穏やかな日々 2
どうして平気だと思っていたのか。
なぜ自分は耐えられると思っていたのか。
この頃お前の側にいると、私は自分がわからなくなる。
いつまで経っても戻らぬ記憶、成長しない心。
焦ってはいけないと、わかっているのに。
朝起きるたび、今日こそは、と儚い期待を抱く。
愛した人の保護者でい続けるのが、これほどまでに苦しい事だとは。
私はお前の隣で、今後も笑っていられるだろうか――?
朝――
勝手に起きると怒られるため、セリーナの目が覚めるまで、黙って本を読んでいる。隣で眠る幸せそうな彼女を見て、私は考えた。
――今日はどうだろう? 元に戻っているのでは?
ここで働く者には、事故に遭う前のセリーナが、私と婚約する予定であった事を簡単に話してある。もちろん負担を与えないよう、本人には内緒。使用人達にも固く口止めしている。
彼女の世話は、王都の屋敷から連れて来たベテランの侍女が、引き続き担当してくれた。セリーナも初めは緊張していたものの、今では打ち解け、仲良くしているようだ。
私とセリーナは一階の主寝室で眠っている。
朝、私達が同じ部屋で目覚めるのは、この家ではもう、当たり前になっていた。
もちろん私は、誰と寝室を共にしても良い立場ではある。わざわざ弁明しなくても、本来の私と彼女は恋人同士だ。
だが、セリーナを困らせる事は一切していない。
いや、したくともできない。
いまだ中身が子供のセリーナ。
彼女を怯えさせないため、私は父親のように接していた。
「あれ? 兄様、もう起きてたの?」
子供が早起きだというのは、嘘なのかもしれない。
今日もセリーナはゆっくり目覚め、片手を伸ばしもう片方の手を口に当てて、あくびをしている。そんな姿を見て可愛いらしいと感じるのも、いつものことだ。
「すいぶん遅いが、今日も予定が詰まっている。早く仕度をしないと、朝食の時間がなくなるぞ?」
「……げ」
ふと、以前のような話し方をする時がある。
けれど、記憶が戻ったわけでは無さそうだ。
たぶんこれが、元々の彼女の性格なのだろう。
「歴史やマナーの勉強と、ダンスレッスン。その後にお前の好きな乗馬だ」
「うわ~、また勉強の後か……」
私は冷静に今日の予定を告げた。
なるべく感情を挟まないように。
教えてみてわかった事だが、彼女は乗馬が好きだ。慣れさせるためにわざと馬の世話をさせたことがあるが、彼女はその時の様子をどこかで覚えているのか、最初から馬に馴染んで乗ることができた。
もしもあの時、リーナが馬車でなく、馬で移動していたなら……
いや、悔やんでも仕方がない。
当時乗馬は教えていなかったし、馬でも危険は伴う。
昼――
座学はやはり苦手なようだが、ダンスは以前に比べてマシだった。毎日練習したことを、身体が覚えているのだろうか? ……といっても、時々前と同じタイミングでステップを間違え、私の足を踏みそうになる。思わず浮かべた苦笑を、私は咳払いでごまかした。
昔のように密着しても、彼女は私を意識しない。
そのせいで、ステップが乱れることはなかった。そのくせ、関係ないところで足を出したり、転びそうになったり。セリーナは相変わらず、詰めが甘い。けれど素直な分、今回の方が上達が早く、期待が持てそうだ。
――夜会や舞踏会で何度も一緒に踊ったが、お前はやはり、覚えていないのだろうな。
胸の痛みに目を細めると、緑色の瞳が心配そうに見つめている。
不安を与えてはいけないと微笑むものの、先に視線を逸らした。彼女の瞳が曇ったように感じたのは、私の気のせいだろうか?
昼食後にようやく乗馬。
賢い白馬は彼女を覚えているようで、姿を見ては嬉しそうに嘶く。まだセリーナを一人で乗せるのは心もとなく、今日も二人で馬の背に跨った。
海沿いの道をゆっくり進む。
前に座るお前が、楽しげに笑う。
――こんなことなら、もっと早く乗馬を教えれば良かった。あの頃無理にでも時間を作り、お前と一緒に出かけておけば……
気づけば想いは当時に還る。
途切れた時間は、元に戻らないと知りながら。
早いもので、ここに来てからあっという間に一年が経った。
セリーナの状態は相変わらずで、実年齢は18歳、現在の精神年齢はようやく10歳になったばかりというところか。
幼い心の彼女はまだ、恋の意味さえ知らない。私は誰にも邪魔されず、世間から離れたこの地で、セリーナと暮らしている。私は彼女を、私に頼り私なしではいられなくなるよう、存分に甘やかして育てるつもりだ。
けれど、中身は10歳でもセリーナは本来、立派な淑女。いつまでもこのまま、というわけにはいかないだろう。のんきな彼女は焦るそぶりも見せず、今の暮らしに満足しているようだ。
「このままずっと、ここでお兄様と暮らしたい」
明るく笑う彼女に、元のリーナの片鱗は見られない。私を「兄」と呼び無邪気に慕う彼女は、以前の自分が私と恋仲だったとは、考えたこともないのだろう。
もう一度あの頃に戻れたら――。
私は何を差し出しても構わない。
元のリーナとやり直せるのなら、今度は片時も離れず彼女を幸せにする。
本音を言えば、かなりつらい。
私はいつまで、彼女の『兄』でいなくてはならないのか?
このままずっと――?
考えただけで恐ろしく、微かに震える。
後ろに座っていたことが幸いした。
頼れるはずの兄の、情けない姿は見せたくないから。
彼女の心に負担をかけてはならないと、私は知っている。我慢をしていれば、いつかきっと彼女は元に戻るはず。
不安を無理に押し込めて、手綱を握り直した。
私は馬を急がせて、古城に向かう。
夜――
夕食後に思い思いの時間を過ごした後、同じベッドに入る。
とはいえ、彼女の精神を脅かす事はできないから、親のように添い寝をするだけ。
初めは別々に寝ようとしたが、セリーナは夜を怖がった。馬車の事故を思い出すのか、毒殺されかけた事実が頭の隅に残っているのか。
彼女を落ち着かせるため、抱き締めながら眠った事がきっかけだった。それ以来、私達は毎日一緒に横になる。セリーナは夜中に起きても、私がいると安心するらしい。当然のように身体をすり寄せると、朝までぐっすり眠る。
時にはやはり苦しくなる。
まだ子供の彼女は、私の葛藤を知らない。
抱き着く柔らかな身体を腕に囲う私は、今日も眠れぬ夜を過ごす。
「まったくお前は、人の苦労も知らないで」
水色の髪をかきあげて、額にそっと口づけた。
再び目を閉じ「今度こそ」と、私は虚しく努力する。
ところが今日は、勝手が違った。
セリーナは元いた世界の夢を見てうなされたようで、何度も【お父ちゃん、お父ちゃん!】と涙を流して叫ぶ。その姿は痛々しく、すぐに何とかしてあげたかった。
私は彼女を抱き締めて、耳元に唇を寄せる。
「大丈夫、心配は要らない。私がずっとお前の側にいる」
彼女の背中をトントンと優しく叩き、髪を撫でた。
セリーナはしばらくすると泣き止み、ため息を漏らす。
ところが次のひと言に、私は打ちのめされてしまう。
「ありがとう。お兄様がお父さんだったら良かったのに……」
どうして平気だと思っていたのか。
なぜ自分は耐えられると思っていたのか。
お前は私に、これ以上何を望む?
離れてしまえば楽になれるだろうか。
いっそ狂ってしまえたなら、この苦しみからは解放される?
早く元に戻ってほしい。
私が正気を保てるうちに、早く!




