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 アリアンナからその報せを聞き、戦慄した。

「グランツ様が暴漢に襲われたようです」

 ナイフで刺されたエリシアの姿が頭をよぎる。目の前が鮮血染まるようだった。

 足が震え、立っているのも難しくなる。そんな私を支えて椅子に促しながら、アリアンナは頻りに大丈夫だと繰り返した。

「グランツ様は心配ありません。しばらくは安静にしなければならないらしいけど、命は助かったようですから」

 背中をさすってもらう事で、次第に体の震えは収まっていった。それでも失った血の気はなかなか戻ってこない。

 父を陥れた犯人の仕業だろうか。

 約束を交わした日に彼に向けた台詞を思い返した。

 今回は死ぬ事はなかった。しかしグランツが犯人を追う限り、彼の行く先には乱立して回収される時を待っている。

 これでこの件から手を引いてくれればいい。私は真犯人なんてどうでもいいのだから。だけど彼は、諦めてくれるのだろうか。

 最後に見たグランツの双眸。

 あれは天から垂らされた蜘蛛の糸を掴むように、微かな希望に縋りついた眼だ。

 諦めて、くれるのだろうか。

 確信を持てなかった私は、その日初めて、ペンを取った。前振りもなく本題のみを書く。


『殺されかけたと聞きました。

 これに懲りたら私の事は忘れる事ね。手紙ももう送ってこないでちょうだい』


 読み返して苦虫を噛み潰した気分になる。

 これではまるで私が心配しているみたいではないか。

 そう誤解されるのも癪で、結局便箋は丸めて屑籠に投げ入れた。



 二週間ぶりにグランツから手紙が届いた。

 もう回復したのだろうか。

 アリアンナが寝静まった頃合いを見計らい、部屋の隅でろうそくに火を灯して手紙を開く。

 折りたたまれた便箋を開いて――絶句した。

 便箋に綴られた文字は、これまでの美しさが見る影もなく歪で、たどたどしく震えていた。口にペンをくわえて書いたのかと疑いたくなる程だ。字を習いたての子供の方がまだ読めたものである。ペンを落としたのか、ところどころインクの染みがついていた。

「何よこれ」

 まともに字も書けない状態のくせに、何故手紙を送ってくるのだ。院長と手紙のやりとりをしているのだろう。大丈夫とか心配ないとか、そんな報告なら院長の手紙に纏めた方が労力も少なくて済む。

 そもそもこんなに酷い状態なら代筆を頼めばいいのだ。他人に読まれて困る重大な内容が書かれているわけではないのだから。

 このまま何も言わずにいたら、また以前と同じペースで送ってきそうだ。


 机の引き出しから便箋を取り出す。手紙を書く暇があったら療養に専念しろと、はっきりきっぱりと書いてやった。

 しかし書き終えた後にはたりと気付く。

 グランツの事だ。手紙を書けば、返事をしなくてはならない義務感に囚われてしまうのではないだろうか。彼はそういう男だ。律義でお人好しなのである。

 考えた末、その便箋は破って屑籠に放り込んだ。院長から厳重注意するように頼む。


 その後手紙はまた定期的に届けられた。

 以前のように三日に一通ではなく、一週間に一通になった。字はたどたどしいままだが、これまでの手紙と並べて見れば少しずつ読みやすくなっている事が分かる。だけど一ヶ月経ってもこの有様とは、どれほどの重傷を負ったのだろう。指の骨でも折られたのだろうか。もしそうならやはり手紙を書かせるべきではない。

 院長に再度厳重注意をするように頼んだ。院長には自分で手紙を出したらどうだと呆れられたが、私は断固として書かない姿勢を貫いた。



 *****



 城の一角にある第二王子の私室に、エリシアは鼻息荒く乗り込んだ。

「グランツさん!いよいよ私の出番なんですね!」

 扉も閉まらないうちに叫ぶと、既に部屋にいたグランツが思わずといったように苦笑する。

「危険な目に遭う可能性があるけど、それでも引き受けてくれるかい?」

「何でも言ってください!」

 ようやく自分も参加出来るのだ。張り切るなとは無理な相談だ。


 誘拐事件から数ヶ月、エリシアはエリシアなりに考えて答えを出し、行動を起こしていた。

 貴族側を纏めていたマシェリーが抜けて以降、学校の荒れ様は酷いものだった。貴族の生徒は好き勝手な振る舞いを起こし、平民の生徒を虐げている。一方平民側は王弟暗殺未遂、エリシア誘拐を持ち出して、貴族、特に純血主義に反抗した。

 最早自分の手には負えなくなり途方に暮れていたところ、グランツがマシェリーと特に仲の良かった二人をエリシアに引き合わせたのだ。今は彼女達と一緒に、貴族と平民の対立の終着点の模索を続けている。

 先の事件によって、純血主義の発言力は低下を見せた。混血を受け入れた貴族がマキウス伯爵家に倣い、事業に結果を出しつつあるのも少なからず影響を与えている。

 これを追い風として、在学中に出来得る事はしておきたい。

 グランツにこれまでの自分の行いについて解説され、さらに貴族と組む事で、エリシアはようやく見えていなかったものを見始めていた。


 エリシアの行動で、確かに差別される現状を甘んじて受け入れていた混血や平民も奮い立つようになった。しかしそれだけではこの先行き詰るばかりだ。貴族と和解など無理な話である。

 マシェリーからは「頭を使え」「猪のように突進するしか能がない」などの嫌みを度々聞かされたが、どうやら体面上味方につけない彼女なりの精一杯の助言だったようだ。だがしかし教えられたところで「分かるか!」と反論したくなるのは確かである。ちなみにこれを聞いた夜、枕をひとつダメにした。

 マシェリーとは話さなくてはならない事が沢山ある。

 そして謝らなくてはならない事も。結果として己が引き起こす原因の一端を担ってしまったのだから。

 謝罪だけで済むとは思わない。それでも会話を交わさない事にはどこにも進めない。


 そのためにも。


 エリシアは背筋を伸ばしてグランツに向き直る。強い眼差しで、自分を呼びつけた相手を見据えた。

「私は何をすればいいんですか?」

 シルヴァストは明らかに難色を示しているが口は挟まない。危険だからと言ったところで、彼女が聞く耳を持たない事を知っているのだ。

 確かな決意を受け止めて、グランツは微笑んだ。

 初めてシルヴァストから紹介を受けた時のように、穏やかで優しげな、それでいてあの頃にはない奇妙な威圧感を伴った、思わず目を逸らしたくなる微笑みだ。


「ありがとう。助かるよ。それじゃあ早速――君にはシルヴァストと婚約してもらう」


 さらりと飛び出したとんでもない発言に、エリシアはものの見事に固まった。たっぷりたっぷり間を開けて、第一声に間の抜けた声をこぼした。

「は?」

 表情を困惑と羞恥に染めていく少女の細い肩に、グランツの手がぽんと乗せられる。


「よろしくね」



 彼女はのちに語る。


 あれは悪魔の笑みだった、と。



 *****



 第二王子シルヴァストと王弟殿下の隠し子エリシアが婚約した。

 冬という季節。地方の本邸に戻っていた上級貴族達が、社交期のために王都へと集う。その頃合いにもたらされた噂は、瞬く間に貴族達の間に広まった。三日も経てばそれを話題に出さぬ者などいない。

 シルヴァストの元には真偽を問う手紙が数多く送り付けられ、そのどれにも肯定が返された。

 その婚約には非難の声が数多く上がる。筆頭となったのが、アルバトラ公爵を始めとした、純血主義者の貴族達だ。

 混血は王族の結婚相手には相応しくないと再三申し立てても、シルヴァストは一切の聞く耳を持たない。

 その間にもシルヴァストとエリシアはデートを重ね、互いの家を行き来していた。

 年明けを待って行われたある夜会で、結婚式の日取りが発表された。

 奇しくも一年前、シルヴァストがエリシアの手を取りダンスを披露した舞踏会での事だった。

 仲睦まじく寄り添う様は、誰の目にもその婚約が愛し合ってのものだという事実を知らしめる。結婚式はエリシアの学校卒業を待って行われるとされた。

 十七歳のエリシアは、この春卒業である。

 卒業までに残り二月半を切っていた。



 ルーディウス・アルバトラは王都邸の執務室で苛立ちを露わにしていた。

 足で床を打つ音は、絨毯の上でもなおくぐもった呻き声のように鳴る。

 明かりは机上を照らすろうそくの炎のみ。その小さな炎が部屋全体を照らす事は当然なく、隅に行く程に影は濃い。しかしその光に一番近い所にいながらも、アルバトラの背負う影もまた、深いものだ。

 拳を振り上げると、壁に映った影が大きく動く。乱暴な音は部屋に響き渡り、そして暗がりに吸い込まれた。机上の炎がゆらりと揺れて元に戻った。

 アルバトラは力の弛まない拳を机に乗せたまま、ぎらぎらとした瞳で小さな炎を凝視する。


 王国イストランゼは、異国から侵略を受けた過去を持つ。

 王都を落とされ、誇りを汚された屈辱は、国を取り返してもなお貴族の深い部分に根を張り、現在に至るまで残り続けた。

 国は国外からの人の出入りを厳しく規制した。長きに渡る安寧の始まりだ。よそ者に文化や平穏を脅かされる事はなく、国民は幸福に暮らしていた。

 しかしその安寧の日々の中で過去を忘れた愚かなる者が、先々代の王だ。

 技術が異国に後れを取っていた。その理由だけで家臣の反対を押し切り、国を他国へと開いた。野蛮な血と野蛮な思想は一挙に押し寄せ、民衆を侵し、内側からこの国を蝕もうとしている。


 国民は騙されている。

 国王はこの国を売ったのだ。

 愚者の血を継ぐ、愚かな王と、その息子。そして王族の血を異国に売り渡した王弟。

 だが、最も忌むべきは彼らを誑かした異民である。

 異国の血は悪魔の血だ。高潔で尊い種族、ましてや王族に、決して混ぜてはならない。

 己は貴族として。王家に次ぐ血筋の者として、王族を守る義務がある。


 一際強い舌打ちが鳴る。

 アルバトラは便箋を取り出し、ペンを走らせた。


 狂ってしまった歯車を、正すために。

 

 

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