7
「マシェリー?今度の休暇にオリバー伯爵夫人がお茶会を開くようなんだけど……」
母は難色を示した私を見るなり息をついた。
「私だけで行きましょう」
休日にまで愛嬌を振りまいていられない。ベッドでごろごろコースは決定事項である。
用件はこれだけかと思いきや、母は椅子に座って使用人を呼び寄せ、お茶を持って来るよう告げた。そして唐突に訊ねてくる。
「学校の様子はどうなの?」
「え?」
「平民が貴族に楯突いているようじゃない。貴族を取り纏めているのはあなたなのでしょう?」
ああ、はいはい。
あれだけ激化していると、親が知らないでいるというわけにもいかない。私は両親に一切話していなかったが、連日どこかしらで夜会やらお茶会やらが催されるこの時期。両親の耳に入らないわけがないのだ。
「良くは……ない、ですね」
ごにょごにょと言葉を濁す。肩をすぼめたら、しゃんとしなさいと怒られた。背筋が伸びてしまうのは長年の教育の賜物である。
「いつ如何なる時も背筋を美しく保って向かい受けなさい」
とは言いますけど。
弱気になったらまた猫背になっていたようで、容赦なく怒られてしまった。母と話していたら落ち込む事も出来やしない。
「あなたがそれでは和解も難しいわよ」
「……え?」
「あなたは貴族の勝利ではなく、平民との和解、さらに言えば純血至上主義の緩和を考えているのでしょう?あなたが混血や移民、平民を見下す人間ではない事は、お父様もお母様も気付いています。そのうえ事なかれ主義のあなたが貴族の筆頭に立つのだから、それなりの考えがあっての事なのでしょう?」
「うええええ?」
「何ですかその声は。みっともない」
慌てて口を噤んだ。
「気付いていないとでも思っていたのなら見くびり過ぎだわ」
母は運ばれたお茶を口に含む。私も倣いながら、驚きを呑み込んだ。
決して見くびっていたわけではない。しかしエリシアの事は良くは思っていないようなので、気付いていながら今の今まで何も言わなかった事が意外なのだ。
考えている事が分かったのだろう。母は小さく息をついて答えをくれる。
「あなたを見ていると考えも少しだけ変わったのよ」
私?何かしたかな。
グランツなら分かる。彼は混血や移民を受け入れてもらえるように動いていた。しかし私はエリシアが現れるまで、何もせずに静観していただけにすぎない。
一体私の何が母に影響を与えたのか。
はてなを無数に飛ばしていたら、母は思いがけない話を始めた。
「子供の頃、グランツと出掛けるたびに私達に内緒で街に出ていた事は分かっているのよ」
「えっ、どうしてそれを……」
「グランツから聞いたわ。初めて街に行ったその日にね」
「はい!?」
初耳ですけど!?
「あなた、あの真面目なグランツが私達に黙って何度もあなたを街に連れ出したなんて、本気で考えていたの?」
思ってました。だから何も言わないのかと。だって純血主義者の両親が許すなんてとても思えなかったから。現に街に出たいとせがんだ時、両親共に反対したではないか。
私が目を丸くしていると、母がそっと息を吐いた。そうして切なげに目尻を緩める。
「今後も街に出られるようにと、グランツが何度も頭を下げたのよ。ノハルも一緒になってね」
ノハルとは私の乳母だった人だ。私が学校に通うようになってからは、退職して家で孫の面倒を見ている。時折孫を連れて遊びに来てくれるほど、今でも付き合いがある。
使用人の中で唯一、街で遊んでいると知っている人だ。遊び回って帰ってきた日には、何を食べたとか何を見たとかその日の事を興奮のままに話していたのだ。
「……正直に話すとノハルが羨ましかったわ。帰ってきたあなたの顔はとても満足そうで、楽しかったのだとよく分かった。だけど私達にはノハルにしたようには話してくれなかった。何を食べた、なんて、絶対話してくれなかったわね」
まさか母がそんな事を気にしていたとはついぞ思わなかった。母がそうなのだから、おそらく父もそうなのだろう。父は一人娘である私を大層可愛がっているのだから。
以前におにぎりを食べる許可をくれた日。おにぎりの感動を伝えたら凄く喜んでいた事を思い出す。
「お母様は今でも、王族や貴族には異国の血を入れるべきではないと考えています。王弟殿下はもちろん、マキウス家に失望した気持ちは変わりません。しかしそうでない者を、非難する気はもうありません。平民が誰と婚姻を結び、生まれた子が混血だったとしても、それはその子自身の価値に関わるものではない事を認めましょう。これはお父様も同じ考えです」
一変して真剣みを帯びた表情は、それが本音である事を示していた。
母はごまかしを許さぬ強い眼差しで私を射抜いてくる。
「あなたを悩ませている理由に私達が含まれているのなら、それはもう気にする必要はないわ」
心臓が、胸を強く打った。
「お父様がついに決断をなさったの。本格的に異国を相手の事業に着手するおつもりよ。
今まではアルバトラ公爵の事もあって躊躇っていたけれど、ようやく決心がついたようだわ。だからあなたはもう、私達の立場を気にかける必要はありません」
その言葉がひどく重たく響いた。
感動でも喜びでもなく。
まるで抱えきれない程の大きな岩を落とされたように。
重くなった手足に、顎は自然と下がる。気分も悪くなってきた。
父が決断を下した。
だから私もまた、決めなければならない。
「背筋は伸ばす!」
「はい!」
飛んできた叱咤はやはり強制的に私の背筋を伸ばさせる。実際そうされたわけではないのに、肩を掴まれぐっと後ろに引っ張られた気分になるのだ。
「ついでにあなたがあの子に作法と貴族の常識を教えてあげなさい。あれが庶子とはいえ王族の血を継いでいるなど考えたくもないわ。あれから三月も経つというのに何の進歩もない。ルノアール公はふらふらと遊び回るばかりで教育放棄も甚だしいわ」
作法に厳しい母は、エリシアが混血という事を抜きにしても彼女の行動が目に余るようだ。おかげで苦笑いを禁じ得ない。
きつい眼差しで睨み付けられた。これにはカエルもショック死するだろうし、蛇だって竦み上がってしまうに違いない。国を奪還した英雄だって裸足で逃げ出すレベルだ。
「やるからには徹底的にやりなさい」
叩き潰せと言わんばかりの口振りだ。うちの母様超怖い。
この恐ろしい女王様にやれと言われたのならばやるしかあるまい。
深く息を吐いた。先日聞いたグランツの助言を思い返す。
無駄かもしれない。
それでも試すだけの時間が私にはある。
漫画とは違う、両親の作ってくれた時間が。
瞑目して、ひとつ深呼吸をした。
目を開くと、母が満足げに笑っていた。
休日、ミナルゼとオリビアを屋敷に招待した。
柔らかな陽光の降り注ぐテラスに用意されたテーブルへ二人を促す。
少し会話を楽しみ、頃合いを見て執事のエリオットに目配せした。彼は頷き、屋敷の中へ入った。
「今日は二人に食べてほしいものがあって呼んだの」
声が震えた気がした。ただの気の所為だったのか、二人の態度に変わりはない。
密かに深呼吸をして、件のものがそれぞれの目の前に並べられていくのを見守る。二人は物珍しそうにそれらを見つめていた。
「特別に作らせたの。どうぞ召し上がって」
アルコットという果物を砂糖で煮て容器に移し、冷えると固形化する材料で固めたものだ。光に当てるとアルコットの橙が黄金色に輝く。
果汁を凍らせた菓子はこの国にもある。だけど今目の前にある、凍らせたわけではなくつつけば震える柔らかいその菓子を、二人は見た事がないようだった。
ガラスの置物さながらのそれに興味津々のミナルゼとオリビアは、匙でそっとつついた。まず掬って口に含んだのはオリビアだ。目を丸くした彼女は、ふわりと微笑んで幸せそうに瞳をとろけさせた。続いたミナルゼもオリビア程の反応は見せなかったものの、気に入ったのだという事は見て取れる。口元が綻んでいた。
私は唇を引き結ぶ。テーブルの下で握り込んだ手のひらに汗が滲んだ。深呼吸をしてぐっと背筋を伸ばす。
「とてもおいしいでしょう?それ、異国のお菓子なの」
二人の食べる手が止まった。
瞠目して私を見て、今自分が食べたものを凝視して。そして困惑の双眸を再びこちらに向ける。
口を開いたのはミナルゼだった。
「どうしてこのような物を……」
動揺を露わにする彼女は、私の行動がただただ信じられないようだった。何かの冗談だろうと願っているようにも見える。
心臓がどっどっどと強く脈打つ。今にも破裂してしまいそうだ。今の私は冷や汗が全身から噴き出しているかもしれない。
だけどそれでも、彼女の意に沿う事はしなかった。
「料理を通して、異国が決して悪いものではないと知ってもらいたかったの。こんなおいしい物を作れる国があるのよ。とても興味が湧かない?」
オリビアはそろっとミナルゼを窺い、俯いてしまった。
柔らかな陽光と暖かな景色に反して、テラスの一帯の空気は張りつめていた。水面に張った薄氷のように、少し亀裂が入れば途端に崩れてしまう。
私は、自らの手で亀裂を入れた。
「二人に話しておかなければならない事があるわ」
胃がひっくり返りそうだ。緊張は初めての舞踏会に出た時の比ではない。
「今まであなた達に嘘をついていたの。私は、純血に拘り続ける事をずっと馬鹿馬鹿しいと考えていた。昔から異国の文化や料理に興味があったの」
ミナルゼがすかさず否定した。
「嘘だわ」
「本当よ」
「では何故エリシアと対立していたの?」
「エリシア側につく勇気はなかったのよ。だってそうしてしまえば、家の立場は悪くなるし、あなた達には軽蔑されてしまうと思ったから」
怒りと失望の眼差しが突き刺さる。
焦燥を抱えて早口になろうとするところを堪えた。それでも口調はいつもより早く、引き攣っている事が嫌でも分かる。
「学校の現状を知っているでしょ?このままじゃクインシード王立学校はダメになる」
「それは、エリシアが私達の言う事を聞かないから」
「エリシアだけの所為じゃないでしょう?私達貴族にだって原因はあるわ」
不快そうにするミナルゼは本気で理解出来ていないようだ。全ての元凶はエリシアにあると思い込んでいる。
やっぱり無駄だったんだ。
よぎる諦観を押さえつけてでも、最後の懇願に縋った。
「対立をやめさせたいの。あなた達にも協力をしてもらいたい。お願い。私に力を貸して」
駆け引きなんてあったもんじゃない。
憎々しげな双眸が、私を突き刺してくる。
「勝手な事を言わないで」
低く唸るように吐き捨てられた。その後は視界に入れる事さえ不愉快だと言わんばかりに、私から目を逸らして乱暴に席を立ち上がる。
「帰ります。行きましょう、オリビア」
「え、でも」
躊躇ったオリビアを、ミナルゼがきつく睨み付けた。
「あなたもエリシア側につくとでも言うの?あんな礼儀もなっていない野蛮な人間に、あなたもつくと?」
オリビアは押し黙った。私の方を見て、すぐに目を逸らす。
憤然と歩くミナルゼについて行きながら、オリビアは何度もこちらを振り返ったが、その姿もついに見えなくなってしまった。
小鳥の軽やかな鳴き声が、虚しさを強調させる。だらしなく背凭れに背を預け、深く息を吐いた。
「お嬢様。お疲れ様でした」
エリオットが気遣わしげに声をかけてくる。項垂れている私には彼の表情は見えていないけれど、何となく想像はついた。
やめてよ。同情されたら余計に情けなくなるじゃないか。
踏み出したからには、もう進むしかない。
「エリオット!残りのゼリーを全て持って来て!」
「どうなさるおつもりですか」
「やけ食いよ!私はとってもキズついたの。ストレス発散させて、頭を切り替えるんだから」
「お嬢様。あのような甘い物を多く摂るのは体によくありません」
「いいから持って来て!ストレスには甘いものが一番なの!」
エリオットは肩を竦めて、だけどどこかほっとしたように、言いつけに従った。
テーブルいっぱいに並べられたそれらは、太陽の光を受けてきらきらと輝いている。まるで金貨が積まれたようだが、眩しい分だけ食欲は減退してしまった。
それでも無理やり胃に詰め込んだ。
二人の協力が得られない事くらい予測はついていた。表面ではエリシアと敵対しつつ、裏で徐々に理解を深めていくように工作でもしていればあるいは可能性もあっただろう。だけど友達二人にはやはりすぐにでも協力してほしかった。
それに私に黒幕系女子はレベルが高すぎるという事は、これまでのエリシアとの攻防でいやという程分かりきっているのだ。どうせヘタに手を回そうものなら墓穴掘っちゃうタイプですよ。
そういう点では私もエリシアとは似た者同士なのかもしれない。先行きが不安すぎる。
今は食べる事に集中して、気が済んだら対策を考えよう。幸いにも漫画とは違う運命を進んでいるのだ。
エリシアとライバル・マシェリーが手を組む未来の結末は、ハッピーエンドに決まっている。卒業までにクリア出来るかが問題なのである。
漫画とは違う結末を、私は信じて疑わなかった。
そもそも現実になる要素がないのだ。
両親はもう純血至上主義ではない。だから漫画の通り王弟を手にかける事など、起こり得ない。
起こり得ない、はずなのだ。
それはミナルゼやオリビアと決別した日の夜の事だった。
帰宅した父が酷く憔悴していた。誰が見ても思い詰めている事は明白で、私や母のみならず、使用人さえも心配した。
「旦那様。一体どうなさったのですか?」
居間で険しい顔をして長椅子に座り込む父に、母が訊ねる。私や使用人達は扉を僅かに開き、部屋の外から固唾を飲んで聞き耳を立てていた。
背後で咳払いがあった。振り返ると、執事のエリオットがじと目と無言で私達の行動を咎めていた。
使用人達はそそくさと退散。私は父の様子が気になってその場を離れる事も出来ず、結局重苦しい空気が充満する居間へと足を踏み入れた。
母は父の前で膝を突き、気遣わしげに父を見上げている。私は母の傍らに座り、同じようにして父の言葉を待った。
顔を青ざめさせた父は、喉に詰めていたそれを呻いて吐き出す。
「私は……、これまで純血こそが尊い血なのだと信じていた。それは今でも変わらない。しかし――」
途切れた先はなかなか続かない。組んだ手に額を当て、悩ましげにするばかりだ。
それで良かった。
それ以上は聞きたくなかった。
震えだした手を、もう片方の手で押さえつける。
父の口から出たのが借金という単語だったならどれだけ良かっただろうか。脅されて金をせびられているでもいい。
だけどそれだけは聞きたくなかった。
『純血』に関する、それだけは。
父の苦しみだけ、不吉な予感が膨張していく。
ないと思っていた道が、ただ闇に隠れていただけだったのだとしたら。
そしてあると信じた道が、ただの幻だったのだとしたら。
母は父の手にそっと自分のそれを重ねた。
「旦那様は旦那様の信じる道をお進みください。私はあなたと生涯を誓いました。あなたについていきましょう」
父は何も言わない。
母は何も聞かないと決めた。
私は、何も言えなかった。
力強い言葉に奮い立たされた父の瞳に力が戻る。怯えて、しかし立ち向かおうとする意志が俄かに見え始めた。
「そうだ……。これは愚かな事なんだ」
怖気づこうとする自分に言い聞かすようだった。
「すまない。君達を巻き込んでしまうかもしれない」
「構いません」
母に迷いはない。
だけど私は――。
止めるべきだったのだろうか。
愚かな事であっても、従うべきだと。
告げるべきだったのだろうか。
予感がする。
否定しても拭いきれない、黒い靄のような、予感が。
登校すると、ミナルゼとオリビアに鉢合わせた。
ミナルゼは私と目が合うなり瞳を冷たく凍らせる。おもむろにこちらに歩み寄り、挨拶もなく訊ねてきた。
「昨日の事、ただの冗談よね?」
ここで肯定したら、全てを赦してあげる。言外に告げる彼女を、私は黙って見つめた。
異様な空気に気付いたのか、周りから視線を向けられる気配がする。ミナルゼの後ろに隠れるようにしてこちらを見守っていたオリビアが、こわごわと周囲を窺った。
この観衆の目の前で、今後エリシア側につく事を宣言しなければならない。
昨日二人に打ち明けた時とは違う恐怖が、足先から競り上がってくるようだった。素足で氷上に立つかのように手足が冷えていく。
人垣の割れる気配がした。
振り返ると、その先には白銀の髪を持つエリシアがいた。彼女は私達の様子に困惑の色を見せる。
これからはエリシアと共に現状を変えていかなければならない。ミナルゼとオリビアの協力を得られなかった事は残念だけど、時間をかけて話していこう。そうすれば分かってもらえる日がくるかもしれない。
純血主義者が考える程、異国は悪いものではないのだ。
エリシアはやり方がまずかった。彼女の身近には咎める人間がいなかった。ならばこれからは私が彼女のストッパーになればいい。
エリシアに向き合う。足が俄かに震えだした。
他人には見えない黒い靄が絡みついて、呼吸を乱す。
握った拳が湿り気を帯びた。
大丈夫。大丈夫だから。
だって漫画には、“マシェリー”がエリシアにつくなんて話はなかった。
つまり運命は変わってきているという事でしょう?
父は王弟を手にかけたりなどしない。この先純血主義からの風当たりは強くなるだろう。けれどつらい期間があろうとも、誠実に向き合えば認められる。
エスキオラ家は大丈夫。これからもずっと続いていく
お父様やお母様も一緒に。
震える口が言葉を紡ぐ。
しかしそれは、言うべきものとは真逆のものだった。
「私に近寄らないで」
エリシアの背後に見たのだ。
大きな鎌を持ち、虚ろにこちらを見つめる、死神を。
数日後、王国イストランゼに、ある報せがもたらされる。
南へと旅に出ていた王弟が襲われた。
王弟は瀕死の重体だという――。
*****
何故、こんな事になってしまったのだろうか。
突然エスキオラ伯爵がグランツを訪ねてきて、マシェリーとの結婚を申し込まれた。願ってもいない事だが、エスキオラ伯爵の様子は明らかにおかしかった。
顔はやつれ、背筋は丸まり、元々グランツより背の低かった彼だが、以前よりずっと小さく見えた。
訳を訊ねども何も聞かないでくれの一点張り。そしてこの機会を逃せば、マシェリーを嫁に取る事は不可能だろうとまで言われた。あるいは一生顔を合わす事も無理だろうとも。
伯爵の発言は不審だった。
そもそもグランツを婿養子として取るのではなく、マシェリーを嫁に出すという点もまたおかしい。マシェリーが嫁に出たら、一体誰がエスキオラ家を継ぐというのか。養子を取る話は聞いていない。
結婚の申し出は当然受けるつもりだ。グランツが望んでやまなかった事なのだから。しかしその前にマシェリーと話がしたかった。
ひとまずその場は伯爵を見送った。
そして仕事の様子を見ながらエスキオラ邸を訪ねる日を決めようとしていた矢先に、事件は起こった。
王弟の娘エリシアが学校で貴族の尊厳を侵し、平民を焚きつけて貴族に刃向っているのは、世事に聡い者であれば貴族に限らず知らぬ人間はいない。当然その中心にいるエリシアが、純血主義問わず貴族のうちでも煙たい存在となっている事は知られた事だ。
シルヴァストの狙いはそこにあった。
エリシアが疎まれれば疎まれる程、純血主義は彼女を排除しようと動くはずだ。グランツ達は嫌がらせの数々、法に触れる行いの証拠をこつこつと集め、一斉に純血主義の力を削ぎ落す機会を窺っていたのである。
純血主義者の苛立ちは最大値に達していた。近々動きがあるだろうとシルヴァストやグランツも踏んでいたのだ。
そして実際、シャリマの命が脅かされるという事件が起こった。
しかしそれはシルヴァストの計画の内だ。
現場となった相手方の国には事前に話をつけており、全ての準備を整えて送り出している。密かに護衛をつけられたシャリマは大した怪我を負ってはいない。国への報告は、捕獲した殺し屋の雇い主を騙すためのものだ。
殺し屋は速やかにイストランゼに移送する事が決まっていた。
だがその翌朝、殺し屋は血まみれになって事切れていた。
捜し出した殺し屋の住処からは、シャリマを殺すように書いた依頼書が発見された。事情聴取はしていたものの、依頼主は偽名を使用していたのである。よって発見された依頼書は重大な手掛かりとなった。
鑑定士に依頼をして筆跡をたどる。特定にはシャリマに宛てられた、娘との血の繋がりを問う多くの手紙が使われた。
不吉な予感がした。
頭の中で繰り返されるのは、ほんの数日前に訪ねてきたエスキオラ伯爵の事だ。
三日後。シルヴァストの元に一枚の鑑定書が届けられる。
目を通した彼がこちらを見た。火花のように一瞬だけ燃えて消えた憐憫に、予感を覚えるなという方が無理な話だった。シルヴァストが無言で鑑定書を差し出す。
受け取ろうと伸ばした手は僅かに震えていた。内容に目を通し、唇を噛む。
その鑑定書は、殺しの依頼書の筆跡とエスキオラ伯爵の筆跡が一致したと報告するものだった。
「そんな、はずはない。伯爵がまさか」
「しかし奴も純血主義の一人だ」
「あの方はそんな真似はしない。やりなおしてくれ」
「何度調べようと結果は同じだ」
「代筆屋を使って似せて書いた可能性もある!」
「そうだとして、それをどうやって証明する」
その答えをグランツは持ってはいなかった。
今回担当した筆跡鑑定士の目は確かだ。私利私欲に走らない高潔さをもって鑑定に挑んでいる。それをシルヴァストが認めており、グランツ自身もまたその腕と誇りを疑う事はなかった。
しかしこの結果が受け入れられるはずもない。
この国には代筆屋という職業が存在する。依頼主に代わって手紙や書類を書く事が主な仕事だ。恋文を書いてもらうという依頼もある。人気の代筆屋ほど文才に長け、そして――様々な筆跡で文字を書けた。
無骨に、もしくは可愛らしく、あるいは優美に。優秀な代筆屋は依頼に沿って巧みに字体を変える事が可能なのである。
優秀すぎる者の中には、字体を真似てあたかも本人が書いたかのような手紙を書く事が出来た。
しかしそれでもなお、鑑定士の目を完全にごまかせる者はほとんどいないとされている。
「エスキオラ家を見張れ。次はエリシアを狙う可能性が高い。あの家には前科もある」
「待ってくれ。あれはマシェリーの本意ではないとお前も納得していたはずだ!」
教師によるエリシア殺傷事件。あれはマシェリーがエリシアの態度を軟化させるように教師に依頼したものであり、エリシアが襲われる事になるなど考えてもいなかったはずだ。それはグランツがマシェリーの口から直接聞いている。
それにマシェリーが如何にエリシアに気を遣っていたのか。彼女が過去エリシアに宛てた、一見すれば怪文書とも言える手紙の内容を見ても分かるだろう。混血を落とさずにと気を配られた丁寧で切実な文章を考える人間が、エリシアを傷つけるよう依頼するだろうか。
鑑定書をテーブルに叩きつけて、シルヴァストを睨みつけた。
常に温厚な態度を貫く友人の鋭い視線を受けながらも、シルヴァストは怯む事はない。
「お前がマシェリー・エスキオラを守りたいように、俺もエリシアを守りたい。――悪いな」
グランツは何も返す事が出来なかった。その気持ちを、やはり理解出来てしまうからだ。
唇を噛み締める。身を翻して部屋から飛び出した。
エスキオラ伯爵の無罪を証明しなければならなかった。
現段階で言い返す事が出来なくとも、調べていけば否定し得る何かが出てくるはずだ。諦めるわけにはいかない。
伯爵と密かに交わした約束が耳に蘇る。グランツとマシェリーの破談を切り出された時のものだ。
――すまない、グランツ。君の気持ちは知っている。私も君にエスキオラ家を……マシェリーを、託したいと思っている。しかし今のままでは厳しい事は君にも分かるだろう。一部の純血に対する固執は根深い。今君をエスキオラ家に迎えてしまえば、他の純血主義を――アルバトラ公爵を敵に回す事になる。エスキオラ家のためにそうするわけにはいかないんだ。
――十七歳だ。マシェリーが学校を卒業するまでに、結果を出してくれ。
彼は家のためにも、何より大事な愛娘の未来のためにも、愚かな真似をする人間ではない。
それを証明しなくてはならないのだ。




