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その休日は使用人に起こされる事もなく目を覚ました。
カーテンを開くと、庭には春の柔らかな日差しが降り注いでいた。とはいえ朝方はまだまだ冷える。
窓際に椅子を寄せ、毛布にくるまり膝を抱えながら庭をぼんやり眺めていた。
どのくらいの間そうしていただろうか。部屋の扉が控えめに叩かれた。顔を洗うためのたらいを持って来てくれた使用人が、私を見るなり目を丸くしたので少し笑った。
顔を洗い、身支度を整える。朝食を摂ってテラスに出た。テラスに出された席に着き、朝したように庭をぼんやり眺めた。
これが冬なら雪をうっとり眺めたり、犬のように庭駆けまわるのだが、春の麗らかな陽気の中では、遊び回るよりもただこうしていたい気分になる。
春の気配が顔を覗かせてからは暖かったり寒かったりと気温は安定しないけれど、今日は日中暖かくなりそうだ。
「お茶をお持ちしました」
おじいちゃん執事のエリオットがテーブルにお茶を並べてくれる。
「お菓子は?」
「朝食を召し上がったばかりではございませんか」
「お菓子はベツバラなんですぅ」
「またそのような事を」
初めて“ベツバラ”を使った時は全く通じなかったけど、何度も使っていると理解されるものだ。
「残念ですがお茶の時間まではお待ちください。代わりにこちらでよろしければ」
エリオットがポケットから取り出したのは小さな小瓶だ。中には花の形の砂糖菓子が入っている。彼はそれを皿にいくつか転がした。
お茶の時間以外や夕飯前にお菓子をねだった時、いつもこのお菓子をくれる。その時は彼の仕える家の令嬢ではなく、親戚の子供になった気分になる。こんな親戚のおじいちゃんがいたら顔を合わせるたびに構って構ってとまとわりつく事請け合いだ。
「エリオットは用意が良いわね」
「お嬢様がお腹を壊されては大変ですから」
おどけて言う彼と一緒になって笑い合った。
お茶を飲みながら、ゆったりと日向ぼっこをする。
植物になった気分だ。光合成だけでも生きていけそう。もちろん甘いものは別腹だ。
幸せな日々を惜しむように、緩やかな時間を過ごす。
だけど時間は、速さを変える事はない。緩やかだと感じるのは、所詮私の錯覚でしかないのだ。
使用人がテラスに出てきた。
「お嬢様。マキウス卿がお見えになっています」
私は仄かに笑った。
グランツに誘われるまま、街に出た。
幼少時代を追い掛けて、馬車は様々な店が軒を連ねる中央通りに入る。
この街は城から伸びる一本の大通りを中心に、無数の道が血管のように広がっている。通りによって立ち並ぶ建物や店の雰囲気が変わるが、中央通りを彩るのはことさら華やかな店々だ。服飾、宝石、レストラン、カフェ。趣向を凝らした看板が軒先にぶら下げられ、見ているだけでも楽しい。
しかし私が一番好きな場所はこれらの店ではない。
通りに馬車を停め、グランツの手を取って降りた。
賑わいの方向へ足を向ければ、色とりどりの天幕の張られた市場に入る。休日なだけに昼間から人で溢れており、至る所から威勢の良い声が聞こえた。取り繕うのも忘れて笑顔が面に出てしまう。
「久しぶりに来た!でも前はこんなに賑やかだったかしら」
「人口がまた増えているからね。さあ。はぐれないように注意して」
グランツが私の手を握り直して引き寄せた。そうしなくとも、この人混みでは必然的に距離を詰めなくてはならない。
窮屈な思いは、しかし市場に並ぶ物に目を奪われる事で全く気にならなくなった。
「知らない果物がいっぱいだわ」
「マシェリーが来なくなった三年の間に、他国から入荷される食材の種類が増えたんだよ」
赤に黄色に緑に橙色。張られた天幕に負けないほど、並ぶ商品も色彩豊かだ。何だか目がちかちかしてきた。
進んでいると、そのうち食欲を刺激する香りが漂ってくる。
商品によってある程度区画が決まっている。市場の終着点に固まっているのが食べ物屋だ。おいしそうな香りに加え、じゅうじゅうと焼ける鉄板の音やばちばちと爆ぜる鍋の音を聞けば、よだれが出ないわけがない。
「何か食べるかい?」
「ここに来たらまずは鳥の串焼きでしょう」
グランツは笑って了解した。
香ばしい匂いを漂わせる屋台に並ぶ。屋台のおじさんは、如何にも金持ち令嬢といった風体の私が嬉々として串焼きを受け取った事に驚いていたけれど、大好きなのだと伝えるとすぐに破顔した。
他には芋を擦り潰して香辛料を混ぜて揚げたものや、厚めのパンを焼いて白身魚を挟み特製のソースをかけたサンドイッチ。もしかしてあれはカレーじゃないか?ナン、ではなくイーリャンと呼ばれる硬く焼いたパンのようなものを浸して食べるだなんて。お菓子は厚く焼いた生地で果物を挟み、さらに甘いソースをかけて食べるものがある。
どれも私を誘惑してくるけれど、さすがに別腹を持つ私の腹をもってしても全ては収まらない。
悩んだ結果、鳥の串焼きの他には、カレーっぽいのとクレープっぽいのを選んだ。実際のところは名称が違うが、あまりに懐かしいためそう呼ぶ事にしておく。
ふとある屋台の前でグランツが足を止めた。
「覚えているかい?前に話したナギルという食べ物の事を。これがその店だよ」
その屋台にはこの国の言語ではない文字で看板が掲げられていた。中を見て私は押し黙る。
「注文した具を中に詰めて握ってくれるんだ。食べてみようか」
「私はいいわ」
「どうして?あれだけ食べたがっていたじゃないか」
「もういいのよ」
飲み物が欲しいとねだる事で話を逸らす。グランツは不思議そうにしながらも、追求はしなかった。
市場の先には広場がある。そこは休日ともなると大道芸や楽団がやって来て祭りのような賑わいになる。軽快な音楽が広場に溢れ、時折歓声と拍手が上がった。
開いているベンチに座る。
まずは何を食べようかなぁ。うーん。串焼きは冷えたらおいしくないし、まずはこれだ。
かぶりついて頬を落っことす。この甘めのたれ。肉汁と絡み合って舌でとろけるのが最高だ。
機嫌良く食べている私を見つめ、グランツが目を細めて笑った。
「懐かしいな。マシェリーは昔から串焼きが好きだったね」
これを食べると祭りに来た気分になるのだ。後は焼きそばと綿あめがあれば文句なし。
焼きそばはないけれど、カレーの実食に移る。イーリャンを千切り、容器に入ったカレーに浸す。意気揚々と口に含み――危うく吐き出しかけた。
何だコレ!!
「に、苦い……」
胃がひっくり返りかねない強烈な苦さだ。誰だこれ作った奴は!味覚を疑うレベルだよ!
「あ~、やっぱりマシェリーは苦手な味だったみたいだね」
知っていたなら教えてよ!
恨みを籠めた目で睨み付けたら、グランツの奴、笑い飛ばしやがった。
「私は結構好きなんだ。食べていたらこの苦さが癖になるんだよ」
ドMですか。グランツさんドMだったんですか。
私は無言でイーリャンと容器をグランツに押し付けた。口内を蹂躙する味を果実水で薄めてクレープを食べたら、天上の味がした。
「やっぱりマシェリーと街を歩くのは楽しいよ」
「私はあなたと歩くのが嫌いになりそうよ」
あ。笑いやがって。
しかし広場の陽気の中にいたら、不機嫌も長くは続かない。
食事を済ませたら、グランツに手を引かれるまま広場を歩く。
大きなボールに乗って披露される芸に手を叩き、軽やかに流れる演奏で手を取りあって踊る。花を売り歩いていた少女から小さな花束をひとつ買って、一輪グランツに胸に飾ってやった。
グランツは嬉しそうに、それでいて何かを堪えるように笑ったけれど、気付かない振りをした。
どこに行くわけでもなく、露店を冷やかしたりして広場を回る。
そうして不意に会話が途切れた。
私達の間を軽快な音楽や広場の賑わいが通っていく。だからこそ沈黙が浮き彫りにされた。
私はグランツの手を離した。
「そろそろ帰りましょうか」
市場に入り、人の合間を縫って裏通りで待っているはずの馬車の方へ向かう。後を追ってきているはずのグランツの気配が、通行人に紛れて完全に分からなくなった。
それでも振り返らないし、立ち止まらない。人を避けながら目的地だけを目指した。
引き留めるのは、今まで紛れていた彼の手だ。
振り返る。
私の手を握り立ち尽くす彼の気配は、対峙してもなお人混みに消えてしまいそうな程心許ない。通行人はまるで何もないかのように私達に一瞥もくれずに通り過ぎていった。
そして彼はその全てに目もくれず、私だけを視界に捉えている。
聞き慣れた声が聞き慣れない声色で告げた。
「マシェリー。君が、好きなんだ」
決して大きな声ではない。しかし喧騒の中でさえ、私の耳にはっきりと届いた。
私は小さく笑う。
どうしてだろう。
私にはそれが、別れの言葉に聞こえた。
「無理よ。あなたは私の幸せを壊す人だもの」
グランツの目が大きく見開かれる。次第に顔が強張っていくのを見逃さない。
「私を好きだと言うなら、あなた達が進めている計画を止めて」
探るような沈黙の中で見つめ合う。
私の確信を感じ取ったようだ。ごまかす事もしなかった。
「どこで知ったんだ」
私は微笑むだけで答えない。
「私は、伯爵が無実だと信じている」
「それでもあなた達は捕えに来るのでしょう?」
グランツが唇を噛んだ。捕えた手が握り返される事はないと知っているから、私を留めるために掴む力が強くなる。
「私の元に来てくれ。せめて君だけでも」
「嫌よ」
「伯爵はそれを望んでいる」
「お父様にはもう私の意思は伝えたわ。あなたとは一緒にはならない」
「マシェリー!」
いつも穏やかで、怒る時でさえ静かに諭していた彼が、初めて声を荒げた。
そうまでさせても受け入れる気はない。私は決めたのだ。
「私か、正義か。どちらも選ぼうなんて虫が良すぎるの」
だって私は悪の象徴なんだもの。
ヒロインが現れた時点で役回りなんて決まったも同然なのだ。
そうだ、決まっていたのだ。
始めから、全て。
「お父様とお母様を殺したら一生許さない」
呪いの言葉を、グランツは茫然と聞いていた。




