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「いらっしゃいグランツ!見て!一面の銀世界よ!」

 雪の積もったある冬の日。朝一番にマシェリーから手紙とも言えない走り書きの紙片が届けられた。

 『見せたいものがあるの。すぐに来て』

 不思議に思いながらエスキオラ邸を訪ねると、マシェリーは何と外でグランツを待っていたのだ。彼女の鼻や頬は見事に赤く染まっている。

 グランツは寒さから赤くなっている頬を両手で包んでやった。手袋をつけているため実際に感じることはないが、おそらく彼女の頬は冷たくなっているだろう。

「いつから外にいたんだい?使用人達は君が外にいる事に気付かなかったのか」

「そんな事はどうでもいいの。とにかく見て。庭に雪が積もっているのよ!」

 そんなもの毎年の事だ。去年だって二人で雪だるまを作った。雪合戦も、マシェリーがねだった“カマクラ”だって作った。

 こんな朝早くに呼び出して、何よりこの底冷えする寒さの中でグランツを待ってまで言う事ではない。

 朝からマシェリーの姿を見られる事はグランツだって当然嬉しい。しかしその行動が少々不可解だった。

 マシェリーはふふんと胸を張る。


「今年は少し違うのよ。雪の新しい鑑賞方法を見つけたんですもの」

 言うなり見せたのは、ずっと手に持っていた赤い造花だった。これが一体何だというのだ。

 不思議に思っていると、彼女はくるりとグランツに背を向けて、えっちらおっちら庭の横断を始める。小さな体を懸命に動かして歩く姿はあまりに愛らしく、追いかけるのも忘れて見守っていた。すると彼女は雪に足を取られて正面から滑ってしまった。慌てて向かおうとするが、思いがけず怒られてしまう。

「来ちゃダメよ。足跡がついてしまうじゃない!」

 憤然と小さな手でグランツの足元を指差す。

「マシェリーだって足跡をつけているじゃないか」

「私だって本当はつけたくないのよ。だけど赤い花を置くには雪の上を歩くしかないでしょう?」

 赤い花を雪の上に置く?一体何のために。益々不可解だ。

 そんなグランツの疑問に気付いているのかいないのか。マシェリーはグランツにそこで待つように言いつけて、再びえっちらおっちら歩き出す。

 はらはらと見守っていると、彼女は立ち止まり、雪の上にそっと赤い造花を置いた。グランツを振り返りにっこり笑って慎重に引き返してくる。注意深く見ていれば、つけた足跡の上をわざわざたどっているのが分かる。

 マシェリーは勢いをつけてグランツの腕の中に飛び込んできた。グランツを見上げて得意げに笑う。


「見て。白い雪に赤い色が映えるでしょう?あれを見たら雪を乱すのも勿体なくなるわ。これがフウリュウってやつよ」

 毛糸の手袋が指し示す。その先を追って、グランツは眩しさに目を細めた。

 太陽の光によって、雪の表面が輝いていた。そんな白銀の世界に、赤がひとつ。溶け込む事なく色を主張している。

 足跡は目立たなかった。

 だからこそ赤い花は美しく、孤高だった。

「今、足跡をつけずに赤い花を置く方法を考えているのよ」

「私も一緒に考えようか?」

「ダメ。これは私の挑戦なの。……だけどどうしてもって言うなら、ヒントくらいなら言ってもいいのよ」

 挑戦は既に行き詰っているようだ。

 難しい顔して考え込む少女の意識を、名前を呼ぶ事で自分の方に引き寄せる。


「私は足跡があった方がいいと思うよ」

 マシェリーは不満を表情に乗せた。

「どうして?」

「その方が身近に感じるからかな。足跡がなければ、あまりに美しすぎて近付くのを躊躇ってしまう」

 マシェリーはやれやれと首を横に振った。いやに大人びた仕草だが、その姿では大人の真似をする子供にしか見えず、むしろ年相応で可愛らしい。

「分かってないわね。この景色は眺めるためのものなのよ」


 それでも、グランツは思う。

 美しいものには思わず手を伸ばしたくなるものだ。

 だけどあまりに美しすぎると、近寄り難くて踏み出せない。


 その気持ちをマシェリーは汲み取ってくれる様子はない。

 グランツの意見になどとうに関心をなくし、雪に咲く花を見つめてご満悦にしていた。そのうちうっとりと蕩けるような熱い視線を景色に伸ばす。

「マシェリー」

 承諾もなく抱き上げると小さな悲鳴が上がった。目を白黒させている彼女に笑いかける。

「そろそろ屋敷に入ろう。風邪をひいてしまう」

「私は平気よ」

「ダメだよ。それにどうせ誰にも言わずに外に出ているんだろう?ほら。屋敷の方が騒がしくなっている」

 マシェリーは「しまった」とこぼしながらグランツに擦り寄った。大方母親の雷を想像したのだろう。世界で一番怖いのはお母様だとは、彼女の口癖だ。

 グランツは背中を支える腕に力を込めて、彼女との間にあった僅かな隙間すら埋めた。



 ふっと瞼を押し上げる。

 窓に目をやり、起き上がろうとした瞬間に激痛が襲いかかってきた。靄の向こうにあった記憶が鮮明になっていく。

「……死ななかったのか……」

 幸せな夢の中で死ねたなら、どんなに楽だっただろうか。痛みを感じた分だけ現実が突き刺さってくる。

 現在いるこの場所は、マキウス家の王都邸にあるグランツの自室のようである。

 溜息ひとつついただけで傷に響く。その体を無理に動かして、グランツはベッドを出た。

 足が上手く上がらない。痛む脇腹を庇おうと体が折り曲がる。足が崩れた。無様に転がる。激痛が体を侵し、浅い呼吸が繰り返された。

 死を覚悟する程の痛みは、しかしグランツを死の淵に追いやる事さえしなかった。深く息を吸おうとして、逆に風の抜ける音がした。咳き込むと再び激痛が襲いくる。

 ただ窓の外を見ようとしただけなのに。たった数歩で済むはずの距離が酷く遠い。


「グランツ様!!」

 金切り声が上がる。

 使用人が駆け寄ってきて抱き起こそうとする。触れられた瞬間にうめき声がこぼれた。それは使用人の手を躊躇わせ、狼狽えた彼女は他の使用人を大声で呼んだ。

 忙しい足音が集まってくる。

「無理はなさらないでください。ゆっくり、起こしますね」

 グランツを気遣い丁寧に抱き起したのは年若い従僕だった。

「次は呼吸が整ったら、ゆっくり立ちましょう」

 浅い呼吸の合間にグランツは言う。

「窓の外を、見せてくれないか」

「しかし……」

「頼む」

 顔を曇らせる従僕だったが、最終的には了承した。

 まだ浅い呼吸の内にグランツは立とうとする。従僕の制止に聞く耳は一切持たなかった。

 従僕の肩に絡ませた腕に力を加えると、上半身が痛んだ。立ち上がろうと足に力を加えたら、背中から下半身まで全てが痛む。最早体のどこも、痛まない個所はなかった。

 それでもグランツは力を緩めない。


 従僕の手を借りて立ち上がった。足を引き摺りながら窓へと向かう。

 部屋が暖かい所為で、窓ガラスは白く曇っていた。痛ましそうにグランツを見守っていた使用人が、慌ててエプロンの裾で窓を拭く。次第に見えてきた外の景色に、グランツの顔は歪んでいく。

 窓の向こうにある庭は、白銀に染まっていた。

 踏み荒らされる事もなく。

 太陽に照らされて美しく輝いている。

 そこにあるのは、場所は違えどマシェリーの愛した景色だ。

 額をガラスに押しつける。吐息によってガラスは白く曇った。最後に彼女と歩いた市場での事が、何度も思い起こされる。

 攫ってしまえば良かったのだろうか。

 彼女の意思を無視して。

 ただ衝動のままに。


 何故彼女が修道院を選んだのかは想像がつく。

 天真爛漫と信じて疑わなかった彼女の確かな弱さを、グランツはもう知っているのだから。

 自分に怪我を負わせた男の台詞を思い返して、目を伏せた。

 主を失った屋敷を襲った火事の真相にも既に思い至っている。エスキオラ家に罪をなすりつけた黒幕が仕掛けたものだとして立てた推測は、思いがけず裏切られたという事だ。

 窓に手をかけた。鍵を開けようとして、長さの足りないそれに気付く。

 右手の人差し指と中指。

 本来あるべき長さではなくなっていた。体中が痛みを訴えていたために、切り口の痛みが紛れてしまっていたようだ。

 記憶ははっきりとしていたはずなのに、今さながらに実感する。

 これではもう、彼女が綺麗だと褒めた字を書く事もかなわない。

 こぼれたのは自嘲の笑みだ。

 彼女を惹きつけるものを次々と失っていく。最後に失うものを考えたくなかった。


 定期的に届く修道院からの手紙を開くのが怖い。

 マシェリーは一年と定めた期限に了承した。しかしだからといって必ず待つとは限らない。実際何度も髪を切ろうとしては、世話役のアリアンナに止められていると聞いている。

 今回は洗礼については書かれていなかった。だが次は書かれるかもしれない。

 報告の手紙が届くたびに、安堵と恐怖が交互に押し寄せる。

 胃を競り上がってくる不快感を呑み込んで、グランツは庭を見たままに口を開いた。


「……何日、寝ていた」

「二日です」

「私宛の手紙はきていなかったか」

 従僕は明らかに難色を示した。

「グランツ様、今は休まれた方が……」

「そんな時間はない」

 約束の日まで残り僅かだ。

 微かにある、星のように小さく光る可能性さえ切り捨てる事など出来やしない。

 約束という一筋の希望に縋りつくしかなかった。

 従僕がベッドに促そうとするも、グランツは窓から離れようとはしなかった。語調を強めようと従僕が意を決した時、突然の闖入者が現れる。


「グランツが起きたようだな」

 扉を振り返り、グランツを除いた全員が唖然とした。

 他人の屋敷であるにも拘わらず我が物顔で立つその人物は、この国の第二王子、シルヴァストだったのである。

「呆けている暇があればその馬鹿を引き摺ってでもベッドに押し込めろ」

 窓に貼り付いたままの重傷患者を顎でしゃくると、従僕は泡を食ってグランツをベッドに促した。今度はグランツも大人しく従ってくれる。

 その後も、包帯の取り換えや、使用人が倒れているグランツに驚いてひっくり返したたらいの片付けや、客人のもてなしにと慌ただしく時間は過ぎる。

 姿を現した時同様まるで部屋の主のように長椅子に座ってふんぞり返っていたシルヴァストは、全ての用を済ませた使用人が退室した頃合いにベッドへと歩み寄る。

 ベッドの傍に用意された椅子に座り、脚を組んだ。サイドテーブルに積まれた手紙に眉根を寄せながら、溜息を吐きだす。


「お前はしばらく療養に専念しろ。……と、言ったところで聞く耳は持たないだろうな」

 シルヴァストは焦るあまり、ひとつの冤罪を作るきっかけを作った。そしてそれは友人さえも追い詰める結果を生んだ。

 罪滅ぼしというわけではない。ただ協力を惜しむ気はなかった。そもそもあの事件を解決させない事には、エリシアも再び命を狙われるのは目に見えていた。

 今日持ち込んだのも、目的を果たすための一手だ。

「叔父貴から面白いものが届いた。今の行き詰った現状をようやく動かせそうだ」


 シルヴァストが振り返る。グランツはそこで初めて来客がもう一人いた事に気が付いた。

 部屋の隅で所在なさ気に立っている男は、身長は小男という程でもないが決して高いとは言えない。やたら委縮しているため、実際の身長よりずっと低く見えた。

 特徴と言えばこの国の移民でも珍しい、黄色がかった肌だろう。顔の造りがやけに薄く、すぐに風景に同化してしまいそうだ。

 シルヴァストが横柄に指で来るように指示を出せば、男はおずおずと寄ってきた。シルヴァストの座る椅子の斜め後ろに立つ。一見すると主人と従者だ。

 可哀相になる程怯えている子ネズミのような男に構わず、シルヴァストはいやに意地の悪い片笑みを浮かべた。


「さて。まずは見てもらおうか。おい」

「ふぁ、ふぁい!」

 男は大事そうに抱えていた箱型の黒い鞄を絨毯の上に置いて開いた。

 グランツは目を丸くする。


 鞄の中に詰め込まれていたのは、小さなインク壺の数々だった。


  

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