94、【断章】色欲を司る魔族
世界が漆黒の帷に包まれ、城の中にも寝静まる魔族の寝息が響き始める時分。
ゼルカヴィアは城内を見回り終えて、異常がないことを確認した後、本日の仕事を終えて退勤する報告のため、魔王の私室を訪れていた。
「……報告は以上です。何か、他に御用命はありますでしょうか」
「いや、ない。下がっていい」
「ありがとうございます」
もう何千年も、毎日欠かさず続けられているルーティンを終えて、ゼルカヴィアは一礼した後退室しようと踵を返し――ふと、気になっていたことを思い出して、上司を振り返った。
「なんだ?」
「そういえば、ずっと気になっていたことをお聞きしてもよろしいでしょうか」
本日の、茶番にも似た父娘のすれ違いと仲直りの現場を思い描きながら、ゼルカヴィアはその端正な顔にかかっている眼鏡を軽く押し上げる。
人生経験が乏しい少女は、こともあろうに中級魔族イアスと魔王が恋仲のような関係で愛し合っているなどという馬鹿げた誤解をしてしまったわけだが――そもそも、大前提として、ずっと疑問に思っていたこと。
「本日の夕方の謁見――イアスではなく、直属の上級魔族ルイスを呼ばなかったのは、何故なのでしょうか」
「…………」
ゼルカヴィアの素朴な質問を聞いた途端、魔王は鼻の頭に皺を寄せて、なんとも言えない顔をした。
まるで、痛いところを突かれた、とでも言いたげだ。
「そもそも、イアスの功績は、あの地方を治めるルイスの命令だった部分が大きいでしょう。勿論、中級という未熟な存在でありながら、飢えた配下の下級魔族を無駄に死なせることなく、己自身も狂うことなく、全て養い切った手腕は褒めてしかるべきですが……そもそもの話で言えば、ルイスの持ち場である人間界に高位天使の加護を持つ者が生まれ、それを保護する目的で聖騎士たちがやって来て、強い結界を張って地域全体に今までになく濃い聖気が充満したために起きた事件だったはず。それを何とかするのがルイスの仕事であり、イアスの功績はルイスの打ち手の一つでしかなかったと認識していました」
「……そうだな」
「であれば、褒美を取らせるべきはそもそもルイスではないでしょうか。ルイスはあの地方における、人間界で言うところの”領主”のような存在です。領内で起きた問題をうまく収めた褒美を、まずは領主たるルイスに与えてその采配を褒めたたえてから、その臣下であり問題解決に大きく寄与したイアスにも褒美を――というのなら、わかるのですが」
ゼルカヴィアは、今日の謁見者リストを脳裏に思い浮かべつつ、首をかしげながら疑問を口にする。
今日のリストには、最初からルイスの名前が入っていなかった。ということは、本来ルイスが訪れるはずだったところを何らかの事情で本人が来られなくなったために代理でイアスを寄こしたわけではあるまい。
今日のイアスの謁見の目的は、事態の収拾までの一連の流れを報告することと、己の領地への褒美をもらうことだったはずだ。
本来、ルイスがすべきその報告をイアスが代理で行い、領地への褒美を受け取り――それとは別にイアス個人の褒美もねだったことで、本日の面倒な出来事が起きたと理解している。
ルイスは、男型の魔族だ。
そもそも、イアスの上司たるルイスが来ていれば、今日のような事態は起きなかっただろうに――というのは、ゼルカヴィアでなくても思い至る当然の帰結だろう。
全能たる造物主に手ずから造られた魔王が、その発想に至らなかったとは到底思えない。
案の定、ゼルカヴィアの指摘に、魔王は顔を顰めて、面倒なことを突っ込まれた――という顔をして黙ってから、やがて、観念したようにゆっくりと口を開いた。
「……ルイスは」
「はい」
「あの男を城に呼ぶことで……より面倒なことを引き起こすかもしれんと思ったから、来るなと告げた」
「…………はい?」
ゼルカヴィアは、再び眼鏡を押し上げながら、間抜けな声で聞き返す。
脳裏に浮かぶのは、上級魔族ルイスの特徴。
女を誑し込むために造られたのではと思うくらいに、他の魔族と比べても整った格別に甘いマスク。右目の下にある泣き黒子も、いつも寛げられている胸元から覗く鍛えられた大胸筋も、束ねられもせず長く伸ばされた艶やかな髪も――全て、むせ返るような色香を発するためにあるのではと思える特徴ばかりだ。
人間界に降りれば、流し目一つで女がとろんとした目でしな垂れかかってくるだろうその軽薄な外見にそぐわず、実は頭の回転が誰よりも早く、狡猾で、とても魔族らしい性格をしているというのは、古参の魔族であれば常識だ。
ルイスは、数千年を生きる古参魔族の一人である。分別もあるその魔族が、今更魔王城に来て、何か魔王の手を煩わせるような面倒ごとを引き起こすとは思えない。
ゼルカヴィアが首をひねっていると、魔王は言いにくそうに口を引き結んだあと、ゆっくりと苦々しい声を紡ぎ出した。
「あれは――女の色欲を司る魔族だ」
「……はい。そうですね。重々承知しています」
だからこそ、イアスの上官も任せられている。
今更過ぎる当たり前の事実を口にした魔王に、ゼルカヴィアは眉根を寄せて首を傾げた。
「そしてアレは……魔族の中でも一、二を争うほどに残虐な性格に造った個体だ」
「あぁ……まぁ、そうですね。ルイスが本気の狩りをするときは、同族とはいえドン引きする魔族も多いですから」
ゼルカヴィアは、人間界に降りたときのルイスの所業を思い出しながら苦笑する。
人間の女を誑かし、色欲に紐づく瘴気を摂取することに長けた魔族であるルイスは、魔王が言う通り、食事において常人には理解しがたい残虐な嗜好性を持っている。
人間と直接性的な交わりをもって瘴気を貪るというのは、イアスと同様だが、彼女と大きく異なることがある。
それが――性行為の結果、人間の女を孕ませることが出来る、ということだ。
天界と魔界に生きる存在の中では、どんな形であれ命を生むと言う行為は命天使の力を持つ魔王にしか許されていない。
しかし、魔王はルイスを造った時、彼に『人間との間に子を成す』という命の創造に関しての許可を与え――そして、万が一にも決してそんな異端な存在を世に生み出さないために、ルイスに類まれなる残虐な嗜好性を付与した。
つまり――
「人間の男のふりをして近づき、子を成した後、自分が魔族と明かして女を絶望させ――その後、腹の中の子供ごと母親を殺すときの本当に愉しそうな笑顔は、正直、私にも理解が及びません」
ゼルカヴィアは、ため息を吐きながら頭を振る。
愛する男との子供を身籠った喜びの絶頂から一転して、それが許されぬ禁忌の命だと知ったときの女の絶望から生まれる瘴気は、確かに色欲に溺れている女から漂う瘴気の比ではない旨さだろう。
腹に息づく禁忌の子供をどうにかして堕胎したいと思う母親もいれば、どんな形であれ己の腹に宿ってしまった命なのだからと産み落とす覚悟を決める母親もいる。
そんな情緒不安定になっている母親から、搾れるだけ瘴気を絞った後――腹に宿った子供を殺し、母親も殺してしまう。
それも、彼の性格を象徴するような、筆舌に尽くしがたい残酷な手法で。
女と赤子の血だまりの中で愉悦の笑みを漏らしながら恍惚とする美貌の魔族は、いくら同胞と言われても、背筋が寒くなるのは確かだ。
「それが、ルイスの『役割』だ。そこには善も悪もない。その残虐な行為に快楽を覚えるように造ったからこそ、魔族と人間の混血などという存在を生むことなく、ただの”食事”でことが済んでいるのだ。あれは、子供と母親を殺すことを何よりの喜びと感じるように造っている。……今更、その性質を変えようとも思わん。変える必要もないと思っている」
「まぁ、性格――性癖?――異常者であることは事実ですが、それ以外のことに関しては、おおむね優秀な魔族ですしね」
ゼルカヴィアは同意しながら、魔王が言いたいことを理解しかねて、再び首をひねる。
魔王の言う通り、ルイスがそういう存在であることは周知の事実であり、そのことは別に問題ではない。世の中を正常に回すうえで、そういう役割を持った魔族がいてもおかしくはないだろう。
それなのに――どうして魔王は、ルイスを城に呼ばなかったのか。
「……ルイスは、人間の女を誑かすことに長けている。それが食事の元となるのだから、いうなれば無類の女好きと言っても過言ではない」
「はぁ。……まぁ、色欲の魔族ですから、そうでしょうね」
「その気になれば、視線一つで、大概の女を堕とすことが出来る。固有魔法を使えば、人間の意思など関係なく、女を発情させて魅了することが可能だ」
「ほう。ルイスの固有魔法はそんな効果があるのですか。興味が無さ過ぎて、初めて知りました」
数百年前に、親子を殺した血だまりの中で高笑いをしている現場を見てしまったゼルカヴィアは、てっきりルイスが狂ってしまったものだと思い込んだくらいだった。それくらいの異常な光景を”日常”として送る性格異端者とは、なるべく距離を置いていたいと思い、ゼルカヴィアの方から積極的な接触を図ったことはない。
魔王は、額に手を当ててからげんなりと息を吐く。
「……万が一、城の中でアレと遭遇でもしたら、面倒だろう」
「――……はい……?」
ぽつり……と漏らされた言葉の意味が分からず、ゼルカヴィアは一拍遅れて聞き返した。
魔王は顔を上げないまま言葉を続ける。
「性別が女であれば、外見の美醜や年齢など殆ど気に留めないのがルイスだ。それよりも、どれだけ清廉な魂を持つ者を堕落させ絶望させるか――それに固執する」
「は、はぁ……」
「”神官”や”聖騎士”と呼ばれるような存在――天使の加護を幼少期に付けられたような、清い魂を持つ存在こそをターゲットにし、どうやって心と身体を堕として絶望の底へと叩き落すかを考えているような男だ」
「……はぁ……」
「そして、活きのいい獲物を見つけたときは、己の被るリスクなど考えないほどの悪食でもある。イアスと同様にな」
魔族には猛毒のはずの聖気を”スパイス”と言い切る女魔族と同様、濃密な聖気を纏う女に近づくリスクを負ってでもその後にある甘美な瘴気を貪ることを優先するルイスは、確かに悪食と言えるかもしれない。
「想像してみればわかる。……赤子の時点で正天使の加護を付けられるような魂の持ち主を見れば、たとえどんなリスクがあろうとも――俺やお前の存在すら無視して――毒牙に掛けることを厭わぬ異常者だろう、あの男は」
「――!」
「名前で縛れば、俺やお前の眼があるところでは何も出来んだろうが――あの魂の存在を知ってしまえば、城の魔族の眼を盗んで何をするかは想像もつかない。アレを秘密裏に己の領地へと拐かし、魔法をかけて前後不覚にして瘴気を貪ったとしても、俺はルイスであれば十分やりかねんと思っている」
「そ……それは……」
やっと、魔王が何を懸念していたのかに思い至って、ひくり、とゼルカヴィアの頬が引き攣る。
魔界では優秀な上級魔族も、人間の女を前にしたときの悪癖は、狂っているとしか言いようがない男なのだ。確かに、魔王が言う通り、何をしても驚かないくらい突拍子もないことをやってしまいそうな魔族ではある。
「確かに……ただでさえアリアネルは、魔族に対する警戒心が圧倒的に不足していますからね……ふいに城内で遭遇などしてしまえば、無垢な笑顔で挨拶をして、ルイスの興味をこれ以上なく惹きかねません」
舌なめずりをして、眩しい笑顔を振りまく幼女を虎視眈々と狙う恐ろしい上級魔族が容易に想像出来てしまって、ゼルカヴィアはぶるり、と背筋を震わせた。
「ルイスは、殊更残虐な嗜好性を持っている。あれほどの聖気を発する魂の持ち主であれば、拷問などという言葉すら生ぬるいほどの所業を与えかねん」
魔王はそれに思い至った時、初めて己が色欲の魔族に付与した性格を後悔したのだろう。
「たかが、百年程度ルイスを城に呼ばなくても、イアスをはじめとした配下の魔族に代理をさせれば事足りるだろう。今回は、それが裏目に出たかもしれんが――だからと言って、今後も、アレが城からいなくなるまでは、ルイスを城に呼ぶつもりはない」
「そ、そうですね……申し訳ございません。私も、同意見です」
アリアネルを特別扱いしていると認めたくない――そんな葛藤を抱えながら絞り出されたであろう魔王の言葉に、こくこく、とゼルカヴィアは何度も頷く。
(身体を穢されれば、正天使の加護を持っていても死後に眷属となることはなくなりますから、魔界の利にもなるのでは……などと今ここで指摘すれば、アリアネルが『役割』を果たす前にルイスに殺されてしまっては元も子もない――などと嘯くのでしょうが)
苦い顔で胸中で考えてから、息を吐く。
きっと、魔王も自分も、そんな綺麗事を本気で考えてはいない。
ルイスに拐かされた先で、拷問とともに強姦されて泣き叫び、助けを求めるアリアネルの姿を想像すれば、今からでも、ルイスにあと百年は決して己の領地から出るなと魔王に名前で縛って厳命してもらった方が良いのではないかとすら思える。
「そもそも、たとえそれが固有魔法の効果だったとしても、あの性癖破綻者の性欲お化けにアリアネルがトロンとした目をして浅ましく身体を摺り寄せる姿など、絶対に見たくありませんしね」
その瞬間、己の全てをかけて、あの色男を抹殺する自信がある。
魔王はコメントを控えたが、無言のため息がそのまま回答なのだろう。
どうやら今日の馬鹿馬鹿しい茶番は、魔王なりにアリアネルに配慮した結果起きてしまったことだったらしい。
疑問が解けたゼルカヴィアは、一つ苦笑してから、静かに魔王の私室を後にしたのだった。




