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それは彼女と出会ってから、何度目かに顔を合わせた頃合いだった。
「グランツって街に出ているの?楽しい?賑やか?」
マキウス家とかねてより親交のあるエスキオラ家の一人娘であるマシェリーは、グランツが街の話をするなり途端に目を輝かせた。
「良かったら行ってみる?」
「行く!」
好奇心旺盛な幼い少女は、その言葉を待っていましたとばかりの即答だ。誘導された気がする。
「ここはお忍びっぽく、服装は町娘風にした方がいいかしら。その方が雰囲気出るわよね」
「そのままでいいよ。派手なデザインではないからね。へたに町娘の格好をしても、君の場合悪目立ちしてしまう」
マシェリーは愛らしい顔立ちをしており、箱の中で大切に育てられたお嬢様の雰囲気で溢れている。高級なドレスを脱いだところで、平民とは一線を画した空気は消えない。それどころか不釣り合いさでことさら目を引いてしまうだろう。
マシェリーは些か不満そうにしながらも納得した。
さて問題はエスキオラ夫妻である。二人は移民排斥派であり、易々許可を出すとはとても思えなかった。そして実際、一度目に許可を申し出た時はすげなく断られてしまった。
「仕方ないわね。お父様とお母様は移民がお嫌いだもの」
「諦める?」
マシェリーは思案気に俯くと、ぱちんと手を合わせた。
「グランツのお屋敷に遊びに行くのを装いましょう。それがいいわ。ねえ、いいでしょう?」
渋ったグランツではあったが、彼はこの少女にはどうにも甘い部分があった。元々グランツは甘えられたり頼られたりすると手を貸してしまう性分だ。損を被ってしまう事も度々あるが、それでも手を伸ばされると取らずにはいられない。
「分かった」
「ありがとう!」
グランツははしゃぐマシェリーに苦笑を禁じ得なかった。
街散策計画は滞りなく決行された。
晴れ渡った空の下、グランツは期待に胸を膨らませるマシェリーを馬車へと招く。
馬車が走り出すと、マシェリーはカーテンをそっと開けて街並みを窺った。とはいえ当然、今はまだ貴族の屋敷が立ち並ぶ見慣れた通りだ。それでもマシェリーは見慣れないものを見るように目をきらきらとさせていた。
エスキオラ夫妻に黙って街へ行こうとしている事に酷く緊張感と罪の意識を覚えていたグランツも、マシェリーを眺めているだけで自然と顔の強張りもほぐれた。
マシェリーという少女は、本来ならば慎重派で行動を起こすまでに時間を要するグランツを引き摺って振り回す。そしてグランツといる事が楽しいと、表情で、言葉で、動きで表現するのだ。
それはとても心地の良い時間だった。
貴族街を抜けると外の喧騒は大きくなった。中央通りをいくつもの馬車や馬とすれ違う。
この道を通った事がないというわけではないのだろう。しかしやはりマシェリーの大きな瞳から好奇心が消え去る事はなかった。
二人を乗せた馬車はついに停まる。ここから先はマシェリーの知らない世界だ。
グランツが先に降りてマシェリーに手を貸そうとしたが、彼女はその前に馬車を飛び下りてしまう。淑女にあるまじき行為だ。
グランツが呆気にとられていると、マシェリーは悪戯っぽく笑ってみせた。
「今日だけ」
思わず苦笑して頷いた。
マシェリーは淑女以前に好奇心旺盛な子供だった。グランツのエスコートも待たず、賑わいの方へ行ってしまう。危ないから離れないように注意したら、それなら早く歩けとばかりにグランツの手を引いた。
市場を目前に足を止めたマシェリーは、まずその活気に気圧されたようだった。
本来ならば馬車が三台通れる程の広い道は、両端に張られた色とりどりの天幕と行きかう人々によってとても狭い道に見える。飛び交う喧騒はおそらくマシェリーも体験した事がない程に威勢が良く、そして乱雑に聞こえる事だろう。喧騒とはそもそもそういうものである。しかしこの少女はそれさえも知らないはずだった。
頻りに人を吐いては呑み込む市場にしばし呆気にとられたマシェリーは、しかし尻込みする事はなかった。熟れた実が弾けるように興奮を押し出して、グランツと市場を交互に見る。
「凄い!イコクジョウチョ溢れてる!私ね、こういうの憧れていたの!」
今にも手を離して駆け出さんとする少女を一旦引き留めた。このままでははぐれてしまいかねない。この場において、グランツは一人の兄を持つ弟でもなければ、勝手気ままな友人を持つ学生でもない。彼女より五つ上のお兄さんなのだ。それにエスキオラ夫妻に黙ってここに来ているために、普段よりも気を引き締めておかなければならないのである。
緩めればあっさりと離れてしまいそうな手を握り直し、マシェリーを魅了してやまない喧騒へと彼女を誘った。
まず目に入るのは、この国では見かけない多彩な果物や野菜類だ。木箱に詰められ、あるいは敷物に広げられたそれらは、陽の光を受けてまるで宝石のように鮮やかに輝いていた。中にはマシェリーの顔程もあるものもあり、マシェリーはすっかり目を奪われてしまっていた。
進むと様々な動物の生肉の売られた区画があり、さらに進むと食べ物を出している屋台が立ち並ぶ区画に入る。
「いい匂いがする」
マシェリーは鳥の串焼きの屋台の前で足を止める。網で焼いた鳥肉の串焼きに飴色のたれが塗りつけられ、香ばしい香りを放っている。
「ヤキトリ!」
きらきらとした目がグランツに向けられた。そんな目を向けられて、買わないなどと言えるだろうか。了承を得たマシェリーは即座に注文をした。
「二本くださる?」
「はいよ!」
屋台の男は威勢の良い声を上げる。黒髪の移民だ。
マシェリーが移民や混血を悪しざまに言う事がないのは知ってはいたが、少しも怯まない態度を目の当たりにすると不思議な感覚だった。
グランツの家であるマキウス家は、移民や混血に対する差別感情は薄い。積極的に主張するわけではないが、異国の文化にも興味を示している。それはグランツにも引き継がれた考え方だった。
一方でエスキオラ家は純血主義らしく、移民や混血を目の敵にしていた。市に行きたいと願い出た時だって、異国の商品や移民の集まる市を、まるで掃き溜めだと言わんばかりの態度を見せ、マシェリーの要望を跳ねのけたのだ。
だからこそ、マシェリーがごく自然に混血や移民を受け入れている事が不可思議だった。
グランツの周囲の多くは、親が純血主義であれば子は疑う事もなくその価値観は受け継いでいる。疑問を持ち反発心を抱いている人間も確かに存在する。だがマシェリーは疑問を抱いている素振りすら見せず、始めからそういうものだと受け入れている節があった。割り切っているとも言う。
冬になれば雪が降るように、自然の摂理とみなしているように思えるのだ。
両手に串を持ったマシェリーは満面の笑みでこちらを振り返った。機嫌良く差し出された串焼きを受け取り、早速次の屋台を物色し始める。あれを買おうこれも買おうとする彼女を止めて、いったん市場を抜けた。
この先には広場がある。元々人の多い場所ではあるが、休日の広場はその比ではない。人だけではなく辺りは軽快な音楽で溢れている。奏でられるメロディーに合わせて踊る人間もいれば、一緒になって歌っている人間もいる。大道芸や紙芝居の周りには子供が集まり、大きな飴を舐めながら芸に夢中になっていた。
そんな広場を見渡しながら、マシェリーはすっかり目を白黒させていた。
「今日はお祭り?」
「休日の広場はいつもお祭り騒ぎだよ」
「楽しそう!」
広場へと躍り出したマシェリーは、手に持っていながら串焼きの事のなど頭からすっかり抜け落ちてしまっているようだ。
グランツは微笑ましく思いつつ、腰を落ち着けられる場所を探している首を巡らせた。
傍らから突然悲鳴が上がり心臓が飛び跳ねた。何事かと目を丸くしてマシェリーを見やれば、彼女は楽しげな空気を一変させて凍り付き、顔を青くしてグランツを振り返った。
ドレスの裾に落ちているのは、串から垂れたのだろう串焼きのたれで――。
「どうしよう!お母様にばれちゃう!」
ここにはエスキオラ夫妻には内緒で来ているのだ。ドレスについた染みを見られては怪しまれてしまう。屋敷に戻って運よく鉢合わせをせずに着替えられたとしても、使用人に告げ口されたら大変だ。
グランツは無意味に辺りを見回し、マシェリーの手を引いた。
「とにかく落とそう」
「そうね!」
マシェリーの手に握られたままの串焼きを念のため取り上げておく。そうして水売りの元へと二人で駆けた。
結果染みは落ちなかったものの、エスキオラ夫妻に咎められる事はなかった。
マシェリーの乳母であり、夫妻からの信頼も厚いノハルの協力を得て夫妻に頭を下げ街に出る許可を求めた事も、功を奏したのかもしれない。
その後もグランツは、マシェリーにせがまれるがままに何度も市場へと繰り出した。夫妻によって密かに護衛もつけられていた事に、彼女は気付いただろうか。
根っからの純血主義者であった夫妻の心を動かしたのは、他でもない愛娘のマシェリーだった。
グランツにとってマシェリーは、とても眩しい存在だった。
明るく晴れやかで、時には周囲さえも動かす。怒られてもめげず、腐る事はない。
彼女はとても強い人間だった。
一方で己を振り返り、いつも自嘲の笑みをこぼしてしまう。
グランツはよく穏やかで優しいと評される。それに揶揄が含まれているのも気付いていたし、彼自身自覚はしていた。
兄のように周囲に惑わされずこれと決めた事を遂行する強さもなければ、友人であるシルヴァストのように強引なまでの決断力と行動力を持っているわけでもない。時期を見極めているうちに、他の人間に出し抜かれる事も度々あった。
そんな自分はマシェリーにふさわしい人間なのだろうかと自問自答する事も珍しくはない。
婚約が決まった時はなおの事考えた。エスキオラ家を継ぐマシェリーを支える人間が自分でいいのかと不安にもなった。
それでもグランツは、自分を呼んで伸ばされたマシェリーの手を、緊張しながらも掴んだのだ。
頬を染めてはにかむ姿はあまりにも愛らしく、やはりグランツにとって彼女は眩しい存在だった。
そんな彼女に自分が望まれている事が、とても嬉しかった。
だからこそ破談を言い渡された時、グランツの目の前を真っ暗にさせたのは、他ならぬマシェリー自身の一言だった。
――仕方ないわ
マシェリーはそのたった一言で簡単に理解を示したのだ。
兄が移民との婚約を持ち出してきた際、覚悟はしていながらも、抗ってくれるのではないかと期待していた。反対されながらも街に繰り出した時のように。
あると信じた足場は、とても脆いものだったのだと知った。
しかしがらがらと崩れていく中で見た彼女の表情はあまりにも悲しげだったから。グランツは初めて彼女の強さに疑問を持った。
惜しんでくれるのなら、グランツの手を取ればいい。しかし彼女はそうはしない。仕方がない事なのだと割り切ろうとした。切り捨てようとした。
マシェリーと過ごす日々の中で、彼女は時折『仕方がない』と口にする事がある。
それはエスキオラ夫妻の移民や混血に対する悪感情であったり、横柄な貴族の態度に対するものであったり、あるいは歌劇で歌われる恋の歌と現実の差に対してであったり。
それを口にする時の彼女は、とても諦観的だった。天真爛漫な少女には似つかわしくない大人びた微笑を口元に浮かべ、世界の理を分かりきったようにこぼす。
ようやく理解した。
マシェリーは強いのではない。諦める事で、弱さから目を逸らしていたのだ。
現金にも、婚約を破談される以前より彼女を強く欲するようになった。
グランツは思う。
美しいものには手を伸ばしたくなるものだ。
だけどあまりに美しすぎると、触れる事を躊躇ってしまう。
今なら強く願える。手を伸ばしてもいいのだと。
下ろされたまま拳を握り、震えている小さな手を包み込んでいいのだと。
彼女の脆さを支える権利を、生まれて初めて、グランツは自ら取りに行こうと決めた。
「――起きた?」
長い睫毛がおもむろに上げられる。二度三度とまばたきを繰り替えして、瞳がグランツに向けられた。白い手が目を擦り、髪を整えようとして、ふとそこに下げたものにたどりついた。掴み取って不思議そうに目の前に移動させたマシェリーの頭を、グランツはくすくすと笑って撫でる。
「真紅の生地が出来たら教えてほしいと言っていただろう?それで作ってもらったんだ」
上品かつ扇情的な色の布地で作られた造花だ。
マシェリーの好きな色は赤ではない。そうにも拘わらず頻りに気に掛けるという事は、理由は自ずと絞られる。
マシェリーは花弁の付け根を摘まんでくるくると回し、香りを嗅ぐように鼻に寄せた。
雪が積もったら、これを持って外に出よう。
その言葉は口にはしない。何故なら彼女は外の世界を恐れているからだ。
「マシェリー」
右手を差し出すと、彼女は俄かに痛ましそうにした。気を遣って努めて顔に出さないようにしているようだが、滲み出した感情は容易く汲み取れる。
手袋と義指によって、何も知らない人間であれば欠けている事にも気付かないだろう。しかし彼女はこうして気にかけるのだ。
指を失った真の原因をマシェリーは知らない。知る必要もない。指を奪った張本人が他人に喋らない限りは、マシェリーの耳に入る事もないだろう。グランツは誰にも話していないのだから。
これに関しては心配はしていない。気にかけるべきはそれ以外だ。
外の世界にはまだ彼女の知らない現実がある。おそらく一番傷つく事実は、子供を産めない体になってしまったエリシアについてだろう。この事でエリシアやシルヴァストがマシェリーを責める事はない。しかしマシェリーが気にしないとも思えなかった。
玄関の方から訪問を報せる音が鳴る。この家唯一の使用人がグランツに目配せする。彼女は元々エスキオラ家に仕えていた人間で、他人との接触を恐れるマシェリーにも無理なく馴染んだ。
グランツはマシェリーを彼女の部屋へと促そうとするものの、彼女は身を固くしたままじっとその場に留まった。手は造花の茎を握り込み、目は玄関の方向に釘付けである。
訪問者が誰か想像がついたのだろう。そしてそれは予想通りだった。
使用人が居間からそう離れていない玄関へと消えて間もなく、努めて元気な声が挨拶を告げた。
エリシアだ。
彼女は新婚にも拘わらず、暇を見つけては付き人と護衛を連れてここを訪れる。そしてもれなく使用人によって門前払いを受けるのだ。しかしめげない。村に滞在中の間は何事もなかったように来訪する。その繰り返しだ。
称賛すべきは諦めの悪さも然る事ながら、効率を考えて乗馬まで覚えるその根性だろう。
現在二人が住むのはマキウス家の管理するレザー領の片田舎。エスキオラ家の管理していたエヴァンス領が近く、王都からは馬車で二日がかりだ。馬を覚えれば当然そちらの方が早い。それに付き合う侍女の苦労も大変なものである。
始めはしおらしく来訪の旨を告げていたために、声がマシェリーに届く前に外に追い出して対応出来ていた。だが扉を開けた瞬間に大きな声で己の来訪を主張しはじめるのにそう時間はかからなかった。
挨拶も半ばに使用人が外に出て扉をきっちり閉じて対応し始めたため、エリシアの声がマシェリーに届く事はもうない。
マシェリーが詰めていた息を吐き出した。その深さから緊張の度合いが窺い知れる。
「ごめんね」
謝れば首を横に振って返された。噛み締められた唇に、この状況への自己嫌悪が表れている。
グランツはこの状況を悪いものだとは捉えていなかった。マシェリーならば再び外に出る。その確信があるからだ。
グランツは決めていた。
彼女が世界を拒絶する限り、マシェリーの耳を塞いで目を隠す。自ら触れようとするその日まで。
エリシアの声から逃げなかった。それは確かに触れようとする一歩だ。この様子なら赤い花を持って雪原を歩くのも、そう遠い未来ではないのかもしれない。
「マシェリー」
グランツは撫でるように愛しい人の名を呼ぶ。
そうして手を差し出した。
自分には兄のような強さも、シルヴァストのような魅力もない。
優しいと評され、故に都合の良い人間だと軽んじられる人間だ。もがけばもがく程無様に転がる姿を晒してしまう。
それでも。
どんなにみっともなくとも、手を伸ばし続けるから。
だから仕方がないと諦めないで、手を掴んでほしい。
握っていてくれたなら、先にあるのが茨の道でも、闇に支配された谷底でも、あるいは神に定められた運命にさえも、立ち向かっていけるだろう。
もう一度彼女の名を呼ぶ。
躊躇いがちに重ねられた手を、そっと握った。
end




