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 アルバトラは背凭れに深く背を預け、おもむろに瞑目した

 彼がこうしてエリシア・ルノアール襲撃を企てた人間だとして捕えられた今も、おそらく彼の雇った殺し屋は黙秘を続けているだろう。シャリマ暗殺の件が未だに身に降りかからないのがその証拠とも言える。

 人を食った笑い声が、耳鳴りのように繰り返される。

 あの男の腕は確かだ。しかし比例するように気の触れた部分がある。

 拷問された程度では口を割らないと豪語し、それは真実であるとイカレた目から確信している。一方で享楽のためならば平気で契約を違える本奔さを持っているのも事実である。


 一年前、マシェリー・エスキオラを殺さなかった理由。それは金に目が眩んだからではなく、彼女の行動に興味を抱いためだ。

 親が死んだと分かるとその場で、少女は殺し屋に家を焼き払うように依頼した。その際に浮かべた少女の笑みは強がりなどではなく、一種の狂気だったと。奴は聞いてもいない事をとても愉しそう語った。

 指示もしていないグランツ・マキウスの襲撃について問い詰めた時も、本人は至ってあっけらかんとしたものだ。マシェリー・エスキオラから仕事に見合わない額を貰った。故に残りの報酬分を自己判断で実行した。そうは言うが、所詮は建前だとアルバトラは気付いている。


 狂った男だ。

 その狂った男は、アルバトラが使用してきたどの人間よりも結果を出した。

 王族の穢れであるエリシア・ルノアールが子をなす事は、未来永劫ないのだから。

 殺害が未遂で終ってしまった事は残念でならないが、この結果自体に不満はない。 

 くつくつと喉を鳴らして嗤うアルバトラは、しかし次の瞬間ふと笑みを消した。


 奇妙な予感が駆けた。愚かな正義を瞳に抱いた青年は、再び自分の前に現れる。

 そんな予感が。

 青年の瞳は彼の日のエスキオラのそれと重なった。

 幼馴染として、兄代わりとして、正しく導いてきたはずだった。しかし彼は事もあろうに王族に混じった穢れた血を容認しようとした。それどころか計画の邪魔さえしようとしたのだ。

 妻や娘に危害が及ぶと脅しをかけて黙らせたが、あの男は危険だった。

 マキウス家の傲慢な思想に呑まれ、誤った正義感を抱いたあの眼差しは、いつ計画を泡にさせようとするとも限らない。だからこそ、早めに口を塞ぐ必要があった。


 重い扉の施錠が外された音がした。間もなく、国の起こりと共に何百年と佇み貴族を閉じ込めてきた牢の扉が開かれる。

 顔も知らない兵士が告げた。

「シルヴァスト殿下がお呼びだ」

 アルバトラはくっと眉間に僅かに皺を寄せ、椅子を立った。

 シルヴァストと、おそらくいるだろう青年の顔を思い浮かべて。



 手枷を揺らして通された部屋には、思い描いた通り二人の若者がいた。

 一人は立ち上がりこちらを迎え、一人はその気配すら見せずに不愉快な笑みを口の端に添えている。相も変わらず己の力を過信した傲慢な顔立ちだ。

「久しいですね殿下。私は語るべき事は全て明かしたはずですが」

 兵士には膝をつくように指示されたが、従う気はなかった。無理に押さえつけようとした兵士を制止、シルヴァストがくつりと嗤う。

「一年前の王弟暗殺未遂、およびエリシア誘拐について話をつけにきた」

「その事件については何も存じていないと、以前にも申し上げたはずですがね」

 シルヴァストは隣の男を目で促す。アルバトラの冷ややかな眼差しを受けてもなお、グランツは物腰の穏やかな態度を続ける。単身でアルバトラ邸へと乗り込んできた時の緊張は窺えない。青年はテーブルの上に置かれた箱から一通の手紙を取り出した。便箋と封筒を分けてテーブルに乗せる。

「こちらの手紙に見覚えがあるかと存じます。これはあなたがこちらのシルヴァスト殿下に宛てた手紙です。殿下とエリシア嬢婚約の真偽を問うたものですね」

 便箋の文字を確認し、一層不審に思いながらアルバトラは肯定する。間違いなく自分の字体だ。内容にも覚えがある。頷きを確認するなりグランツは笑みを深くした。


「ご存知ですか?他国には、その鑑定眼をもってインクの種類を判別する人間がいるようです。その精度はこの三月で裁判官にも認められるものとなりました。

 その鑑定士は世界中を回り、インクを収集している好事家でもあります。一口にインクと言えど、この国には数種存在する。安価なものは紙の滑りが悪く、水気も多いために字が滲んでしまう。その程度であれば私達にも識別が可能です。

 では貴族も使用する高価なもの如何でしょうか。数あるペンによって相性も異なってくる事は、公爵も当然知るところでしょう。上質なものに関しては当人の感覚で捉えるものであって、色、香り、艶、それらを確実に判別出来るものではない。

 しかし件の鑑定士にはそれが可能なのです」

「それが何だというんだ」

 グランツの言わんとしている事が分からなかった。それでもアルバトラは落ち着きを払ったまま先を促す。

 理不尽に指を失えども諦めの悪いこの青年の笑みは、あくまで柔らかだ。いっそ気が触れているのかと疑う程に。

 果たして以前のこの青年に、こういった場面で笑顔を絶やさない事は出来ただろうか。アルバトラにはシルヴァストの後ろに一歩下がって立っている印象しかない。今のように前に出てくる事はほとんどなかったはずだ。ましてや食えない笑みなど浮かべる男ではなかった。

 アルバトラの知る彼とは違うグランツは、焦る事も早口になる事もなく続ける。


「インクは数ある中から自分に合ったものを好んで使うものです。公爵。あなたにも随分と強い拘りがあるようですね。特別に職人に調合させたインクをお使いになられている。色、伸び、艶、どれをとっても美しいと鑑定士の方も高く評価されていました。――さて、こちらにもう一通。見覚えはございませんか?」

 取りだされた手紙が一通。便箋と封筒に分けてテーブルに並べられる。

 アルバトラの顔が俄かに強張る。ほんのささやかな変化ではあったが、グランツは見定めるように目を細めた。

 それが真実そうであったのか、それとも思い違いであったのかは定かではない。ただグランツの声色が、僅かに低くなった事を感じた。

「一年前。王弟殿下暗殺未遂がありましたね。エスキオラ伯爵がその容疑を向けられた。その決定打となった、殺し屋に向けた依頼書です。

 これは確かにエスキオラ伯爵の筆跡でした。しかし我々は改めてこの手紙を鑑定に出しました。もちろん、使用されたインクの鑑定にね。

 結果、殺し屋に宛てた手紙と、エスキオラ伯爵がエリシアとの血縁関係を問うために王弟殿下に宛てた手紙では、使用されたインクは異なっていました。不思議な事に、前者はあなたが使用している特注品と同じものだったようですよ」

 アルバトラは黙り込んだまま記憶をたどる。

 代筆を依頼する時は、決まって自身の使用していたインクを使わせていた。特に意味はない。代筆は公爵邸で行っていたために、そこにあったものを使わせていただけだ。


「あなたの愛用するインクが使用された手紙はまだあります」

 グランツの手によって次々に便箋と封筒がテーブルに並べられていく。目で追っていくと、アルバトラの筆跡であるものと、そうでないものがあった。アルバトラは普段から些末な内容に関しては代筆を頼んでいた。文面を読まない事には判断出来ないが、おそらく彼の筆跡でないものは代筆だろうと見当をつける。

 グランツは説明をつけながら、順に手紙を指し示していった。

「こちらはあなたがルノアール公とエリシア嬢の血縁の確認のために送った手紙。こちらはあなたがシルヴァスト殿下にエリシア嬢との婚約の真偽を問うた手紙。他は商家や貴族にあなたが宛てた手紙です。こちらに関してはあなた自身ではなく、代筆屋に依頼をしたようですね。勿論いずれも、あなたが愛用しているインクが使用されている」

 随分と勿体ぶる。獲物をじわじわと絞め殺そうとする悪趣味さを少なからず感じた。人の好かったはずの青年が、まさかこんな化け方をしようとは誰が想像しただろうか。


「代筆屋には分かりにくい『癖』がありました。もちろんそれは筆跡の事ではありません。彼の筆跡は完璧です。識別する事は不可能だ。『癖』が出たのは外側でした。分かりにくいかもしれませんが、封蝋をよくご覧になってください」

 グランツの手招くような目の動きにつられて、こちらの視線もテーブル上に綺麗に並べられた便箋と封筒に移る。テーブルに寄って代筆屋の推した封蝋印に注目した。しかし見たところで分からない。封蝋が一体何だと言うのだ。

 アルバトラが顔を上げるのを待って、グランツが意味深に笑みを深めた。

「お気づきになりませんか?あなたが贔屓にしていた代筆屋には、封蝋印を押した際に少しだけ右に捻る癖があったようです。だから少々歪な形になってしまっている」

 言われて気付いた。本来であれば綺麗な形を持って記されている家紋が、確かに少しばかり潰れている。アルバトラ自身の捺した封蝋印と見比べれば違いは顕著である。

 一度気付いてしまえば、他の全てが目についた。代筆屋の書いた封蝋の全てに癖が出ている事を確認出来る。

 かさりと、紙の擦れた音がする。ゆるりと視線を上げれば、グランツが新たに手紙を取り出していた。そう質の良い紙ではない。

「これは代筆屋が我々の保護下にあった中で、家族に宛てて書いた手紙です。この手紙のおかげで、我々は件の代筆屋の本来の筆跡をたどる事が出来た」

 赤い封蝋が見えるように目の前に掲げられた。封蝋は綺麗な状態のままでアルバトラにその存在を主張する。 

「察しの良いあなたであれば、既に推測されていると存じます。同じ『癖』が、封蝋にはありました」

 手紙はゆっくりとテーブルに置かれた。

「さて。もう一度、エスキオラ伯爵が殺し屋に宛てたと思われる手紙を、ご覧になってもらえますか?」


 見るまでもない。


 アルバトラはゆっくりと、片方の口角を引き上げた。

 字の傾き方。便箋の織り方。何から何までアルバトラの癖を完璧に模倣する男だと評価していたが、少し思い違えていたようだ。もっとも気付いたところで、この程度の事であればアルバトラも見逃しただろう。まさかそんな事に足元を掬われるなど、考えもすまい。

 力なく目を伏せる。


――あなたがしようとしている事は、いずれ明るみに出ます


 一年前に聞いた、エスキオラの最後の台詞が蘇る。完全なる訣別の言葉だった。

 アルバトラと同じく高貴な血を信じていたはずの男。そして愚かにもこの目の前の若造の毒に侵された男。

 グランツを見て、シルヴァストへと視線を移す。嘲りを口の端に乗せ、憎々しく言い放った。

「お前達は、王家は、愚かな行いを犯そうとしている。いずれ国は亡ぶ。愚王の子孫によって、再び他国に王都を攻め落とされるのだ」

 反論しようとしたシルヴァストを視線で制し、グランツが答えた。

「それを防ぐために国を閉ざさず外を受け入れるべきだ。私はそう考えます。神の御使いとなり、どうぞ国の行く末を見守ってください」

 終始穏やかな姿勢を保っていた青年が、ようやく感情を露わにした。

 怒りの滲み出た声で、アルバトラの末路を指し示す。それを聞き届けて、アルバトラはくつりと喉を鳴らした。


 瞼を閉じて浮かぶのは、意見を違えた男の顔だ。

 額に手を当て深く息を吐く。

 己は正しい事をした。他者にも誇れる行いだ。その思いに揺るぎはない。

 しかしひとつ過ちを認めるならばそれは――。


 アルバトラは静かに笑んだ。




 アルバトラが敗北を認めた事は、彼が身に纏った空気の変化から感じ取れた。それでもなお、男は崩れる気配がない。

 「話を聞きたいのだろう」そう告げてシルヴァストを見下ろした。それでこそ純血主義の頂点に君臨し続けた男だと、シルヴァストは畏敬の念さえ、ほんの少しだが抱く。

 男が今まで話していたグランツではなくシルヴァストに向き直ったのは、グランツが今後取る行動を推測していたからなのかもしれない。

 シルヴァストは片笑みを浮かべて友人を見やる。

「行って来い。北はまだ雪が積もっている。時間もかかるだろう。後は任せろ」

 グランツは頷いた。最後にアルバトラを一瞥して部屋を飛び出す。


 約束の期日まで残り七日。マシェリーのいる修道院まで、晴れた日でも馬を飛ばして五日はかかる。

 まだ間に合う。


 グランツは王城を後にした。

 空は不穏なまでに黒く塗りつぶされていた。


 

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