14
季節は冬に入ろうとしていた。
グランツは雲に覆われた空を見上げて息を吐く。吐息は白く染まって霧散した。
マシェリーとの約束の期限まで、残り三月を過ぎていた。
調べているうちにアルバトラ公爵に嫌疑がかかったものの、決定的な証拠はない。
エリシアの誘拐事件をきっかけに、犯罪を働いた過激な純血主義を一網打尽にした。おかげで純血主義者は全体的に大人しくなっている。この事件はクインシード王立学校に通う生徒達にもまた少なからず影響を与えていた。
抑制の働きをしていたマシェリーの退学によって激化した貴族と平民の対立抗争は、エリシアやマシェリーの友人を中心として、掴んだ解決の糸口の先をたぐりつつある。
学校は変わろうとしている。いずれ貴族全体に広がるだろう。
そうにも拘わらずマシェリーにその姿を見せる目処は立っておらず、焦りばかりが募っていく。
そろそろ雪が降り始める。
マシェリーの愛した季節だ。
グランツの視線は空に絡め取られたように動かない。
しばらくそうした後、内側から促されるように独りごちた。
「少し……揺さぶりをかけてみるか……」
その屋敷は、貴族街の中でも格別広い敷地を持っている。
それでいて佇まいは決して派手ではなく、しかしかつての名のある建築家の作り上げた芸術とも呼べる姿がグランツの前に立ち塞がった。
昔はこの屋敷がとても苦手だった。堂々とし、かつ重圧的で自然とグランツの畏怖を引きずり出す。屋敷の主もまたこの建物に相応しい人物で、夜会などで挨拶を交わす度に緊張を強いられたものだ。
屋敷の人間に客間へと案内された。目的の人物が現れたのは、一人にされて間もなくの事だった。
白髪混じりの暗い金の髪。堂々としてかつ威圧的な空気は、やはりこの屋敷の主に相応しい。
グランツは背筋を意識しながら礼をとる。この男の前では少しの気の緩みさえ綻びとなって、築いた防壁が崩されかねない。
「お久ぶりでございます、公爵」
「私は君達一家の顔など見たくもないがね」
吐き捨てるわけでもなく、嘲笑したまま毒を吐く。
この男は味方に回れば庇護を授け、敵に回れば容赦がない。情が深く冷酷だ。そんな人間がどの貴族よりも鉄資源の豊富な領地を持っている。だから逆らう人間は少ないのである。
アルバトラは椅子に腰かけると、グランツに座るよう促した。グランツは目礼をして腰かける。
一口紅茶を飲んだ男は、鋭い目でグランツを射抜いた。
「それで?わざわざ来たんだ。余程重大な用件なんだろうな」
グランツの喉が上下する。手のひらの汗を握り込んで居住まいを正した。
焦りを悟らせないように口角を上げる。挙動ひとつ見逃すまいと、意識をアルバトラに集中させた。
「先日、腕の良い代筆屋が見つかりました。驚いた事に彼に頼んで字を真似てもらうと、鑑定士でも判別は難しいようでした」
注意深く窺っても、アルバトラは表情に変化はない。
「調べて分かった事ですが、この代筆屋、こちらの屋敷に出入りしているという情報があるのです」
アルバトラは軽く肩をすくめてみせた。
分かってはいたが、この程度は何の揺さぶりにもならない。
「恥ずかしい話だが息子が酷い悪筆でね。専属の代筆屋を雇っている」
「おかしいですね。代筆屋はあなたから仕事を請け負った事はないと話していました。あなたの屋敷にも行っていないと」
「その代筆屋の記憶違いではないのか」
依頼人は公爵だ。記憶に刻まれないはずはない。
苦笑しながらも、目はぎらぎらとして隙がなかった。
男は知っているのだ。
グランツの見つけ出した代筆屋が、決して口を割ろうとしない事を。
ただ手紙を偽造するだけの仕事にしろ、王族殺しを事前に知りながら黙認したのだ。そう簡単に己の罪を認めるわけがない。あるいは家族を人質にとられているのか。代筆屋の家族は現在アルバトラ公爵家の領地に住んでいる。ここ一年以内の急な引っ越しだったと近所の人間が証言した。
今ここでただ座るだけのグランツを、シルヴァストが見たら呆れるだろう。堅実なお前がらしくもないと笑うかもしれない。
今持っている手札だけでは無謀でしかないのは端から承知の上だった。
「用件はそれだけかね。私も忙しい身だ。君の要領の得ない戯言に付き合っている暇はないのだよ」
アルバトラは机の上のベルを鳴らす。間もなく執事が現れた。グランツを帰らせるように言いつけ、見送らずに部屋を去ろうとする。
部屋の外へ足をかけ、その気配もなかったのに、不意に気紛れを起こしたように男は振り返った。
「いつまで愚かな真似を続けるつもりだ。品のないドレス。食器も使わぬ野蛮な料理。町で喧嘩を繰り返す蛮族を受け入れて何になる」
伝統や礼儀を重んじるアルバトラにとって、派手な色のドレスや手掴みの料理は、確かに品がなく映ってしまう事だろう。彼に限らず貴族はそうなのかもしれない。マシェリーがなんの躊躇いもなく、鳥の串焼きを串から直接口に含めた事の方が不思議なのだ。
しかしそれが何だというのだ。この国の平民であっても、市では食器のない、手掴みを迫られる料理は出てくる。鳥の串焼きがそうだ。元々あった文化に外国の料理が混ざり込んだだけにすぎない。外国の料理が特別なわけでは決してない。移民が事件を起こす事だって、目を引くだけでこの国の人間も同じように暴れている。
「私はただ、美味しいものは美味しい。綺麗なものは綺麗だと、素直に口にしたいだけです」
内から湧き上がる感情を、何故抑え込まなければならないのか。何故抱いた感動を、否定されなければならないのか。
ましてやそれを楽しむ機会を、何故取り上げられなければならないのか。
椅子を立ち上がる。苦手とした双眸を、真っ向から見返した。
「また、近々あなたに会いに来ます。次は手土産も用意して」
言外の意図を果たしてアルバトラは汲み取っただろうか。
彼の返した笑みは深く、経験を重ねたが故の余裕が垣間見える。
揺さぶるつもりできても、何一つ手応えがなかった。男には消沈などお見通しだろう。しかしだからといって正直に顔に出すわけにもいかない。
グランツは微笑み、優雅に辞儀をしてアルバトラを見送った。
執事に案内されて外に出ると、空気が張りつめる程に冷えているのを肌で感じる。降るかと空を見やろうとしたところで、はらりと、鼻先を白い花びらが過ぎった。花弁ではなく雪だ。戯れるように次々と舞い降りてくる。
懐から紅色の織物で造られた花を取り出して、雪の前に差し出した。しかし造花はその形だけを雪に捧げるばかりで、本来の色は夜に染まってしまっていた。
やはり雪に花を添えるなら、陽の下がいい。
レザー領の織物染色は、鮮やかな紅色を表す事に成功した。マシェリーが待ちわびていた色だ。まだ手紙にだって書いていない。
グランツは造花を指先でくるりと回し、懐にしまった。
マシェリーが修道院に行ってから、グランツはマキウス家の王都邸ではなく街のアパートを借りて一人暮らしを始めている。この先訪れる冬を見るのがつらかった。
だから建物が軒を連ね、雪が積もろうと踏み荒らされて黒ずむ景色しか見えない場所を選んだのだ。
帰路の途中にも徐々に雪が積もっていく。
道行く人間は誰もかれも身を縮めて俯き加減だが、飲み屋から漏れ出る声はどれも陽気だった。
一方でグランツは靴底から伝わる雪の感触から逃げようと自然と早足になる。このままアパートに戻って眠れるだろうか。
声をかけられたのは、馴染みの店に行こうかと思案した時だった。
「よお兄ちゃん。今夜はあいにくの天気だな」
丁度酒場から男が出てきた。薄汚れた格好に帽子を被った、平民の男だ。男に対して奇妙な既視感を覚えたが、その正体は掴めないまま雪のように溶けた。
「……私は、嫌いではないですよ」
「そうかい。俺は嫌いかな。足の踏ん張りが利かなくて困る」
男は雪を踏みしめてグランツに近付いた。一見すれば何気ない調子だが、その歩みはさながら気配を殺す猫のようで、ただ人でない事に今更ながらに気付く。
警戒した時には遅かった。
少し柄の悪い、町に入れば溶け込んでしまうありふれた男が、靄を取り払ったように明確に意識に入り込む。打ち鳴らされ始めた警鐘が、心臓を激しく揺さぶった。
目の前の三日月型に裂けた唇からは、獣のように鋭い歯が覗いた。
「だから積もる前に用件を終らせちまおうと思うんだ」
どくりと、一際大きく心臓が跳ねた。唇を噛み、男を睨み付ける。
「アルバトラ公爵の差し金か」
「誰の差し金でもないさ。報酬分の仕事はするのが性分なもんでね。あんたのやろうとしている事が、結果として依頼主の邪魔になると判断しただけだ。仕事熱心だろう?」
喉が上下する。
果たしてこれは、アルバトラからの警告なのだろうか。
可能性として一番高いのはあの男だが、人を食った笑みは別の意図を含んでいるようにも思えた。
足を後ろに引くと同時に、男が詰め寄る。右拳が撃ち込まれたが紙一重でかわした。しかし息をつく間もなく、鳩尾に衝撃が入る。呼吸が一瞬止まった。
咳き込んで前屈みになると、次は頬を殴られた。飛ばされるように雪の上に倒れ込む。脳が強く揺れ、競り上がってくる咳をいくつも吐き出した。同時に雪に黒いものが落ちる。口元を拭えば、粘ついたものがべったりと手についた。
それでもグランツは、怖気づく事だけはなかった。男を真っ向から睨み付け、呼吸を整える。
辺りは暗く、光は表通りから微かに届く街灯の明かりのみ。微かな光を正面から受ける男の快楽を含んだ笑みが、グランツの目には酷く不気味に映った。
「いいねぇ、その目。あんたには執念を感じるよ。軽く痛めつけただけじゃあお願いは聞いてくれなさそうだ」
男が足を踏み出す。構えたところで相手の方が実力的にも上位である事は明白だ。ましてや既に怪我をした状態である。グランツには対抗出来る力などなく、腹に蹴りを入れられた。
男は蹴られた方向にそのまま倒れ込んだグランツの背にのしかかってくる。グランツの右手首をその節くれだった手で押さえつけた。神経が背中と、視界に映る手首に集中した。けらけらと笑う男の声に耳が反応する。
「最初はさぁ、脚や指の骨を折っとけばいいかと思ったんだけどよぉ」
ナイフの刃が、人差し指の上で軽く引かれた。これから何が起きるのか。否が応でも想像させられる。
一度離されたナイフが下ろされていく様を、グランツは目を逸らす事なく眺めていた。
さくりと、まるで果物でも切るようにそれは切り落とされる。
ひとつ、ふたつ。
絶叫がこだました。
激痛で周囲の様子さえ意識の端に追いやられても、転げ回るグランツを嘲笑う、不快な笑い声だけは耳にするりと入り込む。
「ご苦労様。ははっ。安心しろ。今回は脅すだけだ。人は呼んでやるから。死なれても悲しむだろうしねぇ」
まるで聞き分けの悪い子供にするように、男はグランツの頭を撫でた。
ああそうだ。と、男が愉悦を含んで声を落とす。
「しつこい男は嫌われるぜ。もう嫌われた後かもしれねぇけどな。次に会う事はないと祈っておくよ」
雪を踏みしめる音が遠ざかっていく。
叫ぶ気力さえ消え失せたグランツの目は、その後ろ姿さえ追えなかった。
雪の上に血が広がった。
視界は掠れ、建物の輪郭は霞の向こうだ。しかし雪の白と血の赤だけは、やけにはっきりと捉えていた。
夜に染まった今、本来こんなにも鮮明に映す事は出来ないにも拘わらず。
思い出すのは、雪に赤い花を添えるマシェリーの姿だった。
グランツは面影を追いかけて目を閉じる。
深い闇の中で無邪気に笑う彼女は、婚約解消前の幼い顔をしていた。




