96、太陽祭②
学園の敷地中に響き渡るような高らかな鐘の音が止むと、ガヤガヤと教室中が騒がしくなる。長い長い一日の終わりを告げる鐘は、どれほど聖気を生みやすい善良な魂の持ち主ばかりが集うこの特待クラスであっても、心から歓迎されうるものらしい。
「あれ?アリィ、帰らないの?」
いつもなら、学生たちに取り囲まれるのを嫌って、さっさと迎えに来たミヴァと共に教室を後にするはずのアリアネルが、珍しく席に座ったままなのを見つけ、マナリーアが声をかける。
「うん。お昼にゼルから、今日は仕事が立て込んでるから遅くなるって伝言があったの。せっかくだし、明日の予習でもしておこうかな、って」
「全く……本当に真面目よねぇ。これぞ正義を司る天使様の加護付き!って感じ。お祭りに浮かれて、授業には関係ない魔法を一生懸命練習してる連中に爪の垢を煎じて飲ませてやりたいわ」
教本を開いて微笑む少女に、呆れた声で呟く。
これで、瘴気耐性さえあれば、シグルトなど比にならないほどの勇者になることが出来ただろうに。
「でもアンタ、座学もすごく優秀じゃない。わざわざ予習するようなこともないでしょ」
「うぅん……でも、私の知識って偏ってるし、変な思い込みも多いから、教本をじっくり読みこんで学園の知識をきちんと仕入れておきたいの」
「ふぅん……ま、それは座学においてだけじゃなさそうだけどね」
軽く笑って言う学友の言葉がわからず、きょとん、と首をかしげると、マナリーアは苦笑してからつん、と少女の小さな額をつつく。
「一般常識も、知識がだいぶ偏ってるよねってこと」
「あぁ……うん。それは、本当にそうだと思う。もし、変なことがあったらその都度教えてほしいな」
つつかれた額をさすりながら、困ったように友人に頼む。
何せ、アリアネルの”常識”といえば、そのほとんどが”魔界の常識”である。
アリアネルを育てるという命を負ったゼルカヴィアが十年前から一生懸命人間界に足を運んでは日々の生活を見て回ったりたくさんの書物を読みこんだりして、必死に知識を仕入れて教えてくれたのだが、ゼルカヴィアとて本業は魔王の右腕だ。そもそもが多忙な毎日を過ごしている中で、アリアネルの教育だけに没頭していればいいわけでもなく、異文化理解という難解な事象に対して万全とは言い難いだろう。
どうしても、こうして人間たちの中に紛れて、共に過ごすことで初めて学ぶことは多い。
無知は恥ではない。知らないことがあれば、知る努力をすればいいのだ。
そう考えて、アリアネルは何でも素直にマナリーアやシグルトにわからないことを尋ねるようにしていた。
「そっか。……じゃあ、一応聞くけど――太陽祭のことは、どれくらい知ってるの?」
「え?……夏にあるお祭り、だよね?あと半月後くらいにある……」
急な話題転換に戸惑いながら、アリアネルは昔読んだ人間界の文化に関する書物を思い出す。
そもそも、魔界には『祭り』という文化がない。それがどういうものなのかが理解できないアリアネルは、文献に頼るしかなかったのだが――たしか、その『祭り』という文化がどういうものかを記した書物の中に、代表的な祭りの一例として表記があったはずだった。
「えっと、確か……そもそもお祭りっていうのは、人間に力を貸してくれる天使に感謝したり、これからも力を貸してくださいってお願いしたり、過去に偉業を成した人物を讃えて感謝したりする、行事……なん、だよね……?」
「え、まさかそこから……?いや、まぁ、知識としては合ってるけど……」
ただのイベント事に近しい祭事も増えてきている昨今、そんな仰々しい定義をしたことはなくて、マナリーアは一瞬困惑する。
「太陽祭は、確か――えぇと、めちゃくちゃ昔に、正天使が加護を与えた人がいて……それまで、どんなに偉い神官でも、声くらいしか聴けなくて、殆ど伝説上の存在に近かった正天使が、初めてちゃんと顕現したのを見たのが、その加護を貰った人なんだっけ?ある日、天使が王都の神殿に舞い降りて、その神々しさに目が潰れそうになったとかなんとか……その、正天使が初めて王都に顕現した日を祝うお祭り、って聞いてたんだけど」
「あぁ……うぅん……まさかとは思ってたけど、本当によくわかってなかったのね」
マナリーアは頭痛がしそうな頭を抱えて、ふるふると首を横に振る。
アリアネルが滔々と語った知識は、大枠では間違っていない。だが、正確でもない。
(たぶん、顕現した正天使っていうのは、パパがいう所の『初代』の正天使だよね。パパそっくりの性格で造られたっていう……人間界には、命天使の存在が伝わっていないせいか、初代とか二代目っていう考えがあるのかどうかがよくわからないから、迂闊なことは言えないけど……)
単に長髪をバッサリと切っただけで、太陽祭の元となった正天使と今の歴代勇者の前に顕現する正天使は同一の天使である――という認識がされている可能性もある。
迂闊な発言で襤褸を出さぬよう細心の注意を払いながら、アリアネルはマナリーアの解説を期待して待った。
「確かに、それより前には人間界に直接的に関与してこなかった高潔な正天使様が、初めて大勢の人間の前に現れた歴史的瞬間だったし、それを祝って、偉大なる正天使様と、そんな正天使様の寵愛をもらった人間を称える――という側面から始まった祭りだったんだろうとは思うんだけど」
マナリーアはアリアネルの無知を傷つけないように言葉を選びながら、ゆっくりと解説を続ける。
「今は、そんな仰々しい感じじゃなくて――だって、その出来事だって、もう何千年前の話よってくらい昔の話だし――もっとライトな感じで、皆が楽しむお祭りになってるわよ」
「え?……そ、そうなの……?」
ぱちぱち、と竜胆の瞳が驚きに見開かれる。
マナリーアは苦笑しながら、この瞳と同じ色の花を調達するために、必死に魔法の練習に励んでいる同級生たちを思い浮かべた。
どうやらシグルトと懸念した通り、報われない生徒が多発するところだったらしい。
「あのね。太陽祭の日は、別名『聖なる乙女の日』って呼ばれてて」
「せ……聖なる……?」
急に胡散臭いワードが出て来て、疑問符を飛ばすアリアネルに、マナリーアは堪え切れずに声を上げて笑う。
今までは当たり前すぎて疑問に思ったことなど無かったが、言われてみれば確かに、あまり素敵なネーミングセンスではないかもしれない。
「そう。正天使様が初めて加護を与えたその人間が、女だったことに由来してるの。本当に心が綺麗な女性だったらしくて、さすがあの高潔な正天使様が思わず加護を与えてしまうくらいだって伝わってるわ。だから、その女の人のことを『聖なる乙女』って後世では呼んでて」
「へ、へぇ……」
「生い立ちが不遇だった彼女を想って、正天使様は加護を与えた後、十歳くらいになるまで大事に保護していたらしいんだけど」
「ほっ……保護!!!?」
余りに驚きすぎて、アリアネル声がひっくり返る。
保護、とはどういうことだろう。まさか、育成したとでもいうのか。
――天使が、人間を――?
アリアネルは怪訝な顔をしてマナリーアを見るが、若草色の瞳をした少女は、困ったように笑うだけだ。
どうやら、これは人間界ではおかしな現象だと捉えられているわけではないらしい。
マナリーアの瞳の中に、こんなことも知らないのか、と困惑する色を発見して、アリアネルはそれ以上の追及をいったん控えた。
「さすがに、いつまでも天使様の元で暮らすわけにもいかないでしょう?人間界に戻って、人間たちの社会の中で生きる方が幸せだろう――って言って、神殿に送り届けてくださったのよ。その日が、『太陽祭』と呼ばれるようになった日ってこと」
「そ……そう、なんだ……」
やはり、どうしても俄かには信じられない。
(う、うぅん……私も、魔族と魔王に育てられてるわけだから、なくはない……の、かな……?いやでも、命天使だったパパでさえ、『人間は愚かで脆弱』って言い切って見下してるのに……パパとそっくりな性格に作られたっていう初代正天使が、そんなことする……かなぁ……?)
余計な事前知識が邪魔をして、素直にマナリーアの解説が頭に入って来ない。
難しい顔をするアリアネルに、マナリーアは軽く笑ってから続きを語る。
「でも、『聖なる乙女』は正天使様を本当に愛していたらしくて」
「あ……愛……!?」
もっととんでもないワードが飛び出して、アリアネルはもう一度驚愕する。
天使と人間の間で、”愛”が育まれることなど、あるはずがないと思っていた。
「別れ際、離れたくない、って泣く乙女を、正天使様は困ったように宥めて……『太陽の祝福があれば、いつか必ず迎えに来る。君がどうしてもというのなら、この枝に再会を祈ってくれ』って言って、乙女の瞳と同じ色の実をつける”太陽の樹”の枝を渡して去っていった、っていう伝承があるのよ」
「ええええっ!!?」
「だから、お祭りが『太陽祭』っていう名前なのよ。それに、プロポーズをするときに、太陽の樹の枝を渡すのは一般的でしょ?」
「そ、そうなんだ……!?」
「え、そこから?」
この国ではあまりに当たり前すぎるプロポーズの光景まで初耳だったらしいアリアネルに、マナリーアは驚愕した。




