93、魔界の太陽⑤
優しく後ろから少女を抱きしめるように引き寄せて、ゼルカヴィアは笑顔で続けた。
「仕事の報酬としてねだられ、それが見合うと思えば、魔王様は、唇に口付けをすることは勿論、将来、膝の上に乗せることだって許してしまうかもしれません。どこまでも公平で公正な御方ですから、それが『許せる範疇』だと思えば、何のこだわりもなく与えてしまうでしょう」
「何を馬鹿な――」
「そんな非情な魔王様と違って、私は決してアリアネル以外の存在にそれを許したりしませんからね。約束です」
ちゅ……と音を立てて象牙色の髪に口付けると、少女は後ろの長身を振り仰いだ。
眼鏡の奥の深緑の瞳は、優しい光を宿して、いつだって少女だけを見つめている。
「健気でひたむきな貴女の”愛”に魔王様が応えてくれなくても――アリアネルを愛する者は、他にもいると言うことです。……私のことも、魔王様と同じくらい『大好き』なのでしょう?」
「う、うん……な、なんか恥ずかしいな」
甘い視線で笑いかけられ、もじっ……と手を弄る。ゼルカヴィアが言っている言葉は何も間違っていないが、どうしてくすぐったい気持ちになるのだろうか。
「では、何の問題もありませんね。……『大きくなったら結婚する』と憚らなかったのは、何も魔王様だけではありませんから」
「そ、それは覚えてないけど……でも……うん。ゼルのことも、パパと同じくらい、大好きだよ。世界で一番、大好き」
へへっと照れながら笑みを漏らすアリアネルの頭を撫でてから、チラリ、とゼルカヴィアは上司の顔を伺う。
「……と、いうことですので。アリアネルを膝の上に乗せる権利は、私がもらい受けます。魔王様は、今まで通り、公平に、公正に、振舞ってくだされば問題ありません」
真夏の青空のように清々しいほどの笑顔で言い切られ、魔王は渋面を刻んだ。
――完全に、意趣返しをされている。
イアスに序列をわきまえぬ無礼を許してしまったことか――アリアネルを傷つけて号泣させてしまったことか。
どちらに対してなのかはわからないが、確実に魔王に対しての意趣返しを測ろうとする側近に、魔王は深く嘆息をし――
「……人間」
「え?……っ、わ――!?」
照れた様子でゼルカヴィアの腕の中に納まりながら、いつものように陽だまりの笑みを浮かべていた少女の手を取り、己の方へと引き寄せる。
不意を突かれて驚いたアリアネルは、そのまま倒れ込むようにして魔王の胸に飛び込んだ。
「ぱ――パパ?」
「……お前は、人間だ。魔族ではない。天使でもない」
言いながら、魔王はひょいっと小柄な少女の身体を抱き上げる。
いつの間にか――初めてこの身を抱き上げたときからは、随分と重たくなったものだ。
「故に、俺たちが遵守する序列の外にある。それは、わかるな?」
「うん。……って、え……?」
抱き上げられたと思った矢先――魔王は、当然のような顔をして、少女を己の膝の上へと座らせた。
竜胆の瞳が驚きに見開かれ、至近距離で父と慕う相手を凝視する。
「つまり、お前がどんな無礼を働こうと、俺には関係がない」
「え?……え?え?」
「膝に乗り上げようが、うるさく纏わりついて来ようが、しつこく愛を説いて首に縋りつき、口付けを落とそうが」
「ぱ……パパ……?」
アリアネルが勝手に飛びつくのを逞しい腕で支えてくれるせいで、必然的に膝の上に乗り上げるような体勢になってしまう――というのが、いつもの流れだった。
間違っても、こうして魔王が自ら抱き上げ、膝の上へと導いたことなど、一度もない。
「だから――俺が、こんな無礼を許すのは、未来永劫、お前だけだ」
「――!」
ドキンッと心臓が大きく脈打つ。
目の前に、キラキラと光をはじき返すような黄金の長い睫毛と、澄んだ青空のような美しい瞳があった。
「人間に過ぎぬお前に、戦力など期待していない。魔族のように振舞うことも、期待しない。――所詮、人間だ。序列の外にいるお前に、分をわきまえた行動をしろなどと強制するつもりは毛頭ない」
「パパ……」
「お前が、城内の魔族たちにいたく気に入られたのは大きな誤算だった。……俺の忠臣すら誑かし、今やお前がしおらしく振舞えば、どいつもこいつも何があったのかと心配して仕事も手に就かぬほどになる」
(それは、魔王様も一緒ではありませんか……)
ゼルカヴィアは、口に出せば否定されるだろう言葉を飲み込んで、魔王の言葉を受け止める。
不器用な魔王が、彼なりに一生懸命、アリアネルと対話をしようと試みているのだ。今は、茶々を入れずに大人しく見守るべきだろう。
「下らんことで泣くな。お前が哀しみに暮れ、瘴気を纏えば、城中が陰鬱な空気になる。……この城を統べる主として命令する。お前はどんなときも、能天気に笑って、無駄に眩しい笑顔で周囲に光を振り撒いていろ」
「パパ……」
「そのためには、俺の膝の上に乗り、愛を告げることが必要なのだと嘯くなら、その無礼は許してやる。――わざわざ、ゼルカヴィアで代替する必要はない」
フン、と鼻を鳴らしてつまらなさそうに告げるのは、ゼルカヴィアへの意趣返しへの回答なのだろう。
魔王ともあろうものが、素直に家臣の挑発に煽られたというのが可笑しくて、ゼルカヴィアはクスリと笑みを漏らす。
「い、いいの……?パパ、嫌じゃない……?」
「構わん。お前が何を言ったところで、俺の在り方は変わらない。せいぜい、この陽の差さない陰鬱な魔界を明るく晴らすような振る舞いをしていろ」
この魔界は、暗くて、ジメジメとしていて、いつだってモノクロの色のない世界だった。
そんな世界に――少女がやって来て、色が付き始めたのだ。
己の仕事だけを淡々とこなすばかりだった魔族たちは、互いに仕事以外の交流を持つようになり、『娯楽』を持つようになって、次第に城には笑い声が絶えなくなった。
少女が人間界に赴くたびに『土産』と称して持ち帰ってくる花々は、魔界に似つかわしくない彩を与えた。
(”太陽”に似た存在を好ましく思うのは――俺が、元々、天使だからなのか)
『パパ』と嬉しそうに笑いながら毎日纏わりついてくる太陽のような少女を、どうしても邪険に出来ないのは、漆黒の虚無を嫌う造物主によって造られたせいなのかもしれない。
たとえ、そうだったとしても――
「パパ……あの、あのね……あのねっ……!」
「なんだ」
竜胆の瞳がキラキラと嬉しそうに輝き、白くふっくらとした幼子の頬が上気するのを見ながら、いつものように聞き返す。
次に少女が口にする言葉は、容易に想像がついていた。
「あのねっ――『大好き』だよ!」
「フン……くだらん」
眩い笑顔で言って、いつものように頬に口付けるのを許しながら、小さく鼻を鳴らす。
魔界に、やっと、太陽が戻ってきたようだった。




