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 ルノアール邸の一室で帰って来るなり怒りの声を上げるのは、屋敷の主の娘、エリシアである。

「あんな脅しで縮こまると思ったら大間違いだバーカ!!」

 王族も愛用する名店の枕は、エリシアの手にかかれば苛々発散の道具と化す。麻袋に砂を詰めてそれを殴りつける事に比べれば幾分かマシである事は確かなのだが、お目付け役の侍女としてはその粗暴な振る舞いに溜息を禁じ得ない。

 そんな侍女の気も知らず、どれだけ枕を拳で痛めつけても、エリシアの怒りは収まらない。


「大体どうしてマアサを狙うのよ!正々堂々私に喧嘩売れっつうの!いつでも買ってやるよ!大体理解しろって何。貴族のルール?混血差別を正当化しろってか。ふざけんな!!」

 拳が一際深く沈んだ。エリシアの顔が引きつったのを、侍女は見逃さない。

「エリシア様?」

「あ……えっと……はい、申し訳……ございません……」

 腕を上げると羽毛が舞った。布を破いてしまったのである。

「これで四つ目ですね」

「……すいません……」

 侍女はこれ以上羽毛が散らばる前に枕を取り上げる。散らばった羽毛をさっとて片付けて、無残な枕を持って部屋から出ていく。その姿をエリシアは気不味い思いで見送った。


 下町から突然貴族社会に放り込まれて、もう二月が経とうとしている。

 母が病死し、それでも周りの助けを借りてこの先生きていくのだと思っていた。それがいきなり金髪の男が現れ、君は自分の娘だと言う。そしてその男は王弟だと名乗り、母親とエリシアが下町に住む事になった経緯を話した。

 父親はエリシアが生まれる前に死んだと聞かされていた。そうなのだとずっと信じていた。それなのに現在はこれである。


「あーあ」

 ベッドに体を沈めた。下町にいた頃は、こんな柔らかなベッドで眠る日がくる事など思ってもみなかった。しかし硬いベッドで眠っていたあの頃の方が、今よりもずっと幸せだった。

 朝は学校に通って、終われば近所の食堂で働かせてもらい。母が死んでしまっても何とかやっていけたのは、偏に手を差しのべてくれたみんなのおかげだ。

 あの町は確かに貴族街のように華々しくもなければ美しく整えられているわけではない。しかし貴族街にはない温かさがあった。

 戻りたいと思う。あの町で、またみんなと一緒に季節を巡りたい。父も戻りたいなら無理強いはしないと言ってくれた。

 だけど混血が謂れのない差別を目の前で受けている姿を見てしまった。

 エリシアが過ごしてきた下町は、移民や混血が多く集まっている地区だった。彼らはとても気が良く、仕事に誇りを持った気高い人達だった。

 だからこそ混血の否定は、自分が世話になった人達への否定でもある。自分自身が否定されるよりもずっとつらい。

 見過ごせるわけがない。


「だけどなかなか上手くいかないなぁ~」

 元よりすぐに貴族が考えを改めるとも思っていない。貴族は人の話を聞かず、強引に押し進めようとする。その筆頭を思い浮かべて、エリシアは自然と顔を顰めていた。

 この国の第二王子であるシルヴァストは、出会った時から横柄で不遜な男だった。

 突然の環境の変化に右往左往しているところに現れ、甚だしく偉そうな態度でクインシード王立学校の中途入学を、本人の承諾もなしに決めた事を告げたのだ。シルヴァストがそのまま貴族のイメージとなり、学校に通う事になってより確固たるものへと変化した。

 中には父であるシャリマのように気さくな人や、シルヴァストの友人であるグランツのように穏やかで人当たりも良い優しい人がいる事も分かってはいる。しかし学校の貴族の態度を見ていると、本来の貴族とはこういうものなのではないかと思ってしまうのだ。


 シルヴァストも全部が全部、嫌な奴ではない事は認める。

 一緒に街を歩いた事を思い出し、俄かに顔が熱くなる。

 シルヴァストは王子にも拘わらず、街歩きに非常に慣れていた。店には顔見知りも多くいるようで、エリシアに接する時とも違う気さくな態度は、彼の横柄さも魅力のひとつに変えていた。

 その意外性に少なからず見直したけれど、やはり偉そうな態度はいただけない。そう、いただけない。決して、断じて、シルヴァストに惹かれているわけではないのだと、エリシアは誰にともなく弁解する。

 シルヴァストの事など今はいいのだ。それよりも学校の事である。

 せめて。


「マシェリーが混血を差別する人じゃなかったら、違っていたのかな……」

 純血主義側に立つ、物言いのきつい少女。

 常にぴんと伸びた背筋は自分よりも大きな人間相手にさえ圧されるものではなく、その存在感の前ではどれだけ高慢な態度を取る貴族でさえも委縮せざるを得ない。

 それは町育ちのエリシアには供えられない、気品に溢れた姿だった。

 一方で彼女は綺麗な顔で常に混血を見下し、形の良い唇は高飛者な言葉をもって混血を扱き下ろす。

 そのたびに失望ともいえる感情がエリシアの身の内に溜まり、反抗心が膨れ上がった。

「血で差別するなんて間違ってる」

「それには私も同感だ」

 突然の同意に跳ね起きた。

 扉の前にいた壮年の男性が、柔和な笑みを浮かべてこちらに歩いてくる。

「お父さん、じゃなくてえっと……お父様」

「二人の時は“お父さん”で構わないよ」


 王弟殿下シャリマ・ルノアール。

 彼こそがエリシアの父であり、エリシアを貴族社会に引っ張り込んだ張本人だ。

 仕事なのか道楽なのか国外にいる事が多く、顔を合わせたのも数週間ぶりだった。

 ベッドの上で慌てて居住まいを正す。きちんと椅子に座った方がいいと気付いた時には、シャリマはベッドの縁に腰かけていた。

 エリシアは俄かに緊張する。

 下町には父親代わりは多くいたものの、彼はその誰とも雰囲気が異なっている。荒々しさはなく、早朝の湖面にも似た雰囲気が、エリシアは未だに慣れない。この人の前ではちゃんとしなくてはいけないと、そんな気持ちになるのだ。

 シャリマはエリシアの気持ちを見透かすような澄んだ瞳を、柔らかく細める。


「久しぶりだね。家に寄りつかないお父さんですまないね。変わりはなかったかい?」

 ぽんっとシルヴァストのすかした顔が浮かんだ。慌てて打ち消して殊勝に頷いた。くすくすと笑われたものだから、まさか頭の中を覗かれているのかと焦る。

 しかしシャリマが触れたのはシルヴァストの事ではなかった。

「マシェリー嬢とは随分と仲が悪いようだね」

 エリシアの頬にさっと朱が走った。あの暴言を聞かれていたのだろうか。居た堪れない思いで俯く。

「一体どういう子なんだい?舞踏会で顔を合わせる事はあったが、挨拶程度で話した事はないんだ」

 他人を冷ややかに見下した目をする少女を頭に浮かべる。

 彼女についての言葉は次々に湧き上がってくるが、人の悪口を言う姿を何となくシャリマにだけは見られたくなかった。

 エリシアは口を尖らせて答える。


「……美人」

「ははっ。確かにそうだな」

「蜂蜜色の髪が綺麗で、手も綺麗で、声も綺麗で……。癪に障るくらい全部綺麗」

「エリシアの髪もお母さんに似て美しいよ」

「……他には?」

「………」

 黙りこんでしまった父親に、エリシアは頬を膨らませた。シャリマは笑ってごまかした。

「しかし貴族の女性は常日頃美容に手間と時間をかけて磨き上げているからな。エリシアだってこれからだ。シルヴァスト殿下も思わず振り返ってしまう程の美人になるよ。何と言っても母親似だからね」

「あっ、あいつは関係ない!」

 かっと顔に熱が集まる。

「そうかい?なかなか親しくしていると聞いているけどなぁ」

「それ言ったの誰?」

 シャリマは悪戯っぽく笑いながら、風の噂だとはぐらかした。

 犯人は分かっている。十中八九エリシア付きの侍女だろう。彼女はシルヴァストが来ると、すかさず二人きりにさせようとする。エリシアにとってはいらぬ気遣いだ。最近二人になるといやに緊張してしまうのでなおさらだ。

 じと目で睨もうと、シャリマはどこ吹く風である。それどころかエリシアの頬をつまんでからかう始末だ。


「まあまあ。そんなにむくれないでくれ。饅頭みたいで可愛いけどね」

「マンジュウなんて知らない」

「そうか。これはまだ渡ってきてはいないのかな。東の食材がようやく流れ込んできたくらいだし、これからだろうね」

 シャリマはエリシアの知らない世界の話をたくさん知っている。話を聞いただけでは想像も出来ない料理もたくさん食べている。

 人を貴族社会に放り込んでからもふらふら異国に行ってしまうため、こうして話す回数は実はさほど多くない。しかし旅先から送られてくる手紙には、聞いた事もない異国の文化が、文章の中で鮮やかに描かれていた。

 そんなシャリマがおとぎ話を始めるようにエリシアに訊ねた。


「エリシア。かつて西で起こった争いの原因を知っているかい?」

 エリシアはすぐに首を振る。そもそも西で争いがあった事すら知らない。

 マシェリーに言われた、歴史の授業で何を聞いていた云々の嫌みを思い出し、顔は自然と顰められる。あの授業はおじいちゃん先生がぼそぼそ喋るから聞き取りづらく、ついつい寝てしまうのだ。

 シャリマはエリシアの無知を非難する事なく続けた。

「考え方が合わなかったからだ。隣国同士でありながら、違う神を信仰していた。内容自体は酷似したものだ。ただ決定的に違うのが、神が男か女か、という事でね。エリシアはどちらの神が正しいと思う?」

「そんなの、どちらでもいいじゃない」

 シャリマの唇が弧を描く。

「そう。どちらでもいいんだよ」

 どちらが正しくてどちらが間違っているのか。それは決めるものでもなければ押し付けるものでもない。

 人の思想は他人に侵せるものではない。


「だけどそれとは話が別よ。だって人の価値は血で決められるものではないわ。絶対に向こうが間違ってるんだから」

 胸を張って断言出来る。

 しかしシャリマが困ったように笑うから、自分がとても出来の悪い子のように思えてきた。

 今の発言の何がいけなかったのか。はっきり言ってほしいのに、シャリマはそうはしない。

「エリシア。一方から見るのではなく、多方面から目を向けてよく考えなさい。そしたらあるいは、マシェリー嬢と仲良くなれる道が見えてくる事もあるかもしれない」

 頭を撫でられた。

 下町の職人達よりも体格の劣るシャリマだが、手のひらは彼らに負けない程に硬い。ただのらりくらりと観光を続けているだけの手ではなかった。

「私は五日後、また屋敷を空ける。今回は南の方に行く予定だ。土産をたくさん持ち帰ってくるからね」

 出ていこうとするシャリマを呼び止めた。

 まだ、肝心な事を聞いていない。


「争いがあった国はどうなったの?」

 シャリマはにっこりと笑った。

「今ではお互いを受け入れあって、仲良く交易を続けているよ」

 扉が閉まる。

 一人になったエリシアは、シャリマの言葉を思い返した。

 マシェリーと仲良くなれる道など、本当にあるのだろうか。そもそも彼女はエリシアを始めとして混血を嫌っている。マシェリーはエリシアが貴族を知らない事を非難したけれど、そんな彼女は混血を知っているのだろうか。

 いや、知るはずがない。そうでなければあれほど酷い態度はとれないはずだ。

「マシェリーだって人の事は言えないじゃない」

 分かり合える道があるのだとしたら、それは彼女が自分の間違いを認めた時だ。

 ベッドに体を投げ出して、エリシアは目を閉じた。


 

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