10
空腹を覚えてエリシアは目を開く。
そこは硬く肌寒い地下ではなく、柔らかなベッドの上だった。
ぼんやりと天井を見つめていると、次第に腹部のじくじくとした痛みが気になってくる。
「起きたか」
耳朶を打つ安堵の混じりの声をたどって視線を動かした。ベッドの傍らにシルヴァストの姿があった。彼は椅子に腰かけ、消えてしまうのを恐れるように、エリシアの手を握っている。顔は少しやつれただろうか。少なくともいつもの自信過剰不遜満面とした様子は見られない。
エリシアはゆっくりとまばたいた。まだ頭が働かない。
「気分はどうだ」
「……お腹、痛い」
「当然だ。深く刺されたからな」
少し動いただけで走る痛みに、空腹など瞬く間に消え去った。
気を失う前にあった事が少しずつ蘇ってくる。
街に出ていたら男に突然襲われた。目を覚ました時には体を縛られ猿轡を施され、石敷きの冷たい部屋に転がされていた。そこにマシェリーが来て――
「お前を刺したのは、マシェリー・エヴァンス・エスキオラか?」
シルヴァストは一字一句はっきりとマシェリーの名を口にする。
混濁する記憶を探るよりも早く、ほぼ反射的にエリシアは否定していた。
「違う。……マシェリーは違う」
散らばった記憶が次第に整理されていく。
確かに彼女は、エリシアと違って縛られもせずにいた。猿轡を外そうとする手も止めた。しかし首を切られそうになったエリシアを、助けようとしたのだ。男に弾き飛ばされていた姿と制止を求める声は、切羽詰まった人間のものだった。彼女は確かに本気で男を止めようとしていたのだ。
「マシェリーがいなかったら、私、首を切られてた」
恐怖が競り上がる。
ゆっくりと腹を抉られる感覚が蘇り、体が震えだした。瞳孔が開き、記憶にある男のいかれた笑みに目が釘付けになる思いをする。もう目の前にはないのに。
「もういい。思い出すな」
シルヴァストはエリシアの目を覆った。きつく絡み合った恐怖をほぐすように、空いた手でゆっくりと頭を撫でてくる。
瞼から、頭皮から感じる人肌の温度が、ゆっくりと体に染み込み広がっていく。
少しずつ体の震えが止まっていった。浅かった呼吸を落ち着けて深呼吸をした。あの仄暗い笑みは未だ瞼の裏にちらつくけれど、それでも脇に寄せる事が出来た。
代わりに別の記憶引っ張り出す。それは月明かりを背負ったマシェリーだった。
後悔と、諦観と、悲しさを交えて仄かに浮かべられた彼女の笑み。
「あそこで、マシェリーと話をしたの。あれが、本当のマシェリーだったのかな」
エリシアと対峙する時のマシェリーは、いつも相手を見下す態度を取っていた。瞳を冷ややかに凍らせて、神経を逆撫でする嫌みの数々を並べ立てる。
それがマシェリーなのだと思っていた。混血嫌いで平民を下に見る、傲慢な少女なのだと。
一方で、正々堂々真正面から喧嘩を売る人間なのだとも思っていた。
常に背筋を伸ばし、エリシアと向かい合う。彼女は確かに敵ではあったけれど、それでもその凛とした姿は美しいと思った。
だからこそ、取り巻きを使って虐めを行い、教師を金品で買収するという卑怯な手に出た事に、言い得ない失望を覚えたのだ。
しかしエリシアが抱いていたマシェリー像と、地下室で見たマシェリーは、あまりにもかけ離れていた。
月明かりの中で見る彼女は、相手を虐げる意地の悪さとは無縁で、上品で、気高く、思わず見惚れてしまう程に美しかった。
廊下で見かけるたびについ目を奪われてしまう、マシェリーだったのだ。
「マシェリーは、本当はどんな人だったんだろう」
ちゃんと話してみれば、どちらが本当のマシェリーか分かったのだろうか。あの時の彼女には、常にエリシアに向けていた敵意も嫌悪もなかったように思う。
「私は人の話を全然聞かないって言ってた。もしかして私が聞かなかっただけで、何度も何かを伝えようとしていたのかな……」
口を塞がなければ人の話を聞かないのだと、彼女に思われていた。そしておそらくそうだっただろうと自覚する。
彼女はエリシアに問うた。
自分達と一体何が違うのかと。
口が自由だったのなら、即座に否定していた。
同じではない。間違っているのはあなただと。
聞く耳を一切持たなかったはずだ。自分が正しいと信じていたから。
今の今まで思い出す事もなかった、父の言葉が耳に蘇る。
―― 一方から見るのではなく、多方面から目を向けてよく考えなさい。そしたらあるいは、マシェリー嬢と仲良くなれる道が見えてくる事もあるかもしれない
自嘲する。
自分は確かに、一方向からばかりを凝視していた。
エリシアが自分が正しいと信じているように、純血主義者もまた自分が正しいと信じている。相手からお前は間違っているのだと言われても、エリシアは認めはしないだろう。そしてそれは相手も同じのはずだ。
それは丁度、あの時のように。
――あなたは純血主義を否定出来るほど、純血主義について理解がおありなの?
純血主義の事を理解していなかったし、する必要もないと考えていた。それよりもマシェリーが混血について知るべきだと思っていた。
相手の事も知ろうとせず、自分の事ばかり受け入れてもらおうとしていたのだ。
傲慢な考えだ。確かに自分は純血主義者や、階級を笠に着る貴族と何も変わらない。
「私が冷静に判断出来る人間だったら、か」
マシェリーはエリシアの方法では解決はしないと知っていた。
人の畑に突然乗り込んで、勝手に荒らしている状態。彼女は既に指摘していた。意味が分からないと考えもせず切り捨てたのは、エリシアだった。
まだ、間に合うだろうか。
彼女と仲良くなれる道はまだ、塞がってはいないだろうか。
「ねぇ。マシェリーはどうしたの?無事なの?」
シルヴァストは一瞬の逡巡の後に頷いた。
「ああ。怪我ひとつしていない」
「……そう」
安堵の吐息がこぼれる。
「マシェリーに会う事って出来る?」
始めの一歩は、やはりマシェリーと話す事からだ。
そうと決めたら体がうずきだした。思い立ったら即行動がエリシアである。それで失敗ばかりしているが、今回ばかりは早い方がいいはずだ。
起き上がろうとしたものの、シルヴァストが労わりながらも押し返す。
「今は休め」
「だけどマシェリーと話さないと」
「その状態では満足に人とは話せないだろ。第一今は夜中だ。話は夜が明けたらまずは俺が聞いてやる」
エリシアの中で渦巻く焦燥を抑え込むように、大きな手が再びエリシアの目に当てられた。
エリシアは渋々目を閉じる。始めこそ眠れないと文句を言ったものの、人肌の与える安心感に、単純にもうとうとと眠気を誘われる。元来エリシアはベッドに入れば三つ数えるまでに寝てしまうという寝つきの良さを誇る。その温かさに抗い続ける事は出来なかった。
「シルヴァー」
「何だ」
僅かに浮いた手をシルヴァストが取る。完全に安心しきったエリシアは、ほんのりと微笑んだ。
「もう少しだけ、そばにいて……」
エリシアの手を握るシルヴァストの手に力がこもる。
「ああ。気が済むまで傍にいてやる」
目に当てていた手を頭に滑らせて優しく撫で、前髪を直す。白銀の髪がろうそくの、温かく、それでいて寂しい明かりを映している。
小さな寝息が聞こえ始めた。手を頬に滑らせれば、彼女の頬はシルヴァストの手によって簡単に覆えてしまう。
「……悪かった。己の力を過信していた」
護れると、思っていたのだ。
エリシアの姿が消えた事を知らされた、あの瞬間まで。
シルヴァストがエリシアを発見した時に応急処置は施したが、既に大量の血液が外に流れていた。
彼女を救ったのはクインシード王立学校の校医だ。彼は異国へ医学留学をした経験があり、エリシアを救う手だてを知っていた。
輸血という、この国にはない治療方法だ。彼がいなかったらエリシアは目を覚ます事はなかっただろう。
この国は何もかもが遅れている。
国が直接管理している王都や港では比較的自由に職人も商人も動けている。しかし他の領地となるとそうはいかない。国を発展させるのに、貴族の自尊心が足枷となっているのだ。
貴族の意識改革をしなければならない。
第一王子を中心とした穏健派を、“銃”という他国の武器を見せる事で危機感を煽って黙らせた。長い筒に“火薬”詰め、鉛玉を用いて遠方の相手を攻撃する。その殺傷能力と有効範囲は高く広い。
シャリマ・ルノアールによって持ち込まれた、遠く離れた地で造られたものだ。まだ試作段階で大量生産には至っていないという話だが、いずれこの国にも渡ってくるだろう。
あるいは、それを携え攻め入ってくるかもしれない。
保守派も“銃”を見る事により揺らいだ。しかし山はどこまでいっても山でしかなかった。切り崩す事に時間をかけている暇はないのだ。
だからエリシアという火種を利用した。
静かな寝息を立てる少女の手を包み、額に当てた。
寝ている相手に届くわけもないけれど、もう一度、謝罪を口にする。
果たしてエリシアの誘拐にエスキオラ家が関わっているのだろうか。
死に物狂いで容疑を晴らそうと奔走している友人を思い、シルヴァストはまた深い息をついた。




