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 屋敷に戻りしばらくすると呼びつけられた。

 書斎で椅子に深く座る父は、重々しく言い放つ。

「おそらく今夜、私を捕縛するために兵士が来る」

 そう告げた顔は土気色で、目の下の隈も濃い。頬はこけて白髪も増え、一気に老け込んだと思う。

 そんな父を感情を押し殺して見つめる。

 漫画では、シルヴァスト殿下が事件の犯人を割り出したのを聞きつけ、“エスキオラ伯爵”が最後の悪あがきをした。

 エリシア殺害に踏み出したのだ。

 殺し屋を雇ってエリシアを誘拐し、街から少し離れた森の空家に監禁。そこで実行に移そうとする。そして手にかける寸前のところで駆けつけたシルヴァスト殿下と兵士に捕えられるのだ。


 私は父に何度も言った。この街から出ようと。

 そのたびに父は言った。それは出来ないと。

 今までずっと黙っていた前世の事も、前世で読んだ漫画の事も。この十六年間決して口にしなかったことを告げた。

 父は戸惑っていたし、その全てを理解した節はなかった。しかし娘を奇異の目で見る事もなければ、荒唐無稽だと一笑する事もなかった。

 それでも父は逃亡の決断は下さなかった。

 漫画の結末は、父の見ている未来なのだろう。だからその事に関して動揺はない。

 身分の剥奪、領地の没収。これまでと同じ生活は出来ないと思いつめた顔で謝罪する父の決意は、しかし揺るがす事の出来ない程堅いものだと見て取れた。

 私はかける言葉もなく部屋を後にするほかなかった。


 日没の廊下は壁に灯る蝋燭によって歩くのに何ら支障はないものの仄暗く、私の脆弱な心に絡みついてくるようだった。

 息苦しい。足は自然と早くなる。自室までの道のりが、延々と続いているかのような錯覚を見る。

 早く逃れたくて自然と走り出していた。絨毯が靴音を吸収するが、それでもなお荒々しいそれの全てを受け止めきれてはいなかった。

「マシェリー、どこへ行くつもり?」

 硬い声に呼び止められる。ぐらつきそうになる足を踏みしめて、振り返ってから「部屋に」と短く答えた。

 廊下を走った事を怒るのだろう。しかし母は険しい顔で思いもよらない事を言いつけた。

「部屋から出てはいけません。何が、起こっても」

 どういう事?

 訊ねても答えてはくれなかった。ただとにかく部屋にいろと、それだけを強いた。


 王都は夜に沈み込む。

 本来ならば静まりかえっているだろう街は、しかし突如として混乱に襲われた。

 エスキオラ邸の近くで火事が起こったのだ。

 ベッドの上で毛布にくるまっていた私は、扉を叩く使用人によってそれを知らされた。

 少し考えれば火事のタイミングの良さに気付くだろう。私はベッドから這い出て部屋を飛び出した。行先を玄関に向け、思い直して裏口へ方向転換する。屋敷の裏側。使用人の活動場所に直結している出入り口だ。

 本来ならば屋敷の裏にいるはずもない私が猛然と走り抜けているのを、使用人達は驚きながらも道を開けた。

 晴れ渡った夜空は俄かに赤く染まっている。

 それを見上げたのはほんの一瞬で、視線はすぐに裏門の前に停められた馬車と、それに乗り込もうとしている父と母に奪われた。母が父を乱暴に押し込み、自分もまた乗り込む。馬車の戸は知らない男によって閉められようとした。

 そこに走り込み、男が気配を察して振り返ったその隙に体を捻じ込んだ。


「マシェリー!?」

 二人の顔が驚愕に変わる。

「何を……!マシェリー、降りなさい!」

「マシェリーだけではない。君も降りるんだ!」

「いいえ降りません。私は旦那様と共にあると誓いました」

 両親の押し問答もむなしく馬車の戸は閉められた。がちゃりと外から鍵まで掛けられ、制止も聞きとめられず馬車は走り出す。両親は壁を叩いて訴えたが無駄だった。

 しばしの無言は、外界のざわめきや忙しなく動き回る人の気配のために車内を静かにするものではなかった。もし外の騒ぎがなければ、私は沈黙によって圧迫死していたかもしれない。それだけ母から発せられる空気は恐ろしかった。


「あなたは今、何をしているか分かっているの?」

 責める声は低く冷ややかで、条件反射で身が竦んでしまう。これは間違いようもなく最上級に怒っている。いつもなら顔を真っ青にして謝り倒し言いつけに従うところだが、今日はそうするわけにはいかない。

 私が口を開こうと開くまいと、馬車はもう、走り出したのだ。

「私も行きます」

 母は眼光を鋭くした。

「では自分が今どこに向かっているのかも分かっているのね?」

「エリシアの誘拐」

 両親は驚く事はない。前世の記憶は既に話しているからだ。

 がらがらと車輪が回る音と、馬の駆け足が大きくなる。騒動を抜けたのだと分かった。一体どこまで走るのか。

 エスキオラ邸の周囲には、シルヴァスト殿下の差し向けた見張り役くらいはいただろう。しかし追ってくる気配は未だ窺えない。


 車輪は回る。ただひとつの結末に向かって。それまでの些細なイレギュラーなど関係ない。道端の小石にかかったところで、馬車は跳ねるだけで行く先に影響などない。

 母は目を逸らさない。ただ真っ直ぐな眼差しで私を見定めるように見つめていた。じりじりと肌を焦がすような感覚に気圧されそうになる。

 ようやく開かれた口は場の空気を緩めるものではなかった。

「あなたは、お父様が愚かな行為に身を落とすと?」

「お父様が進んでやるとは思いません。ただエリシアの元に行くしかない事情があるのだと、そう考えています」

 母は眉さえ動かさなかった。私の思考など全てお見通しだったのではないかと疑いたくなる。

「分かっているのなら、なおさらあなたは来るべきではなかったわ」

 責める物言いに反論しようと口を開きかけた。母はそれさえ許さず、「黙りなさい」と語調もきつく遮る。

 厳しい目に睨めつけられて居竦んでしまった。母の目力はこんな状況でも弱まらない。いや、もっと強いものになっている。

 蛇に睨まれたカエルさながら固まる私に、母は落ち着き払った調子で続けた。


「マシェリー。このままではあなたまで事件に関わった事になってしまう。あなただけでも逃がれる方法を考えましょう。そして覚えておきなさい。あなたの父は潔白なのだと」

 まるで遺言ではないか。 

 唇を噛んだまま頷きもせず黙り込む。母はそれをよしとせず、よく研がれたナイフにも勝る鋭利な視線で脅しをかけてくる。どうあっても了解を引き出したいようだ。

 分の悪い攻防を続ける最中も、馬車は止まらず進んでいく。

 一体どれだけの距離を走ったのか。窓は塞がれているため、今どこを走っているのか分からない。ただ舗装された道はとうに過ぎているという事だけは、揺れ方から察せられた。


 馬車は次第に揺れを大きくした。酷い揺れが続き、ようやく止まる。車内に緊張が走った。

 鍵が開かれる。戸はゆっくりと開き、外気が一気に流れ込んできた。真っ暗だった空間に、白い月明かりが入り込む。

 夜を霞ませる光に照られされているのは、フードを目深に被った見るからに怪しい人間が二人。肩幅から男だと推測される。「降りろ」と言葉短かに命じた口調は冬の湖のような冷ややかだ。

 てっきりそこらの破落戸が実行しているのかと思った。しかし彼らからは不思議と荒々しさは感じられない。


 降り立った父の背中から緊張が伝わってくる。

「汚名は私がいくらでも被る。だから娘は見逃してくれ」

 フードを深く被った男は、しばしの沈黙の末に溜息をついた。

「いいだろう。元々そういう約束だからな。お前は好きにここを離れるがいい」

「来い」

 父を呼ぼうとして、母に押しとめられた。その後母は父の手を取って馬車を降り、振り返る。父と母は私に笑みを残して背を向けた。

 茫然と座り込む私の視界から、ついに両親が消える。一軒の建物に入ったのだ。


 追いかけるべく立ち上がろうとした。しかし気配に気付いて息を飲む。

 気配は扉側ではなく窓側だ。あちらも気配を探るように無言だった。始めに張りつめた空気を解けさせたのは向こうだ。

「あーあ。面倒なおまけがついてきちまったもんだ」

 男の口調は軽やかで、それでいてどこか面白がっているようでもあった。少なくとも声からは困った様子も苛立ちも感じ取れない。それどころか鼻歌まで口ずさむのだから、場に合わない空気に気が抜けてしまった。

 だから口を開いてしまったのだろう。

「エリシアは、ここにいるの?」


 父をここに寄越したのは、エリシア誘拐の罪を着せるためだ。

 曖昧な記憶を手繰り寄せ、当時見た断片を掴もうとする。するりするりと手から滑り落ちるそれらの中からかろうじて引っ掛かるものを繋ぎ合わせたとしても、情報はそう多くはない。

 ただ『マシェリー』はこの場にはいなかったように思える。だからこそ処罰が修道院送りで済んだのだ。

 展開は漫画とは異なってきている。

 それは希望なのか絶望なのか。

 窓側にあった気配は馬車を回り込み、戸の前に立つ。目の前の男は兵士の格好をしていた。

 破落戸のようにあからさまな育ちの悪さは見えないが、だからといって単なる平民とは違う。人混みに紛れてしまいかねない凡庸さ。しかし一度意識に入り込めば二度と目が離せなくなる。そんな独特の空気を纏っていた。

 俄かに恐怖を与えてくる得体の知れない男の双眸は、三日月のように笑んでいた。薄い唇から覗かせた歯は獣の鋭さを持つ。


「会いたいか?」


 男は問う。夜長に鳴く秋虫の如く、ごく自然と耳に入り込む。

 息を飲んだ。男を凝視した。笑みからは何の意図読み取れない。一見気安い、それでいて底知れなさに寒気が走った。

 男は再び、今度は視線だけで問いかける。 

 誘うような、後押しするようなその眼差しに、私は頷いて答えていた。



 エリシアがいるのは、両親が連れ込まれた建物の地下だった。階段を一段降りるごとに空気が冷たくなっていく。靴が石床を打ち、高い音が反響して不安を煽られた。

 男が手を掛けたのは、そこに唯一あった木の扉だ。金具は錆びついているらしく、開けた際に出た不快な音が耳を引っ掻いた。

 そこは地下といっても半地下だったようだ。部屋の高い位置にある、ガラスはなく鉄格子のはめ込まれた窓からは、月の光が侵入していた。

 そのため、彼女の姿は容易に見る事が出来た。

 足や手は縛られて、口には猿轡が施されている。あらゆる自由を奪われて転がる姿は、まるで服を着た芋虫だ。手は後ろに回して縛られているためなおさらである。月明かりを受けて仄かに光る白銀の髪は、無造作に床に広がっていた。

 彼女は私を認めるなり瞠目する。何か言った。猿轡の所為ではっきりと聞き取れるものではなかったが、音は確かに私の名だった。

 男が親切にも猿轡を外そうとしたのを止める。


「そのままで結構です」

「ひっどいお嬢ちゃんだな~」

「彼女は口を自由にさせると、自分の意見ばかりで人の話は聞かなくなりますから」

 エリシアは困惑しながらも、不安に一滴期待を混ぜた目でこちらを見つめる。

 男が戸の前に移動した。私がエリシアの傍に腰を下ろすと、彼女は身を硬くしてダンゴ虫のように縮こまろうとした。

「安心しなさい。あなたはヒーローに助けられるわ」

 彼女は助かる。

 だけど私はどうなるのだろう。漫画では修道院送りだ。だけど漫画では”マシェリー”がここにいる描写はやはり思い至らない。

 案外ここで死んでしまうのかもしれない。

 笑ったら、彼女が困惑を強くする。その姿さえおかしかった。


 修道院へ行く前に、“マシェリー”は彼女に言った。


――あなたが正しかったのね


 益々笑えてくる。

 ねえ、エリシア。最期に言わせて。

「あなたは私達を非難するけれど、あなたは自分自身を振り返る事があって?私達と一体何が違うというのかしらね」

 エリシアの髪を一房掬う。期待以上の指通りで心地が良い。こんな事なら、赤い髪飾りも持ってこれば良かった。引き出しにしまわれたままのそれを思い浮かべる。

「もし何のしがらみもない場所で出会っていたなら。もしあなたが物事を冷静に判断する人だったなら。もし私に、勇気があったなら。私はあなたの髪に赤い花を差す事が出来たのかしら」


 庭が白銀に染まった朝は、赤い花を持って外に出た。

 庭の真ん中に花を差して引き返し、遠目で眺めるのが好きだった。そこから足跡を消し去って、完璧な景色をどう作り上げるかが、密かなの課題だった。

 白銀の髪が指の隙間から滑り落ちる。きらきらと月の欠片が散らばるようだった。彼女の目は私に合わせられたままだ。


 窓の外に複数の気配があった。息を潜めて建物の様子を窺っているらしいが、彼らの足は見事に見えていた。

「思ったより早かったな」

 男はエリシアの髪を引っ張り上体を起こさせた。首に宛てられたナイフを慌てて止める。男はひょいと軽い調子で片眉を跳ね上げた。

「おいおい。仕事の邪魔をするのはなしだぜ。安心しろ。苦しまないよう殺してやるから」

「何も安心出来ないじゃない!」

「そうかい。苦しませるのがお好みか」


 男はにたりと笑って、私を突き飛ばす。私が体勢を立て直す間もなく、エリシアの胸にナイフを突き立てた。

 身体を硬直させるエリシアを押さえつけて嘲笑い、いたぶるようにゆっくりとナイフと抜く。

 ドレスがみるみるうちに黒く染まっていく。

 上で暴れ回っていた大勢の気配が消えた。

 ただ茫然と、月明かりに晒される光景を見つめていた。

 男が何かを叫んだが、今の私には言葉として認識出来なかった。

 目前のエリシアへ手を伸ばす。しかしその手を取ったのは他の誰でもなく、エリシアを刺した男だ。そのまま腕を後ろに回され、床に押さえつけられる。

 荒々しい足音が部屋に近付いてきた。


「エリシア!」

 現れたのはエリシアのヒーローだ。

 シルヴァスト殿下は何にも目もくれずエリシアに駆け寄った。迷いなく応急処置をし始める。

 その慌ただしいさまを、言葉も忘れて見つめる。

 全てを見届ける前に立たされた。詰めかける兵士の間を縫って、地上へと連れ出される。

 階段を一段上がるごとに空気は暖かくなっていった。それとは相反して私の感情は冷えていく。

 足が石ではなく木の床を踏む。階上にいた兵士が、私を見るなりグランツの名を呼んだ。慌てた様子で奥の部屋を飛び出してきたグランツの表情が目まぐるしく変化する。

 懸念が安堵に変わり、沈痛なものへ変化し、感情を抑え込んで真顔に変わる。取り繕おうとはしているものの、痛ましさは滲み出ていた。

「怪我はないか?」

「あら。心配してくれるの?」

 嫌みを込めて笑うと、彼は一瞬怯んだ。上着を脱いで無言で私にかける。それは目を逸らすための口実に思えた。

「お父様とお母様は?」

 グランツは沈黙を返す。それが答えだった。


 漫画では“マシェリー“と“エスキオラ夫人“は修道院送りにはされたが、“エスキオラ伯爵”に関しては投獄までしか書かれていない。明言はされていない。しかし最終的には打ち首にされたのだろう。

 だからこんな死に方ではなかったはずだ。母だって死ぬ事はなかった。

 私がこの場にいるように、漫画とは違う展開になっている。確実に何かが変わったのだ。

 だけど、最悪の結末を変える事は出来なかった。

 知っていながら見て見ぬ振りをした。その報いがこれなのだろう。

 私の記憶は、この運命を変えるために神が与えたものだったのだろうか。ならば活用出来なかった私が一番滑稽なのかもしれない。


 罪人の移送用の馬車の前に連れて行かれた。グランツはこの中で待つように告げて建物へ戻っていく。

 それを確認して、兵士を装い続ける男に声をかけた。

「私も殺されるの?」

「ここまで見ちまったからなぁ」

 男の口振りはあくまで笑いを含んでおり、仕事というよりも趣味と言わんばかりの態度だ。どのように殺されるかは分からないが、最期に見るのはきっとこの男の笑みなのだろう。

 しかしだからこそ、この男なら私の話に乗ってくれるように思えた。

「あなたにお願いがあるの」

 私は唇で弧を描く。

「エスキオラ家の本邸や別邸を燃やしてちょうだい。使用人に手を出さないなら、中の物はいくらでも持って行って構わない。だから――何も残らないようにして」

 あの屋敷に残された思い出を、誰の手にも渡されないようにして。


 男は何も言わなかった。

 ただ猫のように目を細め、にたりと、獣のような歯を覗かせた。

 

 

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