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さあ。出陣よ。マシェリー・エヴァンス・エスキオラ。
一晩考えたのだけど、父が王弟を手にかけないと分かったとしても、これに甘えてはいけないと思うのだ。
今まで静観していた思想を、これを機に変えていきたい。次代を担う貴族として当然の事だよね。うん。
王弟という権力を持つ人間と繋がっているエリシアとは密かに協力関係を組んで、混血を受け入れてもらう下地を作ろうと思う。がちがちに立場を固められた親の方ではすぐには難しいため、子供から懐柔する作戦だ。
そのためにはまずエリシアにはこちらの事情も理解してもらわなければならない。あわよくばあの白銀の髪に赤い髪飾りを飾らせてもらおう。
そうとなったらエリシアと接触しなくては。
私は朝からそわそわしていた。
人目のある場所なので、何とか表情を取り繕う。心なしかみんなが私を避けていくのだが、気の所為だろうか。ミナルゼとオリビアの顔も引きつっている。
「一体どうしたのかしら。今日は随分と機嫌が悪いわね」
「きっと昨日の事が原因よ。あの混血は生意気でしたもの」
えぇ!?なんかいらん誤解をなさってる。
何故だ。あ、顔か。冷静に見せようとしているこの顔が不機嫌に見えるんだな。
頬を揉みほぐしていたら、廊下にモップをかけている、淡い茶髪を持つ下働きの少女が目に入る。ちらりと見えた瞳は黒で、混血だとすぐに分かった。
この学校では混血の下働きが表で作業する姿を見る機会は少ない。
混血と見て分かるのは瞳の色だけのため気付かれない事を祈るも、そうはいかなかった。
少女の元に、二人の男子生徒が近付いた。純血主義の男爵家の人間である。彼らは仕事が遅いと因縁をつけてバケツを蹴り転がした。くだらない事を。
立場上すぐには手を出せない。長引くならそれとなく止めようと静観していたら、私の横を光が通り過ぎる。
エリシアだ。
白銀の髪に陽光を集めた彼女はつかつか、むしろドスドスと勇ましく向かっていった。
これは絶対にややこしい事になる。
「あなた達何をしているの!」
やっちゃったよ。やっちまいましたよ。頭を抱えてしゃがみ込みたい。
「二人がかりで一人に寄ってたかって恥ずかしくないの!」
「はあ?お前何様だよ」
「混血が純血に口答えするな」
エリシアは肩を怒らせて一層噛みついた。
「血は関係ない。学問の前では平等のはずよ!」
正論だ。しかし正論だけで出来ていないのが社会である。
エリシアと良好な関係を築くためには、印象を悪くしたくはないのに。ちくしょう。あとで事情を説明しよう。
「獣のように騒ぐのをやめていただけませんこと?エリシア・ルノアール」
いつ如何なる時も背筋を伸ばし、優雅に、堂々と。それが相手に嘗められない方法だとは母の教えである。
男子二人に軽蔑の視線を向ける。二人は揃ってたじろいだ。
「拝見しておりましたけど、そのような汚らしい水に自ら足を伸ばそうなんて紳士として如何なものかと。お気づきかと思いますが、裾が汚れていましてよ。常に身嗜みを美しく保つのは、紳士としての最低限の作法だと思うのですが、如何でしょう。その血を誇るのならば、自らの品位を落とす行為は慎むべきですわ」
睨みつけたら二人はすごすごと退散していった。
よしよし。怒り顔の母をイメージして凄んでみたが、上手くいったようである。これでひとまず落着と。
下働きの子が俯いて鼻を啜っている。キズついているところ悪いが、保身のために追い討ちをかけさせてほしい。
「いつまで廊下を汚しておくつもり?混血とは本当に役に立たない種族ね」
ごめんなさい。本当にごめんなさい。後でお詫びの品を贈るから、ここは穏便に――いきませんね。
怒りで肩をわななかせたエリシアが、今度は私に食って掛かってきた。
「そんな言い方ないでしょ!これは彼女の所為じゃないわ」
私は目を細め、内心戦々恐々としながら、冷ややかに見えるだろう眼差しを向ける。
「あなたは先程の私の言葉を理解出来なかったの?混血が理解力に不自由がある程の無学とは真実だったのかしら?私は獣のように騒ぐのをやめるよう申し上げたはずですけれど」
これ悪役じゃん。もう立派な悪役だよ。
大丈夫?これ大丈夫?エリシア、私がこっそり話しかけても相手してくれる?
家の事を考えれば、あからさまに混血側につくわけにはいかない。だからこそ、エリシアと手を取り合わなくてはいけないのだ。
動揺を押し隠して表情を取り繕ったのは、最早癖だった。今この場においてはどうしようもない悪手だ。
おそらく、そのつもりはないのに私の顔は相手を見下すものになっていて。
敵意と判断した彼女がこちらを睨み付けてくる。
背後に混血の子を庇いながら。
倒れても、いいですか?
*****
一週間経てども、エリシアとお話が出来ない。
いや、お話はしてますよ。ただ内容がもうひっどいの。私は嫌みしか言ってないし、エリシアも喧嘩腰でお答えするという、決して平和とは言えないお話を。
だってエリシアが貴族達に喧嘩ばかりふっかけるんだもん。
漫画でも立場の弱い人間を片っ端から庇っていたけどさ、私としては今後のために、あまり貴族に喧嘩を売ってほしくない。
エリシアの怒鳴り声が聞こえるなり、またお前かあ!とこちらも怒鳴りたくなる。
エリシア、気付いてくれ。気位だけは異様に高いリトル貴族達とは、ぶつかるだけでは解決しない。むしろ話が拗れる。
二人きりになれる隙がないために何とか伝えようと、言葉を変えて真正面から促す。
「あなたはまるで獣ね。敵とみなしたらただ噛みつくしか脳がない。人間でしたら考える頭を持つべきでは?」
冷静になろうぜ!そして私と一緒に、穏便な解決策を探していこう。
と、自分が人前で使える言葉ギリギリのところで、彼女にメッセージを送る。
その後の行動を見れば伝わっていないのは明白だ。うん。そうだよね。あんな言い方じゃ伝わらないよね。
ならばと匿名の手紙でそれとなく伝えようとして、朝早くにそっと彼女の机の中に忍ばせた。
その日から彼女の机は嫌がらせに遭い、机の中に水を入れられていた。水でインクが滲んで読めなかったのか、彼女の態度に変化は見られなかった。
エリシアを逆撫でしないよう混血を持ち上げつつ本題に入るという、神経を使い推敲に推敲を重ねたお手紙が……。
気を取り直して二通目の手紙を机に忍ばせた。
その昼休み、オリビアが真剣な顔をして私に封筒差し出した。それはとても見覚えのある封筒だった。中身もとても見覚えのあるものだった。
「これは……?」
「エリシアに制裁を加えようとした子が発見したの。この上質な便箋は、きっと貴族が書いたに違いないってミナルゼと話していたのよ」
「貴族の中にあの混血に加担する者がいるんだわ。これは完全な裏切り行為よ。それに見て。マシェリーの字に似ているでしょう?これではマシェリーが疑われかねないわ」
「まあホントどなたかしらー」
手紙は取り上げて慎重に処分した。
こうなったら家に送りつけてやろう。
紙は平民の間でも使われる安いものを使用し、筆跡でばれぬよう定規を使って書こうとした。が、線を引いた側からインクが滲んでいった。どうやら定規と紙の隙間にインクが入り込んでしまうらしい。それでもまあ読めない事はないので、それをエリシアに送り付けた。
しかし待てど暮らせど一向にエリシアが態度を改める様子がない。業を煮やしてそれから二通目三通目と送って気が付いた。
一見すると怪文書に見える手紙の送り付け。凄く悪役っぽくないか?
代筆屋に頼んで手紙を書いてもらうのもまるで悪事を企んでいる人間のようで、結局手紙という手段は諦めた。
アプローチするタイミングを窺っている間に、エリシアとちゃんと話す機会を得られないまま、一月が経っていた。その頃にはエリシアの賛同者も倍に膨らんでいた。
エリシアの正義は分かり易い。
身分も関係なく下働きの人達に対するものさえ、苛めを見つけたら庇う、庇う、庇う。
何故?だって苛めはいけない事だから。
穏便に学校生活を送りたい混血達は始めこそ煙たがっていたものの、エリシアの真っ直ぐさに絆されていった。そして勇気を貰った混血の生徒達は、次第に自分を差別する貴族に楯突くようになる。
おかげで度々仲裁に入るはめになり、立場上エリシアに下手に出る事も出来ず、さらにそこに私の友人だけでなく特に親しくない純血主義まで加勢して――結果としてマシェリー一派vsエリシア一派という対立構造が出来上がってしまっていた。
今や廊下ですれ違う度に小さな諍いさえ起こるようになった。頭が痛い事に友人達がわざわざ喧嘩をふっかけるのだ。やめてください。
エリシアはエリシアで度重なる嫌がらせに屈せず、むしろ燃え上っているような気さえする。今、かなり意固地になっているのではないだろうか。
加えて純血や混血を越えて、生徒達が不穏な空気を漂わせ始めている。
エリシアの行動は、熱心な純血主義ではないリトル貴族達の反感まで買っていた。
王弟の実子とはいえ、ついこの間まで平民だった小娘に学校のルールを乱される事を疎ましく思っているのだ。何よりエリシアが焚きつけた平民の反抗が、偉ぶりたい貴族にとって非常に面白くないのである。
このままではいけない。こうなれば意を決して正面から突撃しよう。
“マシェリー”による“エリシア”の呼び出し。
そんなシーンが漫画にあったような気がして、今まで恐ろしくて実行出来なかった。だってそれではまるで漫画に沿って未来が展開しているようではないか。
だけどもうそんな悠長な事は言ってはいられない。
放課後。エリシア一派が前方から歩いてきた。
これまで平民は貴族に道を譲る事が暗黙のルールになっていた。しかしエリシア一派は譲る気配はない。
相手方が臨戦態勢に入る。後ろに控える私の友人達も、おそらく同じ状態だろう。私はこんな空気の中口を開かなければならないのか。
緊張で強張りそうな顔を何とか取り繕う。
「エリシア・ルノアール。少しよろしいかしら」
さあ、第一回首脳会議を開きましょう。
今回の議題は、今後起こりかねない問題をエリシアに理解してもらう事だ。
危惧しているのは貴族と平民の対立。
今まで静観していた貴族や平民まで巻き込んで、校内紛争になる事は避けたい。純血と混血だけでもややこしいのに、これ以上大事になってもつれて拗れて解けにくくなるのは御免被りたいのだ。今の状況でさえいっぱいいっぱいなのに、そうなったら私はストレスで胃に穴が空いて死んでしまう。
それにそんな対立になった場合、割を食うのは平民なのだ。
貴族の自尊心を守りつつ、混血を守る。
そのためにはエリシアの協力が必要なのだ。
校舎裏や裏庭はあまりにもあれなので、防音性の高い音楽室を選んだ。来なくていいと言っているのに、互いの仲間が競い合うようについてきた。
仕方ないから廊下で待っていてもらうけど、するのは口喧嘩までにしてね。
しっかりと扉を閉めて、鍵もかける。険しい表情をするエリシア・ルノアールと向き合った。
緊張を取り繕うために不機嫌な顔にならぬよう、努めて笑顔で口を開く。
「単刀直入に言うわ。貴族に刃向うような真似はやめてくださる?」
しまった。いつもの癖で高飛者な態度になってしまった。エリシアは家での素の自分の方が話を聞いてくれる気がする。
よし、改めて。
「貴族に喧嘩を売る行動は控えてくれると有難いのだけど」
よしよし、柔らかくなったな。
この調子で話を展開して――。
しかし本題をすぐには告げられなかった。
エリシアは背筋を伸ばし、凛とした態度で私と対峙している。窓から入る柔らかな陽光を背負った彼女の白銀の髪が、威厳と、美しさを内包していた。
まさに、雪だ。人に荒らされず、見る人を圧倒する雪原の美しさである。
何も言えなかったのは見惚れてしまったからだ。
私は明確に意識した。
彼女がこの物語の主人公なのだと。
何にも侵される事のない、絶対的な立場なのだと。
エリシアは一歩前に出た。意志の強い瞳で私を射抜く。
「私もあなたとは一対一で話をしてみたかったの」
エリシアの声はどこまでも澄んでいた。
「あなたはこの学校がおかしいと思わないの?こんなの歪んでいるわ」
エリシアの纏う空気に呑み込まれそうになりながらも気を引き締める。
彼女の意見には全くもって同感だ。はっきり言って歪んでいる。
純血主義筆頭のアルバトラ公爵は、会合の度に口にする。
崇高なる血はそれを通していつ如何なる時も強い絆で結ばれている。
おかしくて笑ってしまう。
グランツの家であるマキウス家の長男が異国の女性と結婚すると決めるや否や、すぐに制裁に走ったのだから。レザー領には一切商品を下ろさない、また通行許可も与えないという徹底振り。呆れてものも言えない。
「あなたの言葉には、確かに共感出来る部分もあるわ」
どうやらエリシアは思いがけない同意に虚を衝かれたようだ。頻りに目をしばたたいている。そうだ。そのままの状態で聞いてほしい。
「だけどあなたは純血主義を否定出来るほど、純血主義について理解がおありなの?歴史の授業はあなたも受けているはずでしょう。この差別にはそれなりの歴史があるのよ」
貴族とは非常に面倒な生き物なのだ。体面と誇りを重要視する、自尊心の塊なのである。その貴族が最も大切にしている自尊心を、過去、ずたずたに引き裂かれて傷つけられた。
人の思想は突然には変わらない。歴史があり、根深いものであればなおさらだ。それを根底から否定しては歩み寄れるはずがない。
一方を庇うだけの独善的な正義では、何も変えられないのだ。
「歴史なんて関係ないわ。虐げていい理由にはならないじゃない」
「今のあなたは貴族の畑に乗り込んで、耕し方が違うと許可もなく鍬で荒らしている状態なのよ。何も知らないあなたが荒らしていいものではないわ。育ちがどうであれ、今はあなたも貴族になのだから、それを理解しなさい」
言った。言ってやったぞ。いけ私。このまま畳み掛けろ。
「それにあなた、今のままでは危ないわ。ただでさえ微妙な立場なのに、貴族達の目に余る行動ばかり起こしていると危険な目に遭うわよ」
このままでは本当に危ない。純血主義の中には過激なタイプもいるのだ。漫画では“エスキオラ伯爵”がそうだった。しかしそれ以外の人間が彼女を手にかけようとしても何らおかしくはない。
エリシアは純血主義者にとって、王族にあってはならない“穢れ”なのだから。
だけど私が伝えたい事は、彼女には何ひとつ伝わらなかった。
「それって脅し?結局はそれなの?貴族はいつもそうやって脅して話を終らせようとするよね。手紙も、嫌がらせも、全部そう。
私は脅されても決して屈しない。最後までみんなを守るって約束したんだから」
とても素敵な宣言だが、今私はそんな話をしているわけではない。勘違いなのだ。まったくもってあなたの勘違いなのだ。
私はこんなにも他人とコミュニケーションを取るのがへたくそだっただろうか。
遠くに逃げそうになる意識を何とか現実に繋ぎ止める。
落ち着け。落ち着くんだ。今の彼女は頭に血が上っているだけだ。そうか立っているからいけないのか。座って膝を突き合わせて話をしよう。あとは何だ。お茶を出せばいいのかな。
完全に狼狽する私が落ち着きを取り戻す前に、事態は動き出す。
扉が外側から乱暴に叩かれた。何か叫んでいるようだが聞き取れない。
エリシアは私に目配せをして扉を開けた。開くなり流れ込んでエリシアに掴みかかったのは、おそらく平民の子だ。彼女は切れ切れの息を整える間もなく叫ぶ。
「マアサが貴族に!」
私達は息を飲んだ。
マアサとは私とエリシアが対立するきっかけを作った、黒い瞳を持つ下働きの少女だ。エリシアは彼女と仲良くなり、守ってあげていた。
しかしエリシアと仲がいいからこそ、マアサは純血主義達からの嫌がらせの槍玉に挙げられる事が多かった。彼らもエリシア本人にやるよりも効果的だと分かっているからだ。
音楽室を飛び出していったエリシアの後を追う。はしたないとは言ってはいられない。
エリシアからだいぶ遅れて、現場である裏庭に到着した。息を整えながら辺りを見回す。
エリシアと、もう一人少女がいる他は、周囲に人の気配はなかった。
歩み寄り、息を飲む。
エリシアに隠れて見えなかった少女が、濡れ鼠になってしゃがみ込んでいた。頬にはぶたれた痕があり、髪は乱れ、服には土が貼り付いている。
その惨状に茫然とした私を、エリシアは一瞥した。一瞬の事だったため、彼女の表情は窺えない。
しかし辺りに漂う空気は次第にちりちりと肌を刺し始める。
「私を、呼び出して、すぐには来させないようにして……」
エリシアの声は震えていた。
それは悲しさからではない。悔しさとも違う。私を睨み付け、責めるそれは、明らかに怒りからくるものだった。
距離を詰めた彼女が、一歩さえ後ずさる暇も与えず、私の服の襟を掴んで引き寄せる。
「これが貴族のやり方なの!」
空気が震えた。あまりの迫力に息を飲む。
完全に呑み込まれてしまった私は、返すべき言葉が喉に引っかかってしまった。
違うのだと。それは一部の人間で、平民にも様々な人間がいるように、貴族の全てが過激なわけではないのだと。
すぐにでもそう言いたかった。だけど喉が引きつって出てこない。
襟を突き放される。エリシアは私に背を向け、マアサを支えながら去って行った。
取り残された私の元に、ミナルゼやオリビアを始めとした友人達が遅れて集まってきたけれど、私には今、彼女達を気にする余裕がなかった。
「ああもう!」
苛立ちのまま側にあった木を殴る。鈍い音はそのまま木の幹に吸収されたが、その場の緊張感は一気に高まった。
エリシアが去った方とは逆の方向へ足を進める。今ヘタに彼女と顔を合わせたら、一層険悪な空気になる事は火を見るよりも明らかだ。
再び話をするにはエリシアの頭が冷えるのを待たなければならない。しかし時間を空けたところで、何か変わるのだろうか。エリシアは冷静に私の話を聞いてくれるのだろうか。
拗れきった関係は修復困難になっている事を、否が応でも悟った。




