92、魔界の太陽④
「……膝……?」
アリアネルの発言を受けて、ぎゅぅっと魔王の眉根が再び寄せられ、深い皺が刻まれる。
どうやら、心当たりが無いらしい。
「そのあたりは、私もぜひ詳しく聞かせていただきたいところですね」
ゼルカヴィアが追い打ちをかけるように笑顔で問い詰めるのを、チラリと魔王は視線だけで見る。
(なるほど……ゼルカヴィアがやたらと反抗的な態度を取っていたのは、これが理由だったか)
黒い微笑を湛える右腕は、その笑みの下に沸々と怒りの炎を燃やしているらしい。
この部屋に入って来てからの、誰よりも魔族らしく魔王を崇拝して生きているはずのゼルカヴィアらしくない態度に合点が行って、魔王は小さく嘆息した。
「知らん。何の話だ」
「何の話――って……!パパ、あの女の人を、お膝に乗せてたでしょう!?」
「だから、知らんと言っている」
「なっ――と、とぼけるにしたって、そんな――」
「何故、俺がそんな下らんことでとぼける必要がある」
相変わらず理解不能な思考回路をする生き物を前に、魔王は呆れた顔で呟く。そのまま、どうしてそんな妙な誤解が生まれているのかを、記憶を辿って状況を思い出しながら考察した。
「……イアスは」
「へ?」
「あの女魔族は、羽を持つ動物と掛け合わせることで、天使特有のスキルでもある空中浮遊と同じ能力を付与出来るのかを検証する目的で、五百年ほど昔に造った」
「う、うん……」
いきなり何の話だろう、と思いながらも、魔王の言葉に頷く。いつも彼が、魔法や天界についての知識を授けてくれるときと同じ顔をしていたからだ。
「結果、天使と全く同じように飛ぶことは不可能だったが、低空かつ短時間であれば問題なく浮遊が出来る個体となった」
「そ、そうなんだ……?」
話が見えない。首をかしげながらうなずき、先を促す。
魔王は、蒼い瞳を巡らせるようにして昼間の記憶を辿った。
「今日、褒美を与えることを俺が許可したとき――あいつは、一つ断りを入れた後、玉座に向かって飛んで移動してきた」
「た……確かに、ちょっと高い所にあるもんね……?」
拝謁をする魔族を見下ろすような位置になるよう、階段の上に設置されている謁見室の豪華な玉座を思い出しながら、アリアネルは頷く。
拝謁をする魔族側から玉座の上へと登ってくることを想定していない造りになっているそれは、空中を飛ぶことが出来る個体にとって、足で登るよりも浮遊して近づいた方が楽なのかもしれない。
「玉座が据えられた場に、いくら仕事で報いた後とはいえ、中級魔族ごときが足を踏み入れることは本来許されない。決して床に足を付けるなと――食事の最中、ずっと浮遊をし続ける苦労を考慮しても、何が何でも喰いたいというなら好きにしろ、と許可を出した。……所詮、中級魔族だ。長時間の浮遊に耐えられる魔力は無い。そこまで言われれば諦めるだろうと思ったのは確かだ」
「え……って、ことは……?」
「あいつの悪食を嘗めていた。結果として、それでもいいと言って俺の元まで飛んで来ると、勝手に食事を始めた。――その時のイアスの体勢がどうだったかなど、俺の位置からは見えん。重みなど一切感じなかったから、浮いていたのだろう。……膝の上に乗るなど、そんな不愉快なことをされれば、問答無用で即刻吹き飛ばす」
本当に不愉快そうに吐き捨てるように言った魔王に、アリアネルはぱちぱちと眼を瞬いた。
魔王が言っていることが本当なのだとしたら――
(膝の上に載ってるように見えただけで……膝の上で、浮いてただけ……?パパは、チューされてる状態だったから、魔族がどんな体勢でいるかまで見えてなくて、だから注意もしなかった……?)
「じゃあ……本当に……あの女の人のことは、『大好き』じゃ、ないの……?」
「くどい。そもそも、俺は万物に対してそんな感情を抱くことはない。魔界でも、天界でも、序列は絶対だ。仮に配下の者にどんな感情を向けられたとしても、俺がそれに対して便宜を図り何かを取り計らうことはない。あれは、仕事の報酬として認めた食事だ。……美味な瘴気を半永久的に得るために人間を一人堕落させて魔界で飼ってもいいか、と言われて許可を出すのと変わらん。イアスが女だろうが男だろうが、中級だろうが上級だろうが、判断の軸は変わらない。それが分不相応だと思えば突っぱねるし、許せる範疇だと思えば許可する」
「じゃあ――」
「体勢については、どうせ気づかれぬだろうと思って、イアスが勝手に己が最も興奮して食事が可能な体勢を取っていたのだろう。お前が言うことが事実なら、後ほどしかるべき処罰を与える」
それでいいだろう、と言うように最後にゼルカヴィアに視線を投げる。
忠実な右腕の反抗的な態度は、序列を無視するような行いを許したばかりか、それに対しての処罰を何も考えていないことに対してだったらしい。だが、状況を理解すれば、当然の処置をすべきだ。
魔王が命じると、こくり、と一つ頷いた後、ゼルカヴィアは口を開いた。
「いくら床に一切接するなという条件を付けたとしても、神聖な玉座に中級魔族ごときが上がることを許すこと自体、私には全く意味が分かりませんが。――しかるべき処罰を、ということでしたら承りました」
慇懃無礼な口調で恭しく拝命した黒ずくめの青年を前に、魔王は鼻の頭に皺を寄せる。この右腕の小言は、存外耳が痛いものが多い。
正直に言えば、魔王としても、口腔内の瘴気を貪られるのは不快だった――というのが本音だ。
だが、仕事の褒美としてそれを要求されてしまったため、どうにか理由を付けて断ろうとしたところ、上手くいかなかった、という間抜けな事態となってしまった。
それを責められれば、素直に反省せざるを得ないだろう。
「キスだの、膝に乗るだの……そんな、あるはずもないことを発想する妄想力の逞しさにはいっそ感服する」
「だっ、だって――!だって……」
「唇ではなく頬という制約はあれど、普段、アリアネルがそれをすることは許されていましたからね。他の女魔族が許されることだってあるのでは――と勘違いしてしまったのでしょう」
にこにこ、とゼルカヴィアが笑顔で毒を吐くと、ピクリと魔王の頬が軽く引き攣る。
「……それは――」
「あぁ、大丈夫です。そのことについては、既に解決済みですから。――ねぇ、アリアネル?」




