、私は怖くない。


「このままずっと、お兄様とここで暮らしたい」


 心の底から言ったのに、お兄様はだまって悲しそうに笑うだけだった。




 何がいけなかったんだろう。 

 私はまだ悪い子?

 だからお兄様は悲しくなるの?

 お兄様は私を見ながら、時々遠い目をする。

 私の髪をなでながら、困った顔になる。


 どうして? 

 お兄様も父ちゃんと同じで、私の事をハズレだと思っている?

 ずっと考えていたから、その日はよく眠れなかった。

 夜中に怖い夢を見て、私は泣いてしまう。


【お父ちゃん、お父ちゃん!】


 自分の叫び声で目が覚めた。

 誰もいない家の押し入れで、隠れていた事を思い出したから。

 長く暗い夜も、ずっと一人……。


 私は父ちゃんに捨てられていた事を、思い出したのだ!


 自分がどこにいるかもわからず、私は叫ぶ。

 誰かが包んでくれたような気がしたけれど、その時はよくわからなかった。泣き疲れてしゃくりあげる私を、その人は優しくなでてくれる。


「大丈夫、心配は要らない。私がずっとお前のそばにいる」


 その声はお兄様で、私をギュッとしてくれた。

 彼がいれば怖くなく、どんなことでも平気な気がする。


 本当はあの時、こうして泣きたかった。

 押し入れで発見された私は、ほとんど何も飲まず食べていない。水分がなく、怖くても涙さえ流す事ができなかった。つらく苦しい気持ちを、誰にもぶつけることができなかったのだ。

 家に戻った後も弱った心を見せてはいけないと、一生懸命我慢。不安な気持ちを今までずっと、心の底に押しこめていた気がする。


 狭い所が怖かった。

 暗い所が嫌だった。

 一人の夜がつらかった。

 私は誰かにこの気持ちを伝え、泣きたかったように思う。

 

 ただいるだけでいいと、言って欲しかった。

 誰かに必要とされたかった。

 私を大事にしてくれる人に、思い切り甘えたい。


 ――以前私に優しくしたのは……誰?


 父ちゃんに捨てられたことを忘れたい私は、その人の事も忘れてしまった。

 ただの願望だったのかもしれない。本当は、そんな人などいなかったのかもね。


 だけどここにいるお兄様は、私の欲しい言葉をくれる。

 いつも私のそばにいて、私を守ってくれるのだ。


「お兄様がお父さんだったら良かったのに……」


 本心からそう思った。

 もしも父ちゃんがまともだったらと、何度考えたことだろう。

 今のお兄様のように勉強を教えてくれたら、私はもっと良い子になれたかもしれない。そうしたら家族に迷惑かけずに、みんなと仲良くできたのに。


 迷惑……?

 私、何かしたっけ?

 思い出せないはずなのに、どうしてそんな考えが浮かぶの?


 掴もうとすると逃げてしまう記憶。

 少しずつしか戻らないのに、なんとなく感じていた。

 心の底に、きっと私の大切な人がいる。


 今の私は、お兄様が一番好き。

 だけどお兄様は私のこと、どう思っているんだろう? 

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