88、『大好き』な人⑥
ハッと眼鏡の奥の瞳が見開き、青年が息を飲む気配が伝わった。
そのまま、すぐにそれは苦笑の中へと飲み込まれる。
「結婚だのなんだのという発言は覚えていないくせに、そういう余計なことはしっかり覚えているのですね」
「ぅ……だって、ゼルが教えてくれたんじゃない」
揶揄するような皮肉に、アリアネルは少しだけ唇を尖らせた後、そっと瞳を伏せた。
ゼルカヴィアは、きっと、アリアネルが望めば本当にそれをやり遂げるだろう。
世界中の誰にも知られないように、関与したすべての存在の記憶を書き換えて、アリアネルの十年間の人生を捏造し、全てを無かったことへと変えてしまう。
そうして、一見平和で穏やかな日常がやって来たとしても――ゼルカヴィア本人だけは、ずっと、一生、本当にあった出来事を忘れられない。
ゼルカヴィアの魔法は、ゼルカヴィア本人にだけは、掛けることが出来ないから。
「だったら……やっぱり、私は、そんなこと、したくない」
「…………」
「だって、ゼルは悪くないもの。私のせいで、パパを裏切らせたくなんかない。一生、ずっと、パパの命令に背いたことが露見しないかってハラハラドキドキさせながら生きさせたくない」
「貴女は本当に、お人好しですねぇ……」
「それに、そんなことをしたらきっと――ゼルに、寂しい想いをさせちゃうから」
もしもゼルカヴィアの提案を受け入れたとしたら、今日の、この日の会話も、無かったことになるのだろうか。
みっともなく泣きじゃくって、黒ずくめの仕事着を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしてしまったことを、毎日袖を通すたびに思い出させてしまわないだろうか。
ふとベッドに腰掛けたときに、生涯誰も膝に乗せることはないのだと誓ってくれたことを思い出したりはしないだろうか。
アリアネルの十年は、魔王城の中にしかない。
これから先もこの城で生活するだろうゼルカヴィアは――どこにいても、何をしていても、アリアネルと過ごした日々を、思い出してしまうのではないだろうか。
「私は、人間だから――何をしたって、きっと、百年後には死んじゃうと思う」
「……そう、ですね」
「パパも、ゼルも――他の魔族も、全員。皆を置いて、私だけ先に死んじゃう」
「そう……ですね」
「私がいなくなった後――何かの拍子に私との時間を思い出したときに、ゼルにも思い出を一緒に語れる人がいてほしいって、思うよ」
寂しいと思ってくれるのか、懐かしいと目を細めてくれるのかはわからない。
だが――どんな形であれ、思い出を分かち合うことが出来る存在がいるかどうかは、大きいだろうと思う。
「それに――私が『家族』になってほしいって思うのは、何度考えてもやっぱり、ゼルとパパだけだもん。それ以外の『家族』なんていらない。人間界での生活だって、必要ない。……私が帰ってくる家は、ずっと、ずっと、ここだけだから」
にこ、と少女は優しい笑顔でゼルカヴィアに笑いかける。
「だから、逃げないよ。私はずっと、魔界にいる。魔界にいる間は、どんなに報われなくても、ずっと、ずっと、パパにも『大好き』を伝え続ける。……時々、くじけそうになったら、またゼルが慰めて?ゼルがいてくれたら、きっと、最後まで頑張れる気がするから。――ね?」
ふわり、と花が綻ぶ様に笑う様は、春の穏やかな陽光を思わせる温かさを伴った。
「そうですか。……奇特な娘ですね。では、貴女の望むようにしましょう」
「うん」
笑顔で頷いてから、チュッと音を立ててゼルカヴィアの頬に口付けを落とす。
「大好きだよ、ゼル」
「えぇ。知っていますよ、アリアネル」
ふっと吐息だけで笑みを漏らした青年は、いつものようにそっと、少女の額に唇を寄せて、優しい声で告げたのだった。




