9、すべての始まり③
「――遅い……」
つい先ほど、上級魔族の最後の謁見が終わり、誰もいなくなった謁見の間に、ぽつり、と低い声が空虚に響いた。
魔王と呼ばれる男は、玉座に腰掛けたまま、頬杖をついて思案を巡らせる。
昼間、ワトレク村に赴いてから戻って来て――すでに、夜と言われる時間帯だ。陽が差さない魔界に時間の概念は酷く薄いが、それでも十分な時間が経っていることはすぐにわかる。
それだけの時間が経ったと言うのに――まだ、己の右腕が、魔界に帰ってこない。
何万年も――天界が生まれ、造物主に創造された当時から何一つ変わらないその美貌を、微かに不愉快そうに顰めてから、魔王はため息を吐いてこめかみに指を置いた。
「伝言。――ゼルカヴィア。いつまで油を売っているつもりだ」
現存する魔族の中で、最も長い付き合いの忠臣の実力は、魔王自身が誰よりもよく理解している。
何か不測の事態が起きたとしても、彼が対処できないようなことが起きるとは思えない。
(ゼルカヴィアの力は、凡そ第二位階の天使と同等だ。王都のような聖気の塊の地で、瘴気が殆どない場合ならともかく、あの地は魔界と相違ないほどの瘴気があった。仮に第二位階の天使が何か気まぐれを起こして襲ってきたとしても、遅れをとることはないだろう。トチ狂った上級魔族が転移門を開いて、ゼルカヴィアに反逆しようとしたところで、片手で捻って終わりだ。そもそも人間ごときは、脅威になりえないしな。……万が一、あいつが対処できないような存在が現れるとしたら、第一位階の天使くらいだが――魔界と同等の瘴気が渦巻くあの地に、正天使も治天使も、わざわざ好き好んで顕現するはずがない)
冷静に選択肢を潰して行けば行くほど、今、何が起こっているのか全く予想がつかない。
(――ゼルカヴィア自身が、俺に反逆心を抱くなど、第一天使が現れる以上にあり得んからな)
共に過ごした、万年に近い年月がそれを証明している。
命天使として天界に生きていたころから変わらず、誰にも心を寄せぬと決めている魔王が唯一、”信頼”に近い何かの感情を抱くのが、ゼルカヴィアだ。
『まっ……魔王様っ……も、申し訳ございませんっ……!』
「……?なんだ。何があった」
魔法で自在に相手に思念を届ける伝言で返ってきた声音は、酷く動揺し震えている。
少し掠れて荒い吐息の影を感じ、魔王は珍しく眉を顰めた。
『つい――転移門を開くための魔力残量を残さず、魔法を使ってしまい、体力を回復させるために伝言も温存しておりました』
「何……?」
魔王の美しい相貌に怪訝な色が混じり、こめかみがピクリと動く。
いつも冷静沈着なゼルカヴィアが、先のことを考えずに魔力を使う事態など、よっぽどのことだ。
「何者かの襲撃を受けたのか?」
『いえ……その……そういうわけでは、ないのですが……』
警戒を滲ませた硬い声で思念を飛ばすが、返って来たのは歯切れの悪い回答だ。
『その――恥を承知でお願いしたいのですが、上級魔族の誰かを、昼間の村の位置に送って下さらないでしょうか』
魔界と人間界を行き来する転移門は、上級魔族にしか扱えない。
ゼルカヴィアから返ってきた弱々しい願いに、魔王は何かを思案するようにぎゅっと眉間にしわを寄せた後、すっくと玉座から立ち上がった。
「いい。――俺が出向こう」
『なっ――!!?そ、そのような――なりません!魔王様のお手を煩わせるなど――!」
「構わん。……もう着く」
呪文の詠唱すらなく門を開くことができる魔王は、瞬き一つで玉座の目の前に魔方陣を顕現させる。
足を踏み出せば、ヴン……と鈍い音と共に景色が変わり、宵闇に沈んだ人間界が眼前に広がっていた。
「ゼルカヴィア……?」
万が一の敵襲も考え、警戒しながらゆるりと視線を巡らせる。
見れば、昼間に来た時は確かにあったはずの村の風景はきれいさっぱりと消えてなくなっており、忠臣が己の言いつけ通りに村を焼き滅ぼしたことが見て取れた。
(この程度の規模の村を焼き尽くしたところで、ゼルカヴィアの魔力は尽きない。あれほど濃い瘴気が漂っていたんだから、なおのことだ)
軽く顔を顰める。昼間は、かき混ぜられそうなほどの濃度で漂っていた瘴気は、きれいさっぱりと霧散してしまっているようだ。代わりに、周囲には微かに聖気の気配が漂っている。
ゼルカヴィアが魔力を使い果たすような事態が起きたというのならば、その時に瘴気を全て食らいつくしてしまったのか――瘴気を霧散させるほどの聖気が生じて相殺されたのか、どちらかだろう。
(まさか、本当に第一位階の天使が現れたか――第二位階の天使に不意でも突かれたのか……?)
ぞわり、と腹の底が冷える気配がする。
それは、嫌悪の感情。
忌々しい天界の天使たちは、いつだって魔王を害すことに心血を注いでばかりいる。
――彼が最高位の天使として天界に君臨していた古の時代から、ずっと。
「ゼルカヴィア。どこだ」
舌打ちをして呼びかけながら、あてずっぽうに足を踏み出す。柄にもなく、焦っている自分がいた。
万年を共に生きてきた、唯一の右腕を失うことに、焦っている自分が。
「くそっ……」
造物主にそうあれと造られた性質と異なる感情の動きを自覚し、口の中で毒つく。不甲斐なさの極みだ。
宵闇を閉じ込めたような髪色の黒ずくめの忠臣は、この黄昏時には姿を探すのに向かない。
魔法で光を顕現させても良いが、敵が潜んでいるならば、悪手だろう。
自分が襲われる分にはどうとでも対処ができるが、もしもゼルカヴィアが負傷してどこかに潜んでいた場合は、敵がその場所を探すのを手伝うことになってしまう。
再び口の中で舌打ちをして、焦る感情のままに荒々しく足を踏み出した。
「ま、魔王様……」
「!ゼル――」
背後から聞こえた弱々しい声音に、焦って振り返り――
――固まった。
「……その……本当に……申し訳、ございません……」
無言でこちらを凝視したまま固まる上司に、ゼルカヴィアは胃をきりきりさせながら謝罪する。
一瞬、宵闇の世界に重たい沈黙が降り――
「ふ、ふぇ……ふぇええええん……」
「あーもうっ!魔王様の御前ですよ!泣き止みなさい!」
ゼルカヴィアの手の中にいたそれが弱々しい声で泣き始める。
どうやら、今までは眠っていたらしい。――いや、そんなことはどうでもいい。
「おい……?なんだ、それは」
「すっ……すすすすみませんっ……!」
魔王の低い声音の問いかけに、ゼルカヴィアは恐縮しきって身を縮ませ、何度もぺこぺこと頭を下げる。
黒ずくめの忠臣の腕の中には、快眠を妨げられてご機嫌斜めでむずかる赤子が、情けなくも弱々しい声を上げていた。




