98、聖なる乙女と正義の天使①
学園の敷地の東端にある図書室に足を踏み入れ、アリアネルはきょろきょろと目的の書物を探す。
この”図書室”という部屋は魔王城には概念として存在しないものなので、食わず嫌いに近い感覚で、学園に入学した後あまり活用してこなかったのだが、改めて見回してみると、視界いっぱいに書物が並んでいる光景は、なかなか圧巻である。
一般クラスも特待クラスも利用するこの施設は、蔵書数も目を見張るほどで、目的の書物を探すだけでも一苦労だった。
「えっと……太陽祭……正天使……歴史書?学術書?……あ、童話として世界的に有名って言ってたよね。じゃあ、絵本とか、児童書のところから探してみようかな……」
正直、マナリーアに聞いた話は未だに信じ難いと思っている。絵本や児童書ともなれば、子供受けするようにと配慮された結果、史実よりも創作の部分が多く含まれている可能性も高いだろう。
だが、何せアリアネルは今日初めてこの昔話を聞いたのだ。
(きっと、史実がどんなものだったかは、パパに聞けばわかるはず……初代正天使の時代ってことは、二代目を造る前なんだから、パパはまだ命天使として天界にいた頃だよね。ってことは、ゼルに聞いても知らない可能性があるから、やっぱり機会を窺って、史実についてはパパに聞こう)
きっと、造物主が世界を創造したときの話を聞かせてくれた時のように、世の中の誰も知らない真実を聞かせてくれるはずだ。
だとすれば、アリアネルが今、人間界の図書室で調べるべきは『人間界では史実をどのように解釈され、認識されているのか』を知り、情報として魔界に持ち帰ることだ。
そうすれば魔王とゼルカヴィアが史実との相違点を洗い出し、どうしてそんな齟齬が現れているのかを議論することになるだろう。
アリアネルに求められているのは、こうした情報収集なのだから、まずはどんな階級の人間でも、幼少期に一度は手に取るであろう絵本や児童書から目を通すのは理にかなっているはずだ。
絵本や児童書があるコーナーに足を向けると、ずらっと並んだ蔵書の半分ほどが、見覚えのない絵本だった。
「そっか。ゼルは、天使が出てくる絵本は買ってくれなかったからなぁ……分別がつくまでは、っていう配慮はわかるんだけど……」
幼少期、とにかく絵本が大好きだったという朧げな記憶がある。買ってもらった本に関しては、文言を一字一句全て暗記するくらい何度も読み返していた。
(いつもお仕事で忙しいゼルを、独り占めできる一番の機会だったから――)
ふ、当時を懐かしみながら小さな苦笑を刻む。
幼い頃、アリアネルの世界はゼルカヴィアの執務室を兼ねたあの小さな部屋だけだった。
初めての経験を前に、必死に試行錯誤をしながら不器用にたくさんの愛情を注いでくれたゼルカヴィアのことが、当時から大好きだった。
育児をしながら仕事をするのは大変だったろうと今ならわかるが、当時はそんなことがわかるはずもない。
いつも心の片隅に寂しさを抱え、子供ながらにそれを表に出してはいけないと察して生きていた。
しかし、当時、そのいかんともしがたい心の片隅に陣取る永遠の寂寥を埋めてくれるのもまた、ゼルカヴィアだけだった。
どんなに忙しくても、一日の終わりには必ず膝の上にアリアネルを乗せて、ゼルカヴィアが人間界の理解しがたい御伽噺をたどたどしく読み聞かせてくれるわずかな時間は、アリアネルにとって、何物にも変え難い貴重な時間だったのだ。
そうして大好きな彼の膝の上で大好きな絵本を読んでもらいながら微睡み、一緒の布団に入って、”大好き”の表現だと教えてくれた口づけと共に「おやすみ」を言ってもらえる瞬間が、アリアネルの“幸せ”の原体験であり、“無償の愛”を注いでもらえた実体験でもある。
「そう考えると、確かに、その頃はゼルと結婚する――とか言っててもおかしくはない、かも……?」
先日聞いたばかりの、全く記憶にない事象を思い出して、かぁ、と頬がほんのり熱を持つ。
その当時、結婚というものが、世界で一番大好きな人と“家族”になるための約束なのだと教えられては、その相手としてゼルカヴィアを選んだとしても何ら不思議ではない。
「えぇっと……聖なる乙女、聖なる乙女……」
羞恥を誤魔化すように口の中で呟きながら、見たことがない絵本の背表紙に目を走らせて、目的の本を探す。
「あ、あった……!」
程なくして、それらしき絵本を見つけて、本棚からスッと一冊を抜き取る。
表題には、『聖なる乙女と正義の天使』と書かれていた。
キョロキョロと辺りを見回すと、周辺にも似たような題名がつけられたものが数冊見つかる。
アリアネルは、それらの絵本の中で最も分厚い一冊を手に司書の元へと赴くと、貸し出しの手続きをしてから、図書室の隅へと移動してそっと表紙を開いた。
可愛らしい挿絵がふんだんに掲載されているその絵本は、今まで読んだおとぎ話と同じようなお決まりの書き出しで、不思議な物語を紡ぎ始めた――




