91、魔界の太陽③
いつだって、陽の差さない魔界に現れた、太陽のような子供だった。
薄暗闇に支配され、草木も生えぬこの不毛な世界で、眩しいくらいに周囲を明るく照らす存在だった。
聖気を光の輝きとして視認出来なくなって久しいと言うのに――そんな能力が無くても眩しさに目を細めたくなるくらいに、鬱陶しいほどの存在感を示す子供だったのだ。
「あの……き、来ました……」
だが、今の少女は、どうだ。
不安に声を震わせ、赤く腫れた瞳をせわしなく彷徨わせ、魔王に近寄ることすら躊躇いながら、似合わない敬語をたどたどしく操る。
その姿は太陽とは程遠く――まるで、魔界すべてが、すっぽりと寒く冷たい暗闇に覆われてしまったかのような錯覚を覚えるではないか。
「フン……近くで見ると、より一層不細工だな」
「ぅ……ごめん、なさい……」
真っ赤に充血した瞳を見られぬよう、アリアネルは腕で目元を隠しながら、消え入りそうな声で謝罪する。
ゼルカヴィアにも同じことを言われたはずなのに、魔王に言われると、今すぐこの場から逃げ出したくなってしまうから不思議だ。
びくつくように震えるアリアネルに、魔王はつまらない顔をした後、その長い腕を伸ばし、少女の目元を隠している腕を掴んで引き寄せた。
「えっ……!?」
「じっとしていろ」
逞しい腕に導かれるようにつんのめった先で、大きな掌がアリアネルの視界を覆った。
ヴン……と低い音が響いたと思ったとたん、じんわりと目元が温まるような感覚があり、アリアネルは声もなく混乱する。
「……これで、少しはマシになっただろう」
「ぁ――」
フン、と鼻を鳴らしながら解放されて、驚きのあまりぱちぱちと何度も目を瞬く。先ほどまで開きにくいと思っていた瞼が、今は嘘のように視界をクリアにしてくれていた。
治癒の魔法だろうか。――どうやら、魔王が、腫れた瞼を治してくれたらしい。
「それで?……お前が、そんな致命的に似合わない顔をしていた理由は何だ」
「……ぇ……?」
「毎日毎日、何度あしらおうと五月蠅いくらいに近寄ってきては、何が面白いのか知らんが笑顔を呆れるほどに振り撒いて、礼もわきまえず気安く聞いてもいないことを滔々と語っていただろう」
「なっ……」
心当たりがあり過ぎて、思わずアリアネルは言葉に詰まる。
「それがどうして、今日は急に、慣れない振る舞いをする?」
「な――そ、それは――」
「誰が見てもわかる泣き晴らした瞳。一瞬たりとも笑わない頬。手も届かぬような遠い距離で、聞いたこともない敬語をたどたどしく操る声。――くだらん。ゼルカヴィアの入れ知恵か?」
「えっ!?」
「分をわきまえて、これからは城の魔族のように振舞えと、そう命じられたか」
フン、と鼻を鳴らして面白くなさそうに尋ねる魔王に、アリアネルは慌てて首を横に振った。
「ち、ちち違っ……!ゼルは、何も悪くない!何も言われてないよ!」
「ならば、なぜ、そんな振る舞いをする」
理解不能なものを見るようにして、ぎゅっと魔王の眉根が寄った。
「俺に、造物主のものとは異なる”愛”とやらを教えるのではなかったのか」
「っ、それは――!」
「それとも、飽きたのか。所詮は無駄なことだと悟ったか?」
「ちが――違う!」
小馬鹿にしたように鼻を鳴らす魔王の言葉を、アリアネルは必死で否定した。
「私は今も、パパのこと、『大好き』だよ!たとえパパが、私を好きになってくれなくても――私じゃない他の誰かのことが『大好き』でも、私はずっと、ずっと、パパが『大好き』!」
「……ならば、どうして今日はそんな振る舞いをしている」
「それは――だ、だって――」
きゅっとアリアネルの眉根が寄って、竜胆の瞳が自然に潤む。
脳裏に焼き付くようにして離れないのは、色香を纏った肢体をくねらせ、魔王にのしかかるようにして唇を重ねていた女魔族の背中だ。
「パパには――私がいなくても『大好き』を伝えてくれる人がいる、から……」
「……?」
「パパは、私よりも、その人からの『大好き』の方が、受け取りやすそうだったから――」
どんどんと声が小さくなっていき、最後は掠れるような虫の声になった。
ゼルカヴィアは、女魔族とアリアネルは、ただ一方的に魔王への”愛”を伝えるという存在でしかないという点で同じだと言っていた。
確かに、謁見室の魔王の詰まらなさそうな瞳を思い返せば、女魔族への特別な情があるようには感じられなかった。
だが、それでも――アリアネルと明確に違う点は、ある。
(パパは……あの女の人とキスするの、嫌じゃないんだよね……)
ぎゅっと自分で自分の手を握り込み、竜胆の瞳を伏せる。長い睫毛が、白い頬に影を落とした。
アリアネルがどれだけ魔王に口付けを試みようと、きっと唇にそれをすることは許してもらえないだろう。
それも、幻のように、触れるようにサッと口付ける少女のものとは違う――あんなにも濃厚で長い口付けなど、決して。
それはつまり、アリアネルからの『大好き』よりも、あの女魔族からの『大好き』の方が、魔王は受け入れるのに抵抗がないということではないのだろうか。
だとしたら、無力で脆弱な人間に過ぎないアリアネルは――せめて、魔王の役に立つ存在であり続けなければ、傍にいる資格すらないのではないか。
『大好き』だと思ったときに『大好き』を伝えるために――いつだって傍に置いてもらうために、せめて、魔王が望む『役割』くらい果たせなければ――
「魔王様。……何か、言いたいことがあるなら、おっしゃっていただかないと。そんな顔で黙っていらっしゃるばかりでは、何も伝わりませんよ?」
後ろからゼルカヴィアの声が飛んで、ハッと顔を上げる。
(――ぇ……?)
飛び込んできた光景に、ぱちぱち、とアリアネルは目を瞬く。
てっきりいつものように冷たい無表情のまま、厳しい蒼い瞳が自分を射抜いていると思い込んでいたが――魔王は、眉間にこれ以上なく皺を寄せて、不可解の極み、と言った表情で真剣に何かを考えているようだった。
「パパ……?」
「お前が言いたいことが何一つ理解出来ん。愚かな種族であることは理解しているが、それを差し引いても、全く以て理解不能だ。何から問うべきか、それすら皆目見当がつかないくらいに」
「ぇ……」
造物主という全知全能の存在と対等に会話が叶うように、と造られた頭脳をもってしても理解不能な事象というのは酷く珍しく、魔王は怪訝な顔でじぃっとアリアネルを観察していた。
「だっ……だって、パパ、キスしてたでしょ!?」
「……キス?」
怪訝な顔で問い返され、かっと頬が紅くなる。
いくらアリアネルが子供だからと言っても、そのとぼけ方はないのではないか。
「キスだよ!ちゅー!チューしてた!魔族の女の人と、唇に、チューしてた!」
憤慨したように主張するアリアネルの顔を見て、魔王はやっと思い至ったのだろう。
そのまま、アリアネルの後ろに控えている黒ずくめの青年へと視線を飛ばした。
「ゼルカヴィア。……貴様、説明していないのか」
「はて?何のことやら。……私はこの事件については部外者だと申したでしょう。誤解が生じているのなら、当事者同士で解いてください」
いけしゃあしゃあと眼鏡の奥を笑みの形に変えた右腕に、魔王は疲れたため息を吐く。
どうりで、話が噛み合っていないわけだ。
「……違う。あれは、キスなどというものではない」
「嘘!わ、私が子供だから、何もわからないって思ってるんでしょ!さすがに、チューがどんなものか、もう知ってるよ!」
魔王が真面目に取り合ってくれていないのだと思い込んだアリアネルの竜胆の瞳が、じわりと滲む。
「く、唇にキスするのは、お互いのことが世界で一番『大好き』って確認する意味があるんだって、ゼルが教えてくれたもん!他の誰よりも特別で、大切で――一生、ずっとずっと一緒にいるよって約束するキスだって、教えてくれた!」
「よく覚えていますねぇ」
ゼルカヴィアは後ろで暢気に苦笑しながらつぶやく。絵本の中で王子と姫が結婚するシーンか何かを見て無邪気に質問してくる三歳かそこらの少女に、苦し紛れに伝えた言葉だろう。
大前提の認識に齟齬があることを知り、嘆息しながら、魔王は竜胆の瞳にうるうると滲んだ水滴を指で掬うようにして、状況を説明した。
「あんなものは、キスではない。……あれは、あの魔族の食事だ」
「食……事……?」
「あれは、悪食な性格になるようにと造った女だ。結果、魔族にとって本来毒にしかなりえない聖気ですら、少量であればスパイスだと言い切って喰らいたがる奇人となった」
「……へ……?」
ぽかん……とアリアネルの桜色の唇が開かれる。
間抜けな少女の顔を見ながら、魔王は言葉を続けた。
「今日は、あの魔族が五十年かけてやり遂げた仕事の報告に来ていた。期待に見合う働きをしたと思ったから、褒美を遣るから何でも言ってみろと告げれば、アイツは聖気と瘴気が交じり合う俺の口腔の”気”を喰らいたいと言った」
「な――そ、それじゃ――」
「俺は、人間ではないから、己で聖気を生み出せるわけではない。体内に取り込む瘴気が勝手に聖気へと変換されるだけだ。摂取しすぎた瘴気は聖気となって体外へ放出されるが、それすら己の意志で行うものではない」
「つ……つまり……?」
「明確に、瘴気と聖気が入り混じっているとわかる場所は、この口腔内だけだろう。それが褒美に欲しいとねだられ、別に減るものでもないから勝手に食いに来る分には構わん、と許可を出した。それだけだ」
呆れた声で言う魔王に、アリアネルは絶句した後――ハッと気を取り直して言い募る。
「そ、そんな――でも、パパ、絶対いつもなら、そんなこと許さないもん!」
「そんなことはない。正当な働きをした部下には相応の報いを与えるようにしている」
「でもっ……でも、でもっ――」
ぐるぐると頭の中が回転する。
何度も思い出されるのは、漆黒の羽を優雅に震わせながら、魔王の膝に乗り上げ、ここは自分の居場所だと主張するように見せつけていた、女魔族の滑らかな背中だ。
「いくら、魔族の人がお仕事を頑張った褒美だからって言っても――パパは、絶対、部下だって言ってる魔族の人を、簡単にお膝に乗せたりしないもん!」




