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魔王様の娘  作者: 神崎右京
第四章

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85、『大好き』な人③

「私が、どんなに大好きって伝えても、パパは絶対にキスなんかしてくれないよ。勿論、だからって嫌いになったりしないけど、誰も好きになんかならないってパパ自身が言ってたから、てっきり、誰にもキスなんかしないんだと思ってた」

「それは……そうでしょうね」

「でも――今日、魔族の女の人にしてたから……隠してただけで、本当は――すっごく大好きな人が、いたんだなぁって……」

「――……えぇと。ちょっと待ってください。情報を整理しますね」


 ゼルカヴィアは額を覆って瞳を閉じてから、ゆっくりとアリアネルの言葉を反芻する。

 そうして、一つの解に辿り着いた。


(あぁ――そうか、なるほど。大前提の知識のところで、齟齬が出ていたわけですね)


 少女の中の『キス』の定義を思い出す。

 それはかつて、絵本を読み聞かせていたころに無邪気な質問を受けた自分が、苦し紛れに返した言葉。


『……相手のことが大好きだ、と伝える手段――ということですよ』


(まさか、未だにあの言葉を信じて――いや、しかし、それ以外の知識を得る機会などなかったでしょうし、仕方ないですね)


 イアスのような特殊なケースを除いて、基本的に魔界にいる者たちの間では恋愛も性愛も交わされることはない。

 魔族同士が口付けをしているところなど見たことはないだろうし、アリアネルが人間界に降りるときも、ゼルカヴィアがついて少女の目立つ外見に配慮して、人目につかぬように行動してばかりだった。人間同士が口付けをしているところも見たことはないだろう。

 当然、口付けの先にある行為についてなど、知識は皆無のはずだ。


(イアスの行為が”食事”だったとすれば、アリアネルが見たと言う”キス”は魔王様の口腔をイアスが一方的に嘗め回すような濃厚な物だったはずですが――それが普通のキスよりも卑猥なものである、という認識すらない、ということですか……)


 てっきり、その色欲の粋を極めたような卑猥さを前に拒絶反応を示したのだと思っていたのだが、どうやらそんな事態よりももっと手前で事件は起きていたらしい。

 急に、言葉にしがたい徒労感が押し寄せる。


「つまり、魔王様が、見知らぬ魔族の女にキスをして『大好き』を伝えていたと――その場面を目撃してしまった、ということでしょうか?」

「うん……」

「ほほう……なるほど。斬新な解釈です」


 あの冷酷非道な主が、中級魔族に情熱的に口付けをして愛を伝える場面と言うのをどうしても思い描けないゼルカヴィアには逆立ちしても出てこない発想だ。

 色欲を司るイアスに強請られ、戯れに部下を労ってやろうとイアスが喜ぶ行為をしてやった――と言われれば、何の疑問もなくすんなりと納得できるのだが。


「私……ずっと、パパに、誰かを好きになってほしかったの。勿論、それが私だったら、すごく嬉しいなって思ってたけど――私じゃなくてもいいから、誰かのことを、ちゃんと”愛して”欲しいなって思ってた」

「そういえば、そんなことを言っていましたね」


 造物主の”愛”が理解できないと言いながら、誰かを心から愛す『無償の愛』を魔王に知ってほしいと口にしていた日を思い出す。

 

「もし、()()パパに、”愛”を教えて――パパ自身が”愛”を覚えたような人がいたら、私は嬉しいって思ってた」

「ふむ……確かに、そう言っていましたね。ありがとうと伝えたい、と」

「うん……嘘じゃないよ。本当に、そう思ってたの。――でも」


 少女が俯くと、美しい象牙色の長い髪が流れ落ち、顔を隠した。

 太陽のような眩しい笑顔が似合う少女には似つかない、昏い声がぽつり、ポツリと響く。


「私に気付いてこっちを向いたパパは――いつも通りの、冷ややかな顔を、してた」

「…………」


(……まぁ。当然でしょうね)


 そこには、残念ながらアリアネルが思っているような”愛”は存在しないのだ。

 しかし、少女にはその発想がそもそもないらしい。ぎゅっとスカートの裾を握り締めて、苦しそうに胸中を吐露していく。


「どうして――って、思ったの。キスをするくらい『大好き』を伝えたい相手なのに――パパは、そんなに『大好き』な人を前にしても、あんなに冷たい目をするのかなって思って……」

「ふむ。難しい問題ですねぇ」

「私が、教えてあげたいなんて――烏滸がましかったのかな。どんなに私が『大好き』を伝えても、意味はないのかな。パパにとっては余計なお世話でしかなくて――私は、パパの邪魔になってるのかな……」

「…………」

「そう思ったら――哀しくて、不甲斐なくて。パパの『大好き』と私の『大好き』の間には大きな隔たりがあるみたいで……辛く、なっちゃった」


 俯いた小さな顔から、ぽたぽたと透明な雫が零れ落ち、床に染みを広げていく。

 聖気しか発することのない少女から、仄かな瘴気が立ち上っているのに気付いて、ゼルカヴィアは痛ましげに眉を顰めた。

 

 天使に愛されるような純粋無垢な人間が、哀しみや絶望といった負の感情に捕らわれて瘴気を発するのは、魔族としては何よりの愉悦の瞬間であり、極上の馳走となるその美味な気を貪りたくなるはずなのに――小さな肩を震わせて、ぽろぽろと美しい涙をあふれさせる少女からそれが立ち上っていても、全く愉快な気持ちにならないのは何故だろうか。


 死後、彼女を正天使の眷属にさせないためにも、少女にはこうして瘴気を発するような絶望を沢山味合わせるべきはずなのに――


「ごめん……ごめんね、ゼル」

「どうして私に謝るのですか?」

「だって……私には、これしか出来ないのに。――大好きな人に、大好きって伝え続けることしか、出来ないのに」


 手の甲でごしごしと目元を拭いながら、少女は謝罪の言葉を繰り返す。


「どれだけパパに辛く当たられても、めげずに『大好き』を伝え続けて――って、頼まれてたのに。こんなことで挫けそうになって、ごめんなさい」

「あぁ――そのことですか」


 確かに、そんなことを口にしたことがあったかもしれない。

 少女の小さな胸を痛めている要因の一つが、自分の一言にあると知って、ゼルカヴィアは小さく苦笑した。


「アリアネル。ほら、こちらへ来なさい。……そんな風にごしごしと目元を拭っては、貴女の無駄に大きく印象的な瞳が腫れあがってしまいますよ。大好きな”パパ”に、明日、そんな不細工な顔を見せるのですか?」

「ぅぅ……」

「お手本を見せてあげます。……さぁ、顔を上げて」


 胸元からハンカチを取り出し、アリアネルの顔を上げさせて、ポンポンと目元を優しく抑えるようにして水滴を拭ってやる。少女は、小さくしゃくりあげながら、大人しくされるがままになっていた。

 

「さて……何から話しましょうかね。色々と、前提から誤解がありそうです」

「誤解……?」


 深緑の瞳が眼鏡の奥で呆れたような光を宿したと思うと、大きなため息を吐く。


「まず――貴女が見た女魔族に対して、魔王様はきっと、何の感情も抱いていません」

「えっっ!?嘘!だって――だって、チューしてた!唇に、ちゃんと、チューしてたよ!?」

「だからそれが――ええと、まず、どこから説明しましょうか……」


 感情など無くてもそういう行為が出来るのだ、と教えるべきか悩み、ゼルカヴィアは眼鏡を外して皺を刻んだ眉間を揉む。

 正しい知識を付けさせるべきだと思う反面、「なんだ、それなら」と言ってアリアネル自身が気軽に誰とでもキスをしてしまうような尻軽女になってもらっては困る。

 何せ、万人に愛されるような可愛らしさを持っていながら、誰彼構わず「大好き」と極上の笑顔で触れ回るような、迂闊な人間なのだ。

 同じように、大して好きでもない相手に気軽に口付けをして回るようになっては困るし、逆に不埒な男に口付けを無理に迫られたときに「大した意味はない」と思って警戒しないようになっても困る。


 純粋無垢で穢れを知らない子供だからこそ、慎重になるべきだ。

 ゼルカヴィアは少し考えた後、まずは折衷案で攻めることにした。


「よく思い出してみてください。魔王様の方から、キスをしていたのですか?」

「え……?」

「貴女がいつも魔王様にキスをしているときを思い出してください。魔王様からキスを返してくれることはないでしょう?貴女が、一方的に、無反応な魔王様に唇を寄せているだけです」

「う、うん……」

「これが、貴女のいう所の”愛”が伝わっていない状態の魔王様ですね。……では、今回見た光景では、どうでしたか?――魔王様自ら、女魔族に迫るようにして口付けをしていたのでしょうか?」


 賭けてもいい。――絶対にそんなことはしない。

 その場にいなかったゼルカヴィアだが、長年の付き合いで、魔王に限って絶対にありえないと確信していた。


「ううん……パパは、いつも通り玉座に座ってるだけだった……」

「でしょう?……キスを迫っていたのは、女魔族の方です。彼女からの一方的な”愛”はあるのでしょう。その”愛”――貴女の言うところの『大好き』という感情――を伝えるために、無反応な魔王様に口付けをした。それだけです」

「――――……」


 ぱちぱち、と何度も目を瞬いて、アリアネルは今日見た光景を思い返す。

 確かに、冷静になって思い返してみれば、女魔族が貪るように口付けを迫っていただけで、魔王の方から情熱的に愛を囁いて迫っていたわけでは――


「……でも」

「まだ何か、疑問の余地が?」

「でも――パパは、あの魔族の女の人のこと、特別に想ってると思う」


 瞳を揺らして、不安そうに言ってのけるアリアネルに、ゼルカヴィアは呆れた顔を返す。

 一体、どこをどうしたら、そんな荒唐無稽な発想が出て来るのか、本気で教えてほしい。


「だ、だって――!」


 明らかに信用していない、という顔を向けられて、アリアネルは慌てて言い募った。


「だって、パパ――女の人を、お膝に乗せてたもん!」

「――――…ほぅ……?それは、初耳ですねぇ……」


 ゆらり、と。

 暗闇の底に炎が揺らめくように、物騒な低い声が、響いた。


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