87、『大好き』な人⑤
「では、私が結婚して差し上げましょうか」
「ふぇっっ!!!???」
高い高いと言いながら子供をあやすような体勢で、ゼルカヴィアは笑顔でとんでもないことを言い出す。
思わず抵抗することすら忘れて、アリアネルは己の耳を疑った。
「おや、忘れてしまいましたか?――魔王様と出逢う前は、毎日のように『アリィはね、大きくなったら、ぜると結婚するの!』と言ってくれていたではありませんか」
「ぅ――ううううう嘘!覚えてない!」
「なんと。それは哀しいですねぇ」
くるくる、と頭上に掲げたまま回転しながら嘯くゼルカヴィアに、目を白黒させながらアリアネルは必死に記憶を辿る。そんなことを言ったことがあっただろうか。
「私は貴女の親になるつもりはさらさらありませんが、結婚相手と言うなら、考えて差し上げましょう」
「ぅえええええ!!??ゼル、何言ってるの!?」
「嫌ですか?――そうしたら、私が、貴女が望む『家族』になって差し上げますよ?」
くすくす、と笑いながら、ゼルカヴィアはそのまま部屋の隅にあるベッドの方へと向かい、ぼすっと腰を下ろす。
そうして、当然のように己の膝の上に少女を降ろした。
「私の膝の上は、アリアネルの特等席です。魔王様のように、貴女以外の他の誰かを座らせることなど、決して許しません」
「ぜ――ぜぜぜゼル!!?」
「生まれてこの方、ここにアリアネル以外の誰かを乗せたことはありません。これから先も、決してそんなことは起きないでしょう。――私なら、約束して差し上げます」
ぐるぐると眼を回しながら、育ての親が血迷ったことを言い始めたことに混乱する少女は、もはや涙の影などかき消してしまったらしい。
少女の頭の中から、常日頃大好きと言って憚らない魔王のことすら締め出せたことに気分を良くしながら、ゼルカヴィアは至近距離でこつん、と額をくっつけた。
「貴女は、良い子過ぎるのです。……もっと、我儘になってもいいのですよ」
「へ……?」
「嫌なことは、嫌だと言えばいいのです。辛ければ辛いと言いなさい。不毛なことはもう御免だ、と言って、嫌なことから逃げ出したってかまわないのです」
「――……」
「そもそも、貴女を無理やり魔界に縛り付けているのは魔王様の勝手でしょう。人間として幸せに生きていける未来もあったはずなのに、自分勝手に魔界に連れ去った上に、慣れない環境で訳の分からない役目を負わされる理不尽に、貴女はもっと怒ってもいいんです」
さらり……とゼルカヴィアは優しくアリアネルの美しい髪を撫でる。
生まれたときから毎日、慣れない手つきで不器用に梳かして結ってやった、美しい象牙色の髪は、今日も最高の手触りだ。
「貴女は、魔族ではありません。魔王様を、王として戴く必要などない。敬う必要すらない。敵視したとしても、良いのです。本来の貴女は、正天使の加護を持つ、勇者候補でしょう。そのように生きたとしても、誰も貴女を責めません」
「でも――」
「いいのですよ、アリアネル。拾ってくれたからと言って――育ててくれたからと言って、『家族』にならなければならないわけではありません。愛さなければならないわけでもありません。……言ったでしょう?血のつながりなど、何の意味もないのだと。血が繋がっていようと、いまいと、貴女が『家族』になりたいと思う相手が『家族』であり、そうでない者は血が繋がっていても『家族』ではないのです。……貴女は、心の赴くままに生きればいい」
それは、ゼルカヴィアが初めて娘に告げるメッセージ。
ずっと、魔王の命令で、魔界にとって利のある存在であるようにとアリアネルを育て上げてきたゼルカヴィアが、初めて口にする言葉だった。
「そ、そんな――そんなこと――考えたこと、無いよ……!」
「そうでしょうか。では、考えてみればいい。……貴女が嫌だ、辛い、逃げたいと言うのなら、私は貴女に協力して差し上げます」
「そ、そんなこと言ったって――出来るわけない……!だって、そもそもパパが許すはずが――!」
「それが、出来るのですよ。――世界中でただ一人、私だけは」
顔を蒼白くさせたアリアネルに、ゼルカヴィアはふっと小さく笑みを漏らす。
「貴女に、私の秘密を少しだけ教えましょう」
「え――?」
「私は――この世で唯一、魔王様に『固有魔法』の使用許可を必要としない存在です」
「――!」
驚きに息を飲み、アリアネルはゼルカヴィアの顔を振り仰ぐ。
口元に笑みを湛えた魔族は、複雑そうな表情のまま、ゆっくりと口を開く。
「私の『固有魔法』については、教えたことがありますね?」
「記憶……を……操る……」
「そうです。記憶を消したり、差し替えたり――そうした魔法を、私は、私の一存で使うことが出来る。私がそれを使用するタイミングも、用途も、何一つ、魔王様は把握が出来ない」
「そ――んな――なん、で……?」
アリアネルの当然の問いかけに、ゼルカヴィアはゆるりと口元を笑みの形に変えると、そっと少女の桜色の唇に人差し指を触れさせる。そのまま、ゆるゆると頭を横に振って、回答を避けたまま、続きを口にした。
「それはつまり――魔王様ご本人に、私が記憶操作の魔法を仕掛けても、魔王様は防ぐ手立てがない、ということなのです」
「そんな――」
「記憶がないことを、責めることは出来ません。全ては、無かったことになるからです。……アリアネルという人間の少女が存在したと言う記憶そのものを、消し去ってしまえば、魔王様は誰も責めることは出来ない。貴女のことも――私のことも」
「!」
十年前のあの日――ワトレク村に赴いた日からの記憶を、全て消してしまえばいいのだ。
ワトレク村に、正天使の加護を持つ赤子など存在せず、当然その後魔界にその子供を連れ帰ったなどと言う事実もないと思わせてしまえばいい。
そうすれば、アリアネルが魔界から逃げ出しても、追っ手がつくことなどあるはずもなく、ゼルカヴィアが命令違反を犯したと責められることもない。
アリアネルが魔界で暮らしたのは魔王城の中だけだ。魔王城の中の魔族全員から同じように少女の記憶を消してしまえば、全ては『無かったこと』になっていく。
城の魔族全員に魔法をかけるとなれば、相当大掛かりな事態となるが――魔王は、ゼルカヴィアがそんなことをしていると知る由もない。
魔王には、彼の『固有魔法』の発動を感知することは出来ないのだから。
「勿論、魔王様は、私の『固有魔法』が特殊であることをご存知です。その上で、私の普段の行いを見て、信頼してくださっています。長い時間をかけて築き上げてきたそれを裏切ることにはなりますが――私が、最後まで白を切り通せばよいことでしょう。貴女と違って、私は嘘を吐くことに何の罪悪感も感じない男ですから、それくらいはたやすいことです。貴女も良く知っているでしょう?」
アリアネルは絶句したまま青年の顔を凝視する。
笑みを浮かべたままのゼルカヴィアは、再びさらりと象牙色の髪を撫でた。
「貴女が望むなら、人間界の本物の『家族』の記憶をあげましょう。……魔界での記憶を全て消し去り、貴女が望んでいるような、心優しい愛情を注いでくれる『家族』となりえる家庭を探し出して、十年間、そこで娘として暮らしてきたという記憶を差し込んであげます」
「!?」
「貴女にも、貴女の『家族』となる人間たちにも。当然、周囲の人間たちにも、です。貴女が生きていくのに不自由しないように、ただ幸せに毎日を暮らせるよう、取り計らってあげます。――私には、それが出来る力がある」
「何を言って――」
「貴女が、逃げたいのなら、です。……上司の失態は、側近が尻拭いをするもの。魔王様に愛想を尽かし、もう嫌だと、逃げたいんだと訴えるなら、私がその後始末をして差し上げましょう。――どこにも、誰にも迷惑をかけない形で、粛々と」
悪魔のような優しい声で、ゼルカヴィアはゆっくりと続ける。
「貴女はいつだって、逃げることが出来る。……誰も責めません。幸せをつかむ権利は、貴女にも平等にあるのだから」
「…………」
しん……と静寂が部屋の中に降りた。
魔族とは思えないほど慈愛に満ちた優しい光を湛える深緑の瞳を見ながら、アリアネルはそっと口を開く。
「でも――」
「?」
「――ゼルは、ずっと、忘れられないんでしょう……?」




