89、魔界の太陽①
コツコツと二人分の足音を響かせていた廊下が、ぴたりと止む。
「どうしましたか、アリアネル」
「うん……あの……ほ、本当に、行かなきゃダメ……?」
ゴシ、と腫れぼったい瞼をこすり、魔王の執務室の直前で足を止めたアリアネルは、不安そうな声でゼルカヴィアに尋ねる。
ゼルカヴィアは小さく苦笑してから、そっと小柄な少女の頭を撫でた。
「逃げない、と言ったのは貴女でしょう」
「う、うん……でも――」
「大丈夫。……魔王様も、貴女の口からの報告を待っているはずです」
少女に陽だまりのような笑顔が戻ったことを確認したゼルカヴィアは、なんと、そのままの脚で魔王の執務室に赴くことを薦めた。
明日の方が良いのではないか、と渋りつつも、生来生真面目な性格のアリアネルとしては、本日の学園での報告を済ませていないことは、ずっと気にかかっていた。
そう告げると、それを理由に、きちんと日が変わる前に魔王の元へ行こうとゼルカヴィアは一切妥協することなく娘に持ち掛けたのだった。
「私も一緒についていてあげますから」
「うん……ありがとう、ゼル」
そっと背中に手を触れて支えるような仕草をしてくれる青年に、ふわり、と穏やかな笑みを見せる。
温かな掌は、いつも少女に勇気をくれる不思議な力があった。
アリアネルが力強く頷いたのを見て、青年もにこりと笑みを浮かべると、執務室の扉を軽く叩く。
「ゼルカヴィアです。アリアネルを連れてきました」
「……入れ」
低い声が端的に命じる。
アリアネルはごくり、と喉を鳴らしてから、黒ずくめの長身の影に寄り添うようにして、そっと部屋へと足を踏み出した。
◆◆◆
それは、文字通り天使のような子供だった。
人間にしては整いすぎている美しい造形の顔面。何もしなければ天界からでも視認出来るだろう程の眩さを放つ善性の魂。太陽に愛されたかのような、見る者の心をふっと和ませる、陽だまりのような笑顔。
「フン……たった数刻で、随分と不細工な顔になったものだ」
「っ……!」
入室してきた少女の真っ赤に充血して腫れぼったくなった眼を見て、魔王は皮肉を口にする。
今日の少女は、明確に、今まで彼女に抱いていた印象とかけ離れた容貌だった。
「ご……ごめん、なさい……」
少女は気まずそうに瞳を伏せて、消え入りそうな声で謝罪を口にした。
綺麗な顔の造詣が好きな父は、こんな不細工な顔をした女など好いてはくれないだろう――そう思えば、今すぐ回れ右をして退室してしまいたい衝動に駆られる。
「……何に対しての謝罪だ」
「ぅ……えっと……」
魔王の声は、いつも通りの平坦なものだが、今はそれが殊更厳しく聞こえる。
じり……と尻込みするように後退れば、とん、と優しくゼルカヴィアの掌が背中に添えられた。
後退を阻むように――勇気を与えるように、そっと。
「ぁ……あのっ……」
ぎゅっとスカートの裾を掴みながら、背に添えられた手に勇気を奮い立たせて声を上げる。
きっと、父は呆れていることだろう。
元々、どれほど愛情を向けられたとしても、決してアリアネルに愛を返すことなどないと明言していたのだ。それなのに、毎日彼と過ごすうちに勝手にうぬぼれて、勝手に裏切られたような気持ちになった――それだけだ。
魔王は、いつの日も変わらない。
それが、彼が存在する『役割』だから。
「今日――の、報告……を、しに……来ました……」
「……ふむ……?」
ギッ……と魔王が腰掛ける執務机の椅子が小さな音を立てる。
陽が沈んだためか、昼間よりも静けさが広がる室内に、その音はやけに鼓膜に大きく響いた。
「良いだろう。聞いてやる」
「あり、がとう……ございます……」
顔を上げることは憚られ、うつむいたまま口を動かす。
威厳に満ちた言葉を受けて、今まで無邪気に父と慕っていた相手は、この広い魔界を統べる王なのだと改めて認識した。
(ゼルがいつも、尊い御方って言ってるのが、やっとわかった……パパは、王様、なんだね……)
王子様のようだ、と言って、大好きだと子供らしい無邪気な好意をぶつけて良いような相手ではなかったのかもしれない。
どれほど好意を示そうと、決して氷に覆われたようなその心を溶かすことが出来ないというのなら――アリアネルのことも、他の魔族と同様、ただの『役割』を担わせるための駒であるとしか認識していないのだろう。
アリアネルは今までの行いを反省しながら、せめて与えられた『役割』だけは誠実に果たそう、と心を奮い立たせる。
(たとえパパが、私のことを好きじゃなくても――私にとっては、ずっと、ずっと、『大好き』なパパだから――)
一方通行でいい。見返りなど、求めない。
アリアネルの中には――確かに、魔王と過ごした十年の記憶がある。
気安く『パパ』と呼んでも、不躾な奴だと機嫌を損ねることなく返事をしてくれた。『抱っこ』と無礼なお願いをしても、無表情のまま軽々と抱き上げてくれた。子供が思い付きで口にした突拍子もない案を取り入れて、魔族の間に娯楽を流行らせてくれた。脆弱な人間、と言いながらも毎日魔法を教えてくれた。毎日この部屋に決まった時間にやって来て『お茶会』を開けば、楽しそうとはお世辞にも言い難かったが、こちらの話に耳を傾けてくれた。
無遠慮に過去の事情に踏み込んでも、あまり愉快な思い出ではないはずのそれを教えてくれた。
体調を崩した少女が『友人が欲しい』と溢した不意の弱音を掬い上げて、少女のためだけの魔族を造ってくれた。
どれもこれも、魔王にとっては特別なことではなかったのかもしれないが――それでも、アリアネルにとっては、何一つ忘れることが出来ない、キラキラと輝くような眩しい思い出ばかりだ。
不器用で、優しくて、大好きな”パパ”との――かけがえのない、大切な想い出。
(だからせめて、パパに失望されないように、与えられた『役割』だけは、しっかり果たそう)
すぅっと息を吸って、ゆっくりと顔を上げる。
腫れた瞼で視界は少し見にくいが、それでもしっかりと魔界の王の姿を捕らえる。
蝋燭の灯りに照らされ、キラキラと輝く黄金の髪は、いつものように美しかった。
(ずっと、ずっと、『大好き』を伝えるために――私が死ぬその時までずっと、パパに飽きずに傍に置いてもらえるように)
それはもしかしたら――あと、たった五年程度かもしれないけれど。
「まず報告するのは……治天使の加護を受けた生徒との接触についてです」
切なく痛む胸の奥を見透かされないように、アリアネルは精一杯の虚勢を張って、ぐっと胸を張ったまま口を開いた。




