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 ”私”は夢と分かる空間で漫画を開いていた。

 展開がベタだと思いながらも、よく分からない吸引力のある少女漫画だ。

 ヒロインは白銀の髪を持つ少女、エリシア・ルノアール。

 気が強く、曲がった事は大嫌い。正義感の塊であるエリシアの物語は、彼女の母親が亡くなった事から始まる。

 それまで王都の中でも職人の多い下町で暮らしていた彼女は、突如城に上げられる事になった。

 王家の血を持つ者として、だ。

 彼女は今まで母親の語る事のなかった、自分の出生の秘密を知る事になる。

 かつて城で使用人として働いていた母親は、王弟に見初められた。移民である彼女が王族である彼と愛し合っていると知れたら、純血主義の貴族が黙っているわけがない。二人は密会を重ね、とうとう子供を授かった。しかし混血の子が貴族社会の中でどういう扱いを受けるのか、彼女はよく知っていた。だから王弟の前から姿を消したのだ。

 その母親が亡くなり、身よりもない事を案じたエリシアの父、つまり王弟が、エリシアを引き取る事にしたのだ。

 生活が何もかも変わったエリシアは、それでも持ち前の明るさで乗り越えようとする。

 そして知るのだ。

 貴族社会において、混血が不当な扱いを受けている事を。

 正義感の強い彼女に幾多の試練が襲い掛かる。命の危険に晒され、しかしヒーローの助けを借りて最後はハッピーエンドになるのでした……。

 ちゃんちゃん。


 漫画を閉じる間もなく、深く沈んでいた意識が浮き上がる。

 今まで見てきた前世の記憶にまつわる夢の見方とは少し違う。だけど妙な焦燥と物悲しさは似通っている。

 そこから目を逸らして、振り切るように目を開いた。

 見慣れぬ部屋だった。

 ぼんやりまばたきを繰り返すうちに、そこが医務室だと気付く。視線を動かすと、学校医が心配げにこちらを窺っていた。

「うなされていましたよ」

「悪い夢を見ました……。恐ろしい夢ですわ」

 えぇ。まったく本当に。

 起きようとしたら、先生が手を貸してくれた。背中にクッションを挟み、グラスに水をついで渡してくれる。顔の良さと気の利く行動から、彼は女子人気が高い。

 水飲み、ほうっと息をつく。


 題名は忘れてしまったけれど、あの漫画において私、マシェリー・エヴァンス・エスキオラは、純血主義から彼女と対立する貴族令嬢だった。そして父親は王弟暗殺未遂とエリシア誘拐の首謀者だ。

 そしてそしてさらにびっくりなのが、我が幼馴染みにして頼りになるお兄さんグランツが、エスキオラ家の陰謀を暴くためにヒーローである第二王子側についているという事だ。

 ああそうだよ。つい昨日、第二王子シルヴァスト殿下の下につくと聞いたばかりだよ。

 今まで王子様が友達なんてすげーくらいにしか思っていなかった。何故今まで気付かなかったのか。ヒントはこんなにも溢れていたというのに。


 王弟の暗殺未遂、及びエリシアの誘拐、殺人未遂で“マシェリー”の父は首謀者として投獄された。残された“エスキオラ夫人”と“マシェリー”は、確か修道院に入ったはずだ。

 これが私の知るエスキオラ伯爵家の結末である。

 さらに言えば漫画内では言及されなかったが、王族に手を出した者は死罪と決まっている。つまり私達一家が向かうのは破滅の道なのだ。

 ちょっとかなり冗談じゃないんですけど。


「どうしたらいいのかしら」

「何がですか?」

 私は真剣に思案する。

「いっそこっちが先に社会的に潰してしまおうかしら」

 しかしどんな苦境に立たされても奇跡が起きて、何やかんやと助けられてしまうのがヒロインというものだ。報復が怖い。

「プライドをかなぐり捨ててゴマを擦ってみた方がいいのかしら」

 しかしそんな事してみろ。常に雲で隠れ山頂の見えないレベストマウンテン並みにプライドの高いうちの親、及び純血主義達が黙っちゃいない。

「どうしましょう、先生」

「事情はよく分かりませんが、物騒な事はおやめになった方がよろしいと思います」

 実に的確なアドバイスだ。正攻法の方が後々自分の首を絞めないという事だな。


「そういえば私にぶつかって来た男の子とエリシアはどうなりました?」

「教室に戻らせておきました。ご友人達がとても心配していましたよ」

 うーん、そうかぁ。頭痛くなってきた。

 ミナルゼとオリビアなら、私が倒れた理由に混血を結び付けて、エリシアと男の子に難癖をつけてもおかしくはない。ああ目に見えるようだ。

 こめかみを揉み、頭痛よ去れと念じた。うん。去らない。出るのは溜息ばかりだ。

「これからの事を考えると、胃に穴が開きそうだわ」

 これまでぬくぬく過ごしていたのに、よもやこんなに頭を悩ませる日がこようとは。

 ウチの親を改心させればいいと、言うだけなら簡単だ。しかし綺麗事並べ立ててはいそうですねと簡単に受け入れてくれるなら、ここまで拗れちゃいない。

 今は昔、他国に攻め入られ一度王都を落とした事に対する劣等感が続いているのである。貴族、面倒くさい。

 民衆の多くは移民を受け入れている。彼らによって王国イストランゼは豊かになりつつあるのだから。

 医学も同様だ。貴族自身もその恩恵を授かっている。しかし認めない。貴族、面倒くさい。

 貴族と一括りに言っても、異国について受け入れている貴族は少なくはない。異国の技術や商品は金のなる木。投資をしている家もある。

 だからこそ混血でもこの学校に通えているのだ。階級による区別はあるものの、酷い差別をしているのは純血主義者と一部の底意地の悪い貴族だけで、その他は比較的受け入れている。だからこの学校にも、差別は受けつつも混血の生徒が通えているのである。


 鐘が鳴った。学校医が最後の授業が終わった事を教えてくれた。

 ぼちぼち帰るか。錯綜する記憶を整理したい。

 帰る事を告げれば、別室にいたらしいうちの従者が医務室に入って来た。従者は私の荷物を持ち、足元が覚束ない私を支えてくれる。

 ふらふらと廊下を進んでいると、前方からミナルゼとオリビアが揃って駆けてくる。その表情には心配が表れていた。

 淑女としてはその行動は咎められるべきものだ。しかし私を心配してくれる二人を責める人間がいれば、私は勇んで立ち向かおう。

「もう気分はいいの?」

「やはり同じ学校にいるべきではないわね。空気が悪くなるわ」

 ミナルゼの発言に口元がひくつく。もう少し感動の余韻に浸らせてください。違います、違いますから。変な思い込みはやめて。

「少し疲労が溜まっていただけよ。もう心配ないわ。ありがとう」

 とはいえ我ながら説得力に欠ける顔色の悪さだと、医務室で鏡を見たから分かっている。

 彼女達は揃って気遣わしげにした。


「本当に大丈夫?無理をしたらダメよ」

「お昼、結局何も口にしていないわよね。よろしければ召し上がってちょうだい」

 渡されたのは箱に入れられたお菓子だ。うぅ。いい子達だ。

 個人個人で見れば彼女達は決して悪い人間ではない。だが代々受け継がれてきた思想を覆すのは至難だ。これは一種の洗脳なのだから。

 犬だとしつこく教えられたものを、突然横から猫だと言われても受け入れ難いものである。

 戦時中の恨みつらみが呪いとなって、現代に根強く残っている。

 前世の記憶というお荷物を持っている身としては、何もかも割り切ってしまった方がよっぽど精神衛生上いいと思うんだけどなぁ。


 外まで見送ってくれた二人に手を振って、馬車に乗り込む。お菓子の入った箱をちらちらと見ていたら、従者が苦笑をこぼした。

「召し上がりますか?」

 しかし馬車の中での食事はマナー違反だ。

「お母様には……」

「勿論秘密です」

 従者が茶目っ気たっぷりに言った。兄ちゃん話が分かるね。

 箱を開くと、中身がふるんふるんと揺れた。卵や砂糖を主な材料としている、半固形状の伝統的なお菓子だ。口に含めば甘く柔らかなそれが喉を滑り、お腹を適度に刺激する。

 うむ。やはりおいしい。昔は今ほど甘くはなかったんだって。異国の料理に刺激されて今の甘さになったのだとこっそり教えてくれたのはグランツである。ほら、こんな所にも異国の恩恵がある。


 しばし甘さに浸るがしかし、さほど多くはないそれはすぐに食べ終えてしまう。物足りないし、お腹も満たされていない。

 そういえばアレはどうなったかな。

 御者に話しかけられないかとそわそわしていたら、察しの良い従者はすっと脇に置いていた紙袋を手に取る。

「ご所望の物はこちらでございますか?」

「ま、まさかそれは……!」

「えぇ。街で話題のナギルです」

「何故あなたがそれを」

「エリオット様に相談し、旦那様に購入の許可を得ていたのです。お嬢様の口に入る物ですから、いくらお嬢様の望みといえども使用人には独断で購入は出来ません」

 な、なるほど。

 エリオットとはうちに勤めているおじいちゃん執事だ。

「ちなみにお母様には……」

「秘密です」

 ありがとう、エリオット!お父様!

 お父様には後で思い切り抱き付いてやろう。

 母は異国料理を私が口にするのにいい顔をしない。グランツと街に出掛けた時も、母には内緒で買ってもらっていたのだ。父も同じだったのだが、一体どんな気紛れを起こしたのだろうか。

 まあいいや。さあ、ナギルの実食だ。


 油紙に包まれていたそれは、手作り感溢れる三角形をしており、粒ひとつひとつが白い輝きを放っている。やはりこれはおにぎりだ。

 見た目を楽しんでから、そっと口に含む。目をかっ開いた。

 ふっくらもちもちの噛み応え。舌に仄かに広がる粒の甘み。

 これよ!私が求めていた物は!

 かつて前世で食べた家庭料理が次々と去来する。カレーライス、肉じゃが、牛丼天丼親子丼……。また食べたい。

 食べ物の事を考えていたら、何だかやる気が出てきたぞ。

 漫画がなんだ。こっちは展開を知っているのだ。華麗に覆してみせましょう。そしてこの米料理を食卓に乗せて一家揃って食べてやるのだ。

「ふふふふふ」

 従者のドン引いた目にも負けないんだから!



 その夜、早速父に探りを入れる事にした。

 居間でお酒を飲みながらゆったりくつろいでいる父の傍に座り、素朴な疑問を装って問を向ける。

「お父様。ルノアール公の事はどう思っていらっしゃるの?」

 父は不思議そうにした。

「王弟殿下かい?」

「貴族の中には、ルノアール公を悪し様に言う方もいらっしゃるでしょう?お父様はどうお考えなの?」

 学校では散々王弟の悪口を聞かされている。どれも親の受け売りばかりでうんざりしていたのだ。

 だから家でくらい悪口を聞かずにのんびりしたいと、今まで聞く事はなかった。純血主義の父が王家に混血を作った王弟を悪く言わないわけがない。

 そう思っていたけれど。


 父は感情を昂ぶらせる事はなく、居住まいを少し直して答える。

「確かに王族に異国の血を入れた事には失望した。しかし彼自身の能力を、私は認めているよ。北方地域の人々が万年悩まされていた食糧不足が緩和されたのは、殿下の功績だ。殿下が異国から寒さに強い食物を持ち込んだおかげだからね。以前夜会で少し話をしたが、殿下はこの国を愛し、真剣に考えていたよ」

 その答えには少なからず驚いた。

 しかし思えば、父は純血主義の中でも比較的柔軟な方だ。グランツとの婚約は解消しても、マキウス家を完全に拒絶する事はなかった。そして自領の名産である良質な紙で異国と商売をする計画も密かに進めていた。何でも異国はこの国程紙が流通していないらしい。


 どちらかといえば、マキウス家の成功が、ガチガチだった父の純血主義思想を柔らかくしたといった方が正しいかもしれない。ここら辺はグランツの働きかけも効いたのだろう。

 グランツは貴族が移民や混血を差別している事を子供の頃から憂いていた。しかしただ反発しただけでは変わらない事も知っている。

 だから技術面や商売面での有用性という観点から、移民や混血を貴族達に少しずつ売り込んでいるのだ。レザー領の名産として定着しつつある鮮やかな織物も、がちがちの純血主義を変える一歩でもある。

 もしかしたらそのささやかとも言える変化が、王弟への印象を柔らかくした面もあったのかもしれない。

 緊張していた顔も自然と解れていく。


「じゃあルノアール公を手にかけようとは考えていないのね」

「何を馬鹿な。滅多な事を言うんじゃない」

 うんうん。そうよね。疑ってごめんなさい。

 だけどこれで根本的な問題が解決した。父は王弟を手にかけないのだから、犯罪者にはならない。つまりエスキオラ家はこれからも安泰なのだ。

 なーんだ。心配して損しちゃった。何だかお腹がすいてきた。今日は夕飯をあまり食べられなかったのだ。厨房を勝手に漁ったらダメだよね。料理長に怒られてしまう。使用人用の食堂に行ったら、仕事終わりの一杯をひっかけている人達のおつまみを分けてもらえるかなぁ。勿論母には内緒で。

 父におやすみなさいと告げて、お腹をさすりながら居間を出ようとした。


「マシェリー」

 父はそっと目を逸らし、躊躇いがちに問う。

「グランツとの婚約を破談した事は、恨んでいるかい?」

 どうしてそんな事を聞くのだろう。

 不思議に思いながら答える。

「いいえ。確かに残念ではあったけど、仕方のない事でしょう?お父様には素晴らしい方を選んでくださる事を期待しております」

 父には父の体面がある。グランツとの婚約を続けていれば、他の純血主義からの印象は悪くなるだろう。そうなると生きづらくなるのがこの狭い貴族社会だ。

 父は目を伏せて、憂うようにこぼした。

「……お前は昔から、やけにはっきり割り切る子だったな」

「そうでなければ何も楽しめないもの」

 前世の記憶に恋焦がれたところで、現世を生きている限りどうしようもない事だ。

 私は笑みを作り、おやすみなさいと再度告げた。



 *****



 第二王子の私室でその報告を聞き、グランツの心は俄かにざわついた。

 部屋の主であるシルヴァストは、部下を下がらせた後何とも呆れた表情を友人に向けた。

「今すぐ様子を見に行くなんて言い出すなよ」

 グランツは声を詰まらせ、目を逸らす。

「……分かっているよ」

 動揺を言い当てられたのが癪で、椅子に深く座り直す。それでもなお尻の辺りが落ち着かない。爪先で絨毯を打ち慣らし、深く息を吐き出した。気を紛らわすために酒の注がれたグラスを呷る。

 ここまで落ち着きのない友人の姿は珍しく、故にシルヴァストは悪戯心を擽られた。

「お前の元婚約者は今後どう動くと思う」

 途端にグランツは眉を顰める。

「彼女は純血主義者じゃない。そう装っているだけだ」

「それは聞き飽きた。どうでもいい事だ。重要なのは、どちらについているか、だ」

 睨み付けたところでこの男が意に介するはずもない。

 悠然とグラスを傾け酒を味わうシルヴァストに、苦々しく唇を引き結ぶ。

「お前がやろうとしている事はエリシアに危険が及ぶ恐れがある。それに純血主義の根深さはお前も知っているだろう。ヘタを打てば禍根が残る。時間をかけて溝を埋めていくべきだ。港を開いたアルド王だって、貴族をおざなりにしたから今拗れているんだぞ」

 シルヴァストが鼻で一笑した。


「そんな悠長な事をまだ言うつもりか。ちんたらしていたらお前の愛しい元婚約者は別の男に奪られるぞ。お前だってそう考えたから、俺の元に来たんじゃないのか」

 グランツは押し黙った。夜に染まり、鏡のようになって室内を映し出す窓へと視線を逃がす。

 窓に映るシルヴァストの背中がおおげさに肩をすくめてみせた。

「叔父貴がいいものを拾ってきたんだ。使わない手はないだろ」

「……ルノアール公は彼女を巻き込むために引き取ったわけではないと思うけどね」

「引き取った時点で火種になる事を、あの人が分からないわけがない。遅かれ早かれその存在は知られる事になっただろうがな。むしろ今までよく隠してきたもんだ」

 シルヴァストは喉を鳴らして笑う。


 王弟シャリマ・ルノアール。

 十代の頃より国を飛び出し各地を放浪する男。

 彼が国外から持ち込んだものは、いずれも国に有益なものとなっている。グランツの実家であるマキウス家に染色の技術について話を持ち込んだのも彼だった。

 彼は外国に心を奪われ、いくら周りが進言しても嫁をとる気配も国に腰を落ち着ける様子もない。このまま独身を貫くかと、そう思われていた。

 しかしある日突然十六にもなる娘が現れた。王弟本人が連れてきたのだ。まさに寝耳に水である。

 当然純血主義の貴族は良い顔をしなかった。血の繋がりを疑う者も少なくない。王弟が純血至上主義の緩和を考えている事は周知の事実であり、娘はそのためだけにどこからか用意されたものだと考える者もいた。実際に王弟の元には、真偽を問う手紙が多く寄せられている。

 そして王弟の真意はともかく、エリシアに目をつけたのが、日頃純血主義者を煩わしく思っているシルヴァストだった。

 現王と同様に他国の文化や技術を受け入れ、国をさらなる発展に導きたいと考えている彼にとって、保守的で発言力があり、力のある貴族の大半を占める純血主義は邪魔なのだ。

 エリシアを利用して現状の打破に乗り出している。

 現にこれまで明言する事はなかった混血を受け入れているという意思を、エリシアを連れ立って舞踏会に参加する事により知らしめた。

 当人の承諾も得ない強引なやり口に、グランツは頭と心を痛めている。


「さて。投げられた石で、泉はどう乱れるか」

 まるでボードゲームを楽しむ口振りだ。グランツは深く息をついた。

 シルヴァストのこの物言いは今に始まった事ではない。

 自信家にして尊大な態度。

 疎まれがちなその要素を、一種の魅力に変えているのがシルヴァストという男である。そしてその魅力を支えているのが子供のような好奇心と、権力を笠に着ない性分だった。

 学生時代は学校帰りに二人で街に出る事が多かった。繰り出すたびにシルヴァストは様々なものに興味を示し、身分も構わず話しかけていった。

 そうして得た友人は数知れない。場所によっては道を歩くだけで声を掛けられる程だ。

 国外には留学という形で足を伸ばすまでに至った彼だからこそ、自国の現状に焦りを抱いている。


 この国の文明は遅れている。

 他国は製鉄技術が急速に発展を遂げているにも拘わらず、この国は領主の許しが出ないばかりに他国の技術を受け入れる事はない。

 もしもこのまま技術格差が広がり、他国に攻め入られる事になれば。

 次は王都を奪還する事なく国は滅ぶだろう。

 貴族の中には他国の製鉄技術に限らず目を付けている人間もいるが、アルバトラ公爵を筆頭とした純血主義を恐れるあまり手を出せずにいる。

 しかしマキウス家がひとつの可能性を示した。

 他国の技術を受け入れての成功。それは国を変える一歩になるはずだ。

 実際にその一歩を踏み出すべく計画を立てている貴族が増えつつある。全体から見ればほんの一部かもしれない。だが着実に前に進んでいるのだ。


 だがそれでも―――


 グランツは膝の上に肘を置き、組んだ手に額を当てた。

 焦りや苛立ちを溜息と共に吐き出して、席を立つ。帰る事を告げて返事も待たずに背を向けた。

「グランツ」

 かち合った目は猛禽類を髣髴とさせる。

「元婚約者がいくら大切だろうと、浅はかな真似だけはするな。俺の下についたからにはこれまで以上に行動に気を付けろ」

 グランツは舌先に転がる苦みを喉の奥へと押し込む。次に浮かべたシルヴァストの傲慢な笑みを、見てはいられなかった。


「俺はお前の恋を誰よりも応援しているんだ」


 退出する直前に背中で聞いた言葉には答えなかった。

 




 王都にあるマキウス家の別邸は、他の貴族と同様に富裕層の集まる一角にある。

 他の屋敷に比べると装飾に乏しい。懐の潤っている商人の方がよっぽど豪奢な屋敷を構えている。しかし控え目ながらも秩序的にあしらわれた彫刻は、決して見劣りするものではなかった。

 馬車を降りると執事に出迎えられる。食事は外で済ませた事を告げ、部屋に酒を運ぶように言いつけた。普段は飲む事のない、度の強い酒だ。

 二階の自室に上がり、上着を脱ぎ捨てて長椅子に体を投げ出した。

 目を瞑る。吐いた息は酷く重い。


 この方法で正しいのだろうか。

 幾度も繰り返してきた問を、今日も己に投げかける。


 シルヴァストの考えに賛同出来る部分はある。

 純血主義、中でもアルバトラ公爵を始めとした至上主義の力を削ぐ事が出来れば、他国の技術を取り入れた事業もし易くなるのは確かだ。早めにけりがつくのならそれに越した事はない。

 だからといって何も知らないエリシアを危険な目に晒す事は気が引けた。反面、綺麗事ばかり言っている時間はないともう一人の自分が責める。

 マシェリーが学校を卒業してしまうまでに、現状を変えなければならないのだ。

 一年。

 エスキオラ伯爵が『待つ』と言った期間は、残り一年にまで迫っている。

 しかしそれもあくまで“良くて”一年だ。マシェリーが相手を見つけてしまえば、その“一年”はたちまち泡となって消えてしまう。


 日に日に余裕がなくなっている自覚はあった。

 かつて婚約者だったマシェリーは、日を追うごとに美しくなっていく。昨年に社交界デビューを果たして以来、舞踏会や夜会のたびに奪う視線の数を増やしていった。

 彼女が自分に親しみのある笑顔を向けても、それを独占する権利はない。

 他の男のダンスの誘いに乗る彼女を止める事など、ただの幼馴染で、最近ようやく人前で話す事を許されたグランツには、不可能なのだ。


 運ばれた酒を呷る。喉が焼け付くようだ。

 兄が他国の女性を妻に迎えた事を恨むつもりはない。マキウス家には元々その兆候があった。責めるべきは繋ぎ止められなかった自分だ。

 貴族の現状を憂うだけで、具体的な事は何もしてこなかった。


「マシェリー……」


 時間を巻き戻す事が出来たなら、今も彼女の手を握っている事が出来たのだろうか。


 

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