目覚め
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「お兄様は私のこと、どう思っているんだろ?」
鏡に向かって小さく呟く。
胸に芽生えたほのかな思い。
どうしてこんな気持ちになるのか、まだよくわからないんだけど。
夜中に兄様にギュッとされて以来、少しずつ思い出している。
あの時私は、小さな自分になっていた。
夢で見て、ようやくあれが昔の事だとわかる。
今はもう、遠い日の悲しい記憶――
あの頃私は、とても寂しかった。
何日も家に戻らない父ちゃんを待って、押し入れにじっとしていたから。おとなしくしていれば、すぐに帰ってくると信じて。
『私が悪い子だから、父ちゃんは私を知らない場所に放り込んだの? ここは外人みたいな人達ばかりで、なにを話しているのか全然わからない! おとなしくしていたら、今度こそ家族の待つ家に帰れるのかな? そこには父ちゃんや母ちゃん、青も紫もいて、みんなが笑って私に「お帰り」って言ってくれるんだ』
けがをして混乱していた私は、固く信じていた。
気づけば知らない場所にいて、言葉もわからなかったから。私はそれを、日本にいる父ちゃんのせいだと思っていたのだ。
『父ちゃんが意地悪をして、私をわけのわからない所に連れて来た』
だから、おとなしくしていようと考えた。
じっとしていれば、父ちゃんが迎えに来てくれるかもしれない。
そのため私は、口を開かなかった。
知らないはずの人達が、なぜか悲しい顔をしていたけれど。
関係ないふりをしていれば、みんなが諦め、私を父ちゃんの所に帰してくれるかもしれない。どうせ知らない人達だもの。きれいな顔の人さらいかもしれない。
だけどたった一人だけ――
最初からずっと、私に優しくしてくれた人がいた。
その人は茶色の長い髪に金色の目。
時々私を見つめては、悲しそうに笑う。
私が嫌がることは絶対にしないし、触ろうとした手はいつもすぐに引っこめられる。
その人がちゃんと話せる女の人を連れて来てくれたから、私はここが日本でないこと、もう家族のいるところには帰れないのだとわかった。自分が『セリーナ』という別の名前で、ここで暮らしていたことも。だけど、これから先どうしていいのかわからない。
金色の目のその人は、コレットという女の人から一生懸命日本語を習っていた。初めは私より話せなかったのに、あっという間に覚えて私を追い越してしまった。
すごいな! うちの父ちゃんや母ちゃんよりすごい!
だから私は、その人にこう聞いてみた。
【あなたはじゃあ……私のお父さん?】
こんなに私の事を考えてくれるなら、この人は私のお父さんかもしれない。だけどその人はつらそうな顔で、こう言った。
【お父さんとはひどいな。せめてお兄さんと呼んでくれないか?】
『お兄さん』と聞いた時、なぜか体のどこかが苦しくなった。
どうして?
青という兄ちゃんがいたけど、そこまで仲良くなかった。
どっちかっていうと、私は妹の紫と仲良し。
なのにどうして?
『お兄さん』と呼んだその人が笑うと、どうしてこんな気持ちになるんだろう?
その日から私は、その人を『お兄さん』と呼ぶ。
カッコよくて優しくて、ステキな私のお兄さん!
【彼はあなたのために日本語をおぼえたのよ】
コレットという人がさよならをする時にそう言ってくれたから、私はますます嬉しくなった。
【あなたのために】という言葉が気に入ったのだ。
『お兄さん』は私のことを考えてくれる。
「ずっと一緒にいよう」と言ってくれる。
それがすごくくすぐったくて、嬉しかった。
海がとてもきれいだから――
私はなんとなく「こんな所に住みたい」と言ってみた。
するとお兄さんは、「お前が気に入ったなら、ここにしようか」と笑ってくれた。
お兄さんはいつでも、私のことを一番に考えてくれる。
本当に海の近くに住めるなんて!
だけど一部屋だけ、初めて見るのに怖い場所がある。
昔読んだ絵本に出ていたのかな? その部屋の海の真上にあるベランダが、危ない感じがした。
お兄さんは言葉も教えてくれる。
「お兄さんより『お兄様』と呼ぶ方が大人みたいだよ」
そう言ってにっこりする。
お兄さんが笑ってくれるなら。
私はその日から『お兄様』と呼ぶことにした。
お兄様は毎晩、暗い所を怖がる私のために一緒に寝てくれる。悲しい夢を見て夜中に起きるたび、「大丈夫だよ」と優しく言ってくれた。お兄様がいれば、私は怖くない。
「このままずっと、お兄様とここで暮らしたい」
心の底から言ったのに、お兄様はだまって悲しそうに笑うだけだった。
何がいけなかったんだろう。
私はまだ悪い子?
だからお兄様は悲しくなるの?
お兄様は私を見ながら、時々遠い目をする。
私の髪をなでながら、困った顔になる。
どうして?
お兄様も父ちゃんと同じで、私の事をハズレだと思っている?
ずっと考えていたから、その日はよく眠れなかった。
夜中に怖い夢を見て、私は泣いてしまう。
【お父ちゃん、お父ちゃん!】
自分の叫び声で目が覚めた。
誰もいない家の押し入れで、隠れていた事を思い出したから。
長く暗い夜も、ずっと一人……。
私は父ちゃんに捨てられていた事を、思い出したのだ!
自分がどこにいるかもわからず、私は叫ぶ。
誰かが包んでくれたような気がしたけれど、その時はよくわからなかった。泣き疲れてしゃくりあげる私を、その人は優しくなでてくれる。
「大丈夫、心配は要らない。私がずっとお前のそばにいる」
その声はお兄様で、私をギュッとしてくれた。
彼がいれば怖くなく、どんなことでも平気な気がする。
本当はあの時、こうして泣きたかった。
押し入れで発見された私は、ほとんど何も飲まず食べていない。水分がなく、怖くても涙さえ流す事ができなかった。つらく苦しい気持ちを、誰にもぶつけることができなかったのだ。
家に戻った後も弱った心を見せてはいけないと、一生懸命我慢。不安な気持ちを今までずっと、心の底に押しこめていた気がする。
狭い所が怖かった。
暗い所が嫌だった。
一人の夜がつらかった。
私は誰かにこの気持ちを伝え、泣きたかったように思う。
ただいるだけでいいと、言って欲しかった。
誰かに必要とされたかった。
私を大事にしてくれる人に、思い切り甘えたい。
――以前私に優しくしたのは……誰?
父ちゃんに捨てられたことを忘れたい私は、その人の事も忘れてしまった。
ただの願望だったのかもしれない。本当は、そんな人などいなかったのかもね。
だけどここにいるお兄様は、私の欲しい言葉をくれる。
いつも私のそばにいて、私を守ってくれるのだ。
「お兄様がお父さんだったら良かったのに……」
本心からそう思った。
もしも父ちゃんがまともだったらと、何度考えたことだろう。
今のお兄様のように勉強を教えてくれたら、私はもっと良い子になれたかもしれない。そうしたら家族に迷惑かけずに、みんなと仲良くできたのに。
迷惑……?
私、何かしたっけ?
思い出せないはずなのに、どうしてそんな考えが浮かぶの?
掴もうとすると逃げてしまう記憶。
少しずつしか戻らないのに、なんとなく感じていた。
心の底に、きっと私の大切な人がいる。
今の私は、お兄様が一番好き。
だけどお兄様は私のこと、どう思っているんだろう?




