17
ルノアール邸の私室で、エリシアは非常に困惑していた。
「デザイン画をいくつかお持ちしました。確認していただけますか?」
「え、あ、はあ」
「お嬢様。しっかりしてください。お嬢様の結婚式ですよ」
侍女によって無理やり背筋を伸ばされる。そうして椅子に座らされ、仕立屋が取り出した数々のデザイン画を呆気にとられながら横に流していった。
「あの……」
「私はこちらのデザインがお嬢様に似合うと思います。首のラインは綺麗なのですから、強調していきましょう」
「や、あの……」
「でしたらこちらのデザインはいかがでしょう。このラインをもう少し詰めて――」
「あら。よろしいですわね。ね、お嬢様」
「え、あ、はい」
完全に呆けているエリシアを侍女はじと目で見た。散々失敗をやらかしているエリシアは、彼女のじと目には非常に弱い。怯んでしまうのは条件反射だ。しかしここは負けてはいけない。エリシアは侍女を引っ張って部屋の隅に行く。
「何でこんな本格的に準備しているの?」
確かにエリシアはシルヴァストと婚約の発表をした。しかしそれは真犯人をおびき出す罠というだけのはずだ。それが蓋を開けてみたら、やれ採寸だの、やれ王族の心得だの。まるで本当に結婚するようではないか。
侍女は事もなげに答える。
「敵を欺くためにはこれくらい本格的にやらなくてはいけません。期限だって決まっているんですよ。ちんたら逢瀬を重ねるだけでは向こうは動きませんわ」
「うぅ……」
それはそうかもしれない、が。
一年経とうが、エリシアは未だに貴族の生活に慣れない。シャリマに引き取られるまでは母と二人慎ましやかに生活していたのだ。服を破けば縫って閉じ、少々欠けても食器は大切に使った。十六年もの間続けた庶民感覚はそうそう抜けるものではない。
だからこそ敵を罠に嵌めるためとはいえ惜しげもなく使われる金額を思うと空恐ろしくなる。失敗は出来ないのだという圧力で潰れてしまいそうになるのだ。
日々輝きを増すグランツの笑顔も一役買っている。あれは絶対に、失敗したらただじゃおかねぇと脅しをかけている。思い出しただけでも身震いした。
仕立屋が帰りようやく一心地ついた。
走り回るよりもずっと多くの疲労感を覚えてぐったりとするエリシアの元に、シルヴァストが訪れる。
「少し顔を見に来たたけだ。今日はドレスのデザインを決めたようだな」
「……まあね」
偽装だと分かっているのに、シルヴァストが結婚を連想させる台詞を口にすると、意識されて俄かに顔に熱が帯びる。
ふいっと顔を背ければ、扉の方にいた気配が近寄ってきた。エリシアを寄せて隣に座るのだから内心焦る。
「ちょっと。椅子なら向かいがあるでしょ」
「ここがいいんだよ」
エリシアは我慢ならずにクッションを抱いて顔をうずめた。横から聞こえる忍び笑いが居た堪れない。何故この男はやたら上機嫌なのか。
「何で、そんなに機嫌がいいのよ」
「天気がいいからだ」
「今日はくもりだけど」
半目になって睨み付けても、シルヴァストはどこ吹く風だ。窓の外を見ていた彼は、ふと話題を変えた。
「そういえば知ってるか。マシェリー・エスキオラは雪が好きなんだそうだ」
エリシアは顔を顰めながらも、マシェリーについてなら何でも知りたいので話題に乗った。
「マシェリーも雪ではしゃぐのかしら」
雪だるまを作る姿など全く想像がつかなかった。窓辺から降り積もる雪を静かに眺めている方が想像するに容易い。
去年の冬。混血だ何だと差別され、暗黙の了解で混血の出入りを禁じるサロンの中へ、意地になって踏み込んだ事があった。その時に、窓辺の席で一人紅茶を飲みながら外を見つめているマシェリーの姿を見かけたのだ。
学校のサロンは窓を大きくとっており、四方をガラスで覆われ鳥籠のような造りになっている。そのため、背筋を伸ばしてぼんやりとするでもなく外を見つめる彼女の姿は、一羽の美しい鳥が外を思っているように見えて、ひどく印象的だった。
初めてエリシアはマシェリーを認識した。
声をかけてみたいと思った。一方でずっと遠くから眺めてみたいとも思った。
相反する思いを抱えたまま、エリシアの中でマシェリー像が形作られていく。
他の貴族にはない気高さを持った少女として想像していたからこそ、汚い手を使った事に対する失望は大きいものだった。
それもグランツからの話でエリシアの誤解だと分かったのだけど。
過去の自分の早とちりの多さに自己嫌悪の坂を転がり落ちるエリシアの意識は、シルヴァストの言葉により現実に引き戻される。
「お前の髪に何度も見惚れていたと、グランツにこぼしていたそうだ」
エリシアは小さく声をこぼした。流したままの髪に触れる。
純血主義にとって、この髪は疎むべき対象だ。当然マシェリーも嫌いなのだと思っていた。
あの日マシェリーが、愛おしげに、それでいて寂しげに、この髪に触れていた事を思い出す。
あれはそう、まるで雪を掬うような仕草だった。
彼女がエリシアに向けた言葉。
――私はあなたの髪に赤い花を差す事が出来たのかしら
あれはどういう意味だったのだろうか。
全てが解決したら、彼女に聞く事が出来るだろうか。
「……頑張らなくちゃ」
グランツが怖いだけではない。エリシア自身もまた、マシェリーには戻って来てほしかった。
エリシアが見てきたマシェリーと、彼女の友人やグランツが語るマシェリーは違う。どれが本当のマシェリーなのか。自分の目で確かめたい。
拳を握り気合を入れ直すエリシアに、シルヴァストは溜息をついた。
「そう気を張るな。お前は無茶をしすぎる。それに――」
シルヴァストが白銀の髪を一房掬い上げる。眼差しに甘い熱を込めながら、茶化す口調で告げた。
「あまり熱くなると、溶けてしまうぞ」
視線をエリシアに固定させたまま、そっと髪に口づけを落とした。
呼吸さえ忘れて硬直するエリシアに喉を鳴らして笑い、シルヴァストは満足げに部屋を出て行く。
ぱたんと、扉が閉められた。
無意識のうちに掬われた個所を掴んだエリシアは、ふつふつと顔に熱を集め、
「うにゃあー!!」
ひしゃげた猫のような悲鳴を上げたのだった。
*****
事件が起こったのは、寒さに混じり暖かな日差しが降る頃だった。
エリシアの命が脅かされた。
完璧に思われた警護の隙をついてのそれは、殺し屋がどれだけの腕を持っているかを明らかにした。
生死の狭間を彷徨った彼女を助けたのは、一年前の事件においても活躍したクインシード王立学校の学校医である。今回もまた異国の医療技術に救われた。それはエリシア誘拐事件時よりも、外国に対する貴族の関心を一層高めた。
上辺だけではない。国は徐々に外へと開きつつある。最早一部の貴族の矜持で抑えられるものではない。
その事実を、彼の人はおそらく理解している事だろう。
今回の事件でアルバトラから金銭を受け取り加担した兵士は、既に捕縛されて事情を洗いざらい吐いている。アルバトラにたどり着く事は難しい話ではなかった。
それは一年前と大きく異なる点だった。
一年前のエリシア誘拐。それには国の兵士が関わっていた。だからこそ見張りを立てていたにも拘わらず、エスキオラ一家をエリシア誘拐の現場にまで行かせてしまったのだ。その際関わったとされる兵士は、嫌疑がかかるなり自害を決めて口を噤んだ。正しい事を行ったのだと遺書を添えて。
エリシアを良しとしない純血主義者を多く摘発した事もあって、アルバトラの賛同者は激減したと言って良い。
アルバトラには信頼に値する手駒がもう残ってはないかった。だからこそ杜撰な計画を強引に実行して身の破滅を想定しながらも、相打ちを狙ったのだ。彼にとっては身分を失う事よりも、”異国”の血を王族に入れる方が許せなかったのである。
そして本願は達成された。
子の宿る場所に深い傷を負ったエリシアはもう、誰の子を産む事も出来ない身体になってしまったのだから。
捕縛されたアルバトラは、嘆く事はおろか言い訳もしなかった。清々しい笑みを湛え、エリシアに降りかかった事実にご満悦だった。
町の方角を見て愛しげに目を細める男は、ある意味、誰よりも国を想う人間だったのかもしれない。
現在は塔にて幽閉されている。一年前に、短い間だがマシェリーが押し込められていた塔だ。
こうして事件は解決し、純血至上主義の力を完全に削ぐ事が出来た。
しかしまだ全てが終わったわけではない。
グランツは己の右手に目を落とし、歪な握り拳を作った。そうしてこれから赴く先へ、橙色の瞳を冷ややかに向けた。
錆で軋み耳障りな音を立てて扉が開かれる。そこは湿気とカビの臭いが蔓延した、ランプの明かりだけが頼りの地下牢だ。
グランツが境界線を跨ぐと、場にそぐわない陽気な鼻歌が聞こえてくる。扉を開けた看守は苦い顔をして目的の牢屋へと先導した。
靴音が反響する。なおも鼻歌はやまない。
グランツが牢の前に立つ事でようやくやんだ。それは鼻歌の主が、グランツを認めてにやりと笑ったからだった。
「また会ったな、兄ちゃん。たまにはその男前な顔を明るい場所で拝みたいよ」
牢に入れられているにも拘わらず少しも堪えた様子のないその男は、エリシアの命を狙い更にはグランツを襲撃した殺し屋だ。
「一年前、アルバトラから依頼を受けてエリシア・ルノアールを襲ったのは君だろう?」
「さあな。身に覚えがない」
男はけらけらと笑う。看守が不快そうに顔を歪めるのさえ、愉快だとばかりに声を大きくした。
グランツは眉ひとつ動かさない。男はそれをにやにやと見上げる。
「指返せって言われても無理だぜ」
「いらないよ。この指は切り落とすだけの価値があった」
包帯の巻きつけられた右手を見せる。長さが明らかに足りない指が二本。人の顔を痛ましく歪ませてしまうそれに、グランツは猫にするような気軽さでキスをする。
男の笑い声が一層牢に木霊する。
「いいね。そういうのは嫌いじゃない」
紛れもなく、あの日雪の中で聞いた笑い声だった。
「俺はイカレてるってよく言われるんだけどさぁ」
男の節くれだった指が鉄格子に絡み付く。顔を寄せてにやりと割けた唇からは、鋭い歯が覗いた。生ごみを髣髴とさせる息をグランツに吐きかけながら、さも愉快そうに言う。
「あんたも大概イカレてるな」
グランツの微笑は揺らぐ事はなかった。それどころか、不自然な程に深まった。
側で見守るばかりの看守は戦慄する。物腰の柔らかさが、今のこの場において明らかに異様だ。
優しい男は異常なまでの穏やかさで答える。
「知ってるよ」
さて、話を聞かせてもらおうか。
その声は優しく、そしてぞっとする程に冷ややかだった。
*****
事件の真相は、手を伸ばせるところにまで迫っていたはずだった。
「奴は雇われただけの殺し屋ではないのか……」
私室で報告を受けたシルヴァストが険しい顔を作る。
アルバトラが捕えられ、真相が明らかにされても、なおエリシアを脅かした殺し屋は何も語ろうとはしなかった。終始へらへらと軽薄な笑みを浮かべ、どんな質問を投げても受け流すばかり。拷問にかけても顔色を変える事は一切なく、対峙した者に不気味な印象を与えていた。
依頼主に忠義を捧げているのかとも思えば、「話したらつまらない」と常人には理解の及ばない返答をする。その一方で、「まだ給料分の働きはしていない」と答える事もあった。
今回のエリシア襲撃事件は解決しても、一年前のシャリマ暗殺未遂事件とエリシア誘拐事件は何も解決してはいなかった。
保護していた代筆屋も服毒自殺をしてしまったのだから、手がかりと言えば殺し屋とアルバトラしか残ってはいなかった。
残る二つの事件の真相を突き止めない事にはエスキオラ家の汚名はそそがれず、修道院にいるマシェリーを呼び戻す事は出来ない。
シルヴァストは向かいに座るグランツを見やる。
一年前の事件においてもアルバトラはほぼ黒だ。しかし決定的な証拠に欠ける。
「……白を黒に変えてみるか」
呟いたのは、難しい顔をしていたシルヴァストではなく、表情の抜け落ちたグランツの方だった。
「こちらも手紙という証拠を偽造する」
「その腕の良い代筆屋をどこから捜し出す。アルバトラが使った代筆屋は死んでいる。そいつの他に、どこに鑑定士の目をすり抜ける代筆屋がいるんだ。探すにしてもそれこそ時間がない」
グランツが押し黙る。対するシルヴァストは面白そうに目を細めた。
「まさかお前の口からそんな事を聞く日がこようとはな」
皮肉気に笑う友人を、グランツは静かに睨み付けた。日頃の温厚さは見る影もない。ちりちりと肌を焦がす空気が二人を中心に広がる。
その場に人がいたのなら怯えてしまった事だろう。そしてそんなはめに陥る憐れな野ねずみは、自ら飛び込んでくる事となる。
扉を叩く音が割って入った。外から訪問を告げられる。シルヴァストが許可を出すと、一人の男がおずおずと室内に足を踏み入れた。
「失礼しマス」
二人の放つ異様な空気を敏感に感じ取って肩をすぼめたその男は、この国には珍しい、黄みがかった肌と薄い顔を持つスズキである。即刻退出するべきだ。速やかに判断したスズキは、抱きかかえていた箱型の黒い鞄からもたついた動作で書類を取り出した。
「……鑑定書を持ってきマシタ」
そそくさとシルヴァストに書類を渡し、礼をしてそそくさと退室しようとする。しかし部屋の主であるシルヴァストに阻まれてしまった。
「ここに来て座れ」
「は、はあ」
シルヴァストの座る長椅子が一脚に、グランツの隣に一人用の椅子が一脚。
シルヴァストの隣など、彼に王子という肩書がなくとも遠慮したい。しかし常に話しやすい空気を纏っていたはずのグランツも、今ばかりは肌にちくちくと刺さる不穏な空気を漂わせている。
どちらの隣も御免被りたい。
まごつくスズキをグランツが橙色の瞳で捉える。色に反した冷ややかさに、スズキは思わずシルヴァストの隣に腰かけた。視界には自然とグランツが入ってしまうため、テーブルに散乱している視線を書類に逃がす。
早く帰りたい。ぷるぷると震える横から思わぬ用件を投げつけられた。
「お前の意見が聞きたい」
「……は?」
スズキはぽかんと口を開けてシルヴァストを見て、改めてテーブルに広げられた資料の山を見下ろす。困惑するスズキに依頼主はなおも続けた。
「どんな事でもいい。気付いた事を言ってみろ」
「む、無理デス!」
今二人が抱えている案件はスズキも知っている。その解決のために送り込まれたのだから。
しかしスズキの脳みそは専門分野に完全に傾き切っており、それ以外の事はからっきしだ。要領の悪さに何度シルヴァストを苛立たせたか知れない。
「気負うな。大して期待はしていない。深く考えずに思ったままを言ってみろ」
なんて言い種だ。
スズキはがっくりとうなだれた。結果的に気が楽になったものの、何とも言えない複雑な心境である。
テーブルの資料を適当に手に取って目を通した。
この国の言語はスズキの知るものとほぼ同じだが、微妙に使い回しや綴りの違うものが混ざっている。会話だけなら問題はない。しかし文字を追うとなると少々時間がかかる。
必死に目で追っていると、次第に室内を満たす沈黙が気になっていた。早く何か言えと急かされている気分になってくる。
焦りながら資料を見ていき、そしてふと、一枚の封筒を掴んだ。
「あれ?これって――」
スズキが何気なく口にしたものに、グランツとシルヴァストは同時に息を飲んだ。




