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私は頭を抱えていた。
もうエリシアへの直接交渉は諦めようと思う。
彼女とは完全に決裂してしまったのだ。私の話になにひとつ耳を傾けてくれそうにない雰囲気である。迸るオーラは可視化出来そうな勢いだ。
「くっ。こうなったら……!」
教員室に入ろうとする一人の教師を呼び止める。猫背で線の細い、常に胃を痛めていそうな顔色の悪いその教師は、エリシアのクラスの担任である。
「少しよろしいですか?」
愛想よく笑いかけ、教師を人気のない廊下に連れ出した。
先生はやけに挙動不審で、私が向き合うとびくりと肩を竦めて身を縮める。そんな怯えなくてもいいじゃないか。
この先生に限らず、どうも私は気の弱い人間に苦手意識を抱かれるようだ。授業中も、教師によっては絶対に私に問題を振らない。こっちは予習復習をして万全の態勢で挑んでいるんですけどね。そんなに顔が怖いかな。常時不機嫌顔をしているつもりはないんだけど。
何とか先生の緊張を和らげようと、にっこり微笑んだ。
「私、少し小耳に挟んだのですけど。先生、賭け事に手を出して借金があるとか」
元々青白かった顔が、青ささえ突き抜けて白くなる。
「お願いを聞いてくだされば、少しですが用立てる事も可能ですよ?」
釣り針を垂らすと、白い喉が上下した。怯えと警戒と期待を交えながら、自信の欠けた目が私を凝視してくる。
食いついた。
一気に竿を引く。
「エリシアに貴族を煽るのはやめるよう説得していただけませんか?先生もご存じでしょうが、彼女のやり方では貴族の方々の反感を買うだけです。あれではとても和解は無理だわ。ですから先生のお力でエリシアを説得してください。……聞いていただけますか?」
本来であれば教師に事情を説明して助けを乞う方が妥当なのだろう。
しかしこの学校の教師は面倒事を嫌う。苛めがあろうと見てみぬ振りだ。この校内紛争だって知らぬ存ぜぬを貫き通す。だからこそお金で動かした方が確実なのだ。
そんな悪魔と契約をするような顔はよしてほしい。そう無茶なお願いではないんだ。いやまあ、エリシアの反応次第ではかなり難易度の高い条件だけども。しかし教師の話なら、彼女もひとまず耳を傾けてくれると思う。
悩んだ先生は、生気の抜けた顔で最終的には私の話に乗ってくれた。
「ありがとうございます。助かりますわ。お金は成功報酬という事で」
はあ。これで好転するといいのだけど。
だがしかし。自分の考えが如何に甘いかを思い知るはめになる。
数日後。
教師による傷害事件が起こった。
被害者はエリシア・ルノアール。そして加害者は、彼女の担任教師だ。
教師は彼女を人気のない場所に呼び出し、ナイフで切りつけようとしたのだという。
この話を聞くなり卒倒するかと思った。
誰がそんなむちゃくちゃな事しろと頼んだ!
私が関わっていた事を知った父が私に関しては揉み消してくれたけれど、それはもうこっぴどく叱られた。父からここまで怒られたのは初めてだった。
一人の人間の人生を台無しにしたんだぞって。
当然反論出来るわけもなかった。
教師はエリシアの説得を試みたものの失敗し。借金だらけで追い詰められていた事もあって、こんな暴挙に出たらしい。
幸いエリシアが庇った事で刑は免れ、教師を辞める事で話がついた。しかし先生に借金がある事に代わりはない。
何の力もない私は、父に拝み倒して就職先の斡旋を頼む事でせめてもの罪滅ぼしをするしかなかった。
学校では事件の話はしても、私の名が上がる様子はない。それに安堵しつつも、後ろめたさは拭えなかった。
エリシアだけが唯一軽蔑の眼差しで私を串刺しにする。あれは確実に事情を知っている。
こぼれた溜息は重い。やはり正攻法を探るしかない。
今度は慎重になってエリシアの取り巻きからいい人材を探してみる。しかし暴走するエリシアを止めない事からも分かるように、ストッパー役になり得る子がいない。平民の中でも抜け目ない子は一歩引いて静観しており、エリシアに自ら触ろうとはしなかった。
あえて言うならマアサに可能性を感じるが、彼女は学校の下働きをやめて、今はルノアール邸に勤めている。近付こうにも近付けない。
名案が浮かばないまま、時間だけが過ぎていく。
癒しの雪の季節は終わりを見せ、気温は寒暖繰り返し始めた。
時折満ちる麗らかな陽気に反して、学校には嵐が吹き荒れていた。
恐れていたように校内の対立構造は変化し、今や『貴族』と『平民』という大きな括りに分裂するようになったのだ。学校は針の筵と化した。教師達の顔にも緊張と疲労が常に付き纏うようになっている。
かろうじて。かろうじて「誇り」やら「血統」やらの単語を使い、怒った母の冷ややかな眼差しを猿真似して、貴族による平民への直接的な嫌がらせを抑えてはいる。しかし根性の腐った奴もいるもので、親に働きかけて家に圧力をかける輩がいるのだ。
これが原因でエリシア派から抜ける人間も少なくない。おかげでエリシアの貴族への認識は益々悪くなるばかり。
エリシア側についた貴族もいるのだ。だから貴族の全員が全員悪い人間ではないと分かっているとは思う。しかし『貴族』というカテゴリーに対して良い印象はないようだ。
嫌な奴の筆頭は、当然ながら私だろうな。渇いた笑いしか出てこない。
「誰か助けて~」
帰るなりベッドにダイブする。毛布にくるまってダンゴ虫さながらに丸まった。
この毛布からもう出たくない。ゲンジツ コワイ。
もういいんじゃね。投げ出しちゃっていいんじゃね。だって自分の死亡フラグは回避しているわけだし。このままエリシアと対立している方が、ろくでもない展開になりそうな気がする。
困った時にいつも思い浮かべるのが、頼りになるお兄さん、グランツだった。
この三月近くは顔も見ていない。仕事が忙しいかと思うと手紙も出せなかった。
たった一年前までは、手紙のやり取りがやっとで姿さえ見る事もかなわなかったのに。随分と贅沢になったものだ。
溜息がこぼれ落ちる。
溜息をつかない日はない。本当にそのうちストレスで胃に穴が開きそうだ。そういえば体がだるい気がする。やった。休もう休もう。明日は学校を休んでやる。
現実逃避を赦さないとばかりに扉を叩く音が割り込んでくる。構わずたぬき寝入りを決め込んだ。ちなみにこの国にタヌキという動物はいない。
「お嬢様。マキウス卿がお見えになっています」
跳ね起きるしかないよね。これぞ噂をすれば影だ。
使用人は今にも飛び出さんとする私を捕獲して身嗜みを整えさせた。この状態でいた事、お母様には内緒にしてね。
逸る気持ちを抑えて応接室へ行くと、そこにはまさしく本物のグランツがいた。全てを甘やかしてくれる柔和な笑みに安堵を覚える。
「グランツ~!」
感激のあまりその胸に突撃してしまう。
はしたない?今だけは許してほしい。明日も続く現実のために、全力でグランツに甘えなければならないのだ。
突然の行動をとっても、グランツは文句もなく私を受け止めてくれた。それどころか労をねぎらうように頭を撫でてくれる。
「学校で大変な事が起こっているようだね」
「そうなの!もう学校行きたくない!!」
医務室登校だってしたくないよ。とにかく学校自体に足を踏み入れたくない。最早家からすら出たくない。学校の事を考えただけで頭痛も胃痛も腹痛も腰痛も押し寄せる。
グランツには来て早々に悪いが、エリシアとの抗争にまつわる愚痴をぶちまけた。親に話したら、元より悪い混血のイメージがマイナスにぶっちぎるため出来ないのだ。
漫画を読んでいる時はエリシアとシルヴァストの恋愛ばかりを追っていて、事件のあれこれについては深く考えてはいなかった。ただ単純に、差別良くない。カッコワルイ。エリシアこんな社会変えちまえとか思っていたわけですよ。
しかしいざ現実で彼女が動き回ると、その向こう見ずな行動力に、こっちは肝を冷やしっぱなしだ。あの漫画、相当強引に話を押し進めていたらしい。よくよく思い返してみれば、王弟暗殺未遂や誘拐事件は解決したけれど、純血主義者との溝については全く解決していなかったような気がする。
そういえば漫画の”グランツ”も、純血主義と混血・移民の関係を憂いていたなぁ。
グランツをそっと窺う。
漫画の“グランツ”も私の知る彼のように、穏やかでいて優しい人だ。純血主義の力を削ぐためにシルヴァストがエリシアを利用している事について、後ろめたさと懸念を覚え、度々諌めている。”マシェリー”に対しても何度か苦言を呈していたような気がする。
嫌だなぁ。まさか今日は苦言を言いに来たのだろうか。
つい身を引くと、彼はすっと目を細めた。
手が伸びてきて頬を撫でられた。そういう意味では構えていなかった分硬直してしまうのは、仕方のない事だ。
見た目も中身も穏やかな気性と言えど貴族の男子。剣術は学んでいる。それ故に硬い手のひらは、その硬さをもって傷つけないよう飴細工に触れるような優しさがあり、大切に扱われている事を十分すぎる程に意識してしまう。
「つらいならやめてもいい。無理をする必要はない」
気遣いに溢れた声色だった。
自然と硬直は解け、私は小さく笑った。
注意をされると思ったのに。
警戒したのが馬鹿らしくなるくらい、グランツは変わらず私を甘やかすつもりらしい。
子供の頃うちの母に、あまり甘やかすなと注意されているのを見かけた事がある。その時は謝って了解していたけれど、結果はまあこれである。
「そんな事を言っているから私が我儘になるのよ」
「マシェリーの我儘ならいつでも聞いていたいけどね。街に連れて行ってほしいとせがまれた時のように」
随分と懐かしい話をする。
婚約を解消する前は、両親の目を盗んで何度も街に連れて行ってもらっていたのだ。
普段は接する事のない街の活気は、自然と楽しい気持ちにさせてくれた。中でも自国のものだけではなく異国の商品や食べ物の並ぶ市場には、行くたびに発見があって毎度心を躍らせていたものだ。
あの頃は楽しかった。
くすくすと思い出し笑いをする私に、グランツは何とも言えない眼差しを向けてきた。心配、申し訳なさ、罪悪感。そのどれかか、あるいは全てか。
複雑な眼差しに見合った言葉を、彼はかけてくる。
「すまない。力になってやりたいが、今回は私が手を貸す事は出来ないんだ」
少し考えれば分かる話だ。グランツは第二王子側の人間なのだから。
「仕方ないわ。第二王子は移民賛成派だものね」
こうして愚痴を聞いてもらえただけで充分気分転換になった。だから気にしないで。
そう伝えたらグランツは口を開き、しかし結局何も言わないまま噤んだ。そのまま目を伏せ、小さく息をつく。そしておもむろに再び口を開いた。今度は声を伴っている。
「協力は、出来ない。だけど一言だけ」
ぱっと自分の表情が明るくなったのが分かる。グランツの真面目な双眸と視線がかち合い、すぐに居住まいを正す。
見つめてくる視線に胸が震えたが、気付かない振りをした。
きっとグランツのくれる一言なら、現状の打開策のいいヒントとなるだろう。それだけの信頼を彼には寄せていた。
しかし告げられたそれに、私は大きく目を見開いて固まる事になった。
「話し合うのはエリシアだけでいいのかい?」
一瞬の間、頭が真っ白になった。
「え?」
聞き返しながら、彼が言わんとする事を的確に理解していた。
半笑いに歪んだ口元を引き締めたところで、視線は右に左にと忙しなく動いた。その間も感じる視線が突き刺さってくるようで、ついには俯いてしまった。
無理だよ。
グランツが言いたい事はもっともだと思う。頭脳派でもない私が一人奮闘したところで現実はいい方向にいかない事くらい、嫌になる程自覚している。
だけど、だからといって周囲に目を向けても私に賛同してくれる貴族がいるとは思わなかった。
それとなく異国の話をしてみたけれど、友人達の拒絶反応は凄まじいものだった。
街ではナギルという食べものがあるらしいわね、と言っただけなのに。異国の食べ物なんてろくなものではないとか。食べてみたけれど酷い味がしたとか。
ナギルの元であるコマには思い入れが強いだけに、その扱き下ろしっぷりに一瞬で撃沈でした。
食べた事ないけれど、きっととても食べられたものではないのだろうと憶測で言う子におにぎりを突きつけてやりたい。まず食べてみなさい。話はそれからだ。なんて言えるわけもない。
唯一ナギルを食べたのはオリビアだったわけなのだが、口に入れた事さえ責めるミナルゼに、私はもう口を噤むしかなかった。
そんな友人達と、どう話し合えばいいというのだろうか。
私は俯いたまま押し黙る。
梅雨時の厚くかかった雲のように重く停滞していた空気の中、グランツが小さく笑う気配がした。それは呆れてこぼした苦笑に思えた。
「お茶を淹れてくれるかい?」
話が逸らされた事にあからさまに安堵する。自然と曲げられていた背筋に気付き伸ばし直すが、それでも心なしか曲がっている気がした。今母に客間に入って来られたら叱責を受けてしまうに違いない。
それでも私は、向き合うべき現実から目を逸らす事に意識を向けた。口角を無理に上げて。
「ごめんなさい、私ばかり。お湯がすっかり冷めてしまったわね」
呼び出した使用人に新しくお湯を運ぶように言いつけた。グランツが来たら自分でお茶を入れると宣言したため、自分で淹れる。
お茶の淹れ方は母から叩きこまれている。そりゃもうみっちり。よって母直伝の美味しいお茶の淹れ方は完璧だ。
さあ、飲みなさい。自信満々にカップを渡す。
グランツは一口飲んで、目尻を緩めた。
「美味しいよ。さすがマシェリーだ」
そうだろうそうだろう。もっと褒めていいのよ。
得意げにしていると、グランツはくすくすと笑った。先程の張りつめた空気は始めからなかったかのように緩やかで、密かに息をつく。
「お客様。肩たたきもおつけしましょうか?」
実は得意なのだ。前世の私がだけど。この世ではやった事はない。やろうとしたら母に怒られるのだ。貴族の娘が平民のような振る舞いはするなと。父はまんざらでもなさそうだったけど。
両手をわきわきとさせてやる気を示したが苦笑いで遠慮された。残念。
ふむ。では私からも一言授けよう。
「今どんな仕事をしているのかは知らないけど、無理しちゃダメよ。焦りは禁物だからね」
グランツは僅かに笑みを翳らせた。私の髪に触れてそっと梳く。
「焦るよ」
複雑に織られたその表情は、笑っているのに、泣きそうに見えた。
手を伸ばそうとしたのは無意識だった。視界に自分の手が入って驚いた程だ。下ろそうとしたけれど、グランツが留めて握り込んでくる。
戸惑う私と瞳を合わせ、乞うように熱を揺らめかせた。だけど彼の言わんとする事が私には分からない。
ただ、妙な胸騒ぎを覚えた。
肌に伝わる温かい熱は以前なら心地良かっただろう。昔の自分は彼と手を繋ぐ事がとても好きだった。
しかし今は、じっとりと滲んできた行き場のない汗の存在を意識させた。内側から胸を打つ衝動に、今度は私が泣きたくなってきた。
無理にでも表情を取り繕おうとする。しかしそうして貼り付けられるのが、エリシアの反感を買う要因のひとつである人を見下したものになっているかもしれないと考えると、保つ事も出来ずに崩れた。
効果は半々ではあったが、親しい間柄であればいつもの私ならごまかす時はちゃんと笑顔を作れていた。母に『間の抜けた顔』と呆れられる、人を蔑むものとは遠うだろう笑顔を、作れていたのだ。
それなのにどうして出来ていないと思ってしまったのか。
目の前で寂しげに下げていた眉尻を正した彼は、握り込んだ手を引き寄せる。額にキスを落とされた。
「また来る」
昔からの習慣だ。
帰り際は名残惜しそうにそれをする。
いつもはこちらもやり返すけれど、今日ばかりは出来そうになかった。




