83、『大好き』な人①
(さて――どうしたものですかね)
見慣れた部屋――アリアネルの私室の扉の前で、ゼルカヴィアは顎に手を当てて考える。
普段から五月蝿いくらいに『大好き』と言って憚らない魔王すら拒絶した今のアリアネルに、この扉を開けさせるにはどうしたら良いのだろうか。
少しばかり考えた後、嘆息してからゼルカヴィアは扉を軽くノックした。
「……アリアネル」
「!……ゼル……?」
「よかった。部屋にいたようですね。……開けてくれませんか?」
どれだけ扉の前で頭をひねってみても意味はない。――答えは、アリアネルしか持っていないのだ。
それならば、対話をして、彼女の心を理解することに努めるのに時間を使う方が有意義だろう。
「ぁ……パ、パパに、何か言われたの……?」
(おや。……珍しい。これはなかなか重症ですね。魔王様が、慌てて私を呼び戻したのも納得です)
中から聞こえてきた声は、硬質的で震えていた。涙の気配を容易に連想させるものだ。
いつも、何があっても底抜けに明るく、この永遠の暗闇に包まれた魔界に忽然と現れた唯一の太陽のように、輝く笑顔を振りまく少女が発している声とはとても思えない。
「いいえ?そろそろ食事の時間なのに貴女が食堂に降りてこないとロォヌが言っていたので様子を見に来ただけです」
上級魔族は、何の罪悪感も持たずにさらりと嘘を吐く。
「ぁ、そ、そうなんだ。さっき、伝言で今日はご飯いらないって言ったんだけどな……」
「滅多にないことだから、ロォヌも心配したのでしょう。訳アリだと察したからこそ、直接事情を聴くのは憚られたのでは?」
予期せぬ返しにも、スラスラと流れる水のように嘘を垂れ流すゼルカヴィアの性質は、純粋なアリアネルにはまだあまり理解できていない。
アリアネルにとってゼルカヴィアは世界で一番大切な家族であり、彼が自分を騙すことなどありえないと思っているはずだ。
(まぁ、勿論私も、彼女を積極的に傷つけるような嘘を吐くつもりはないですが――これくらいなら、良いでしょう)
「一体何があったのですか?今にも泣きそうな声をして――ロォヌだけではありません。貴女の元気がないと、城中の魔族が心配しますよ。訳を聞かせてくれませんか?」
「ぅ……」
他の魔族に心配をかけると言われるのは、心優しいアリアネルにとって辛いだろうと予想し、悪魔のような優しい声で扉の外から語りかける。
「先ほど、『パパに何か言われたの』と言っていましたね。……魔王様と、何かあったのでしょうか?」
「ち、ちがっ……何もないよ!パパは、何も悪くないの!」
「ほぅ」
事実がどうであれ、アリアネルから見た『現実』は、魔王が謁見の間で、明らかに職務と関係のない穢れた行為を、人目もはばからずに行っていた、というものだ。
状況を考えれば、ゼルカヴィアに向かって『パパったら酷いんだよ!』と訴えてもおかしくないところだが、魔王に非はない、と言い切るアリアネルは、やはりどこまでも父を悪くは言えない性格らしい。
「私が、悪いのっ……全部……私、が……」
扉の向こうで、消え入りそうな声が震える。
最後は言葉にならず、部屋には湿った空気が充満しているだろうことは容易に想像がついた。
「アリアネル。泣いているだけではわかりません。……ドアを開けてはくれませんか」
「っ……でも……今、私、酷い顔してて――」
「貴女の不細工な泣き顔など、赤子のころに見飽きてしまいましたよ。涙どころか、鼻水と涎で顔一面をぐしゃぐしゃにして、鼓膜を破らんとする勢いで泣き叫び、人の衣服を滅茶苦茶に汚していた子供が、今更何を気にすると言うのですか」
「ぅぅぅ……い、いじわる……!」
皮肉屋な育ての親は、今日も絶好調だ。
ややあって、カチャリ、と小さな音がして、鍵が開けられたことを知り、ゼルカヴィアはクスっと笑みを漏らした。
(鍵、ですか。魔王様を相手に引きこもろうとするには、なんともお粗末な手段ですが――そんなお粗末な手段を取る愚かな小娘を前に、相手を尊重してなのかはわかりませんが、大人しくあの御方が引き下がったのだと思うと、そのとき一体どんな顔をしていたのかはぜひ見てみたいところですね)
アリアネルのために買った天使の図鑑の中に、確か、封印を司る天使がいたはずだ。
脆弱な人間が、文明が発達しきっていない時代――竜や凶暴な野生の獣から身を護る術が乏しかった頃――に、人間の数が減り過ぎないよう、天界から天使が人間を脅かす個体の能力や移動可能範囲を制限する役割を担っていたと図鑑には書いてあった。
今、アリアネルが人間界に赴くときに胸にかけている魔水晶にも、正天使の加護の波動と、内からあふれ出す聖気の輝きを封じ込めるために、封印の天使の魔法が込められていると聞く。
この世のどんなものにも”封印”を施すことが出来る天使は、どんな”封印”も解除することが出来る。
強力な封印から、些末な封印まで、何かを封じ、制限するものであればどんなものでも対象となるそれは、人間が造り出した『鍵』という存在にも当然応用が出来るはずだった。
(まぁ、そんな魔法など使わなくとも、扉を一瞬で吹き飛ばすことも出来るでしょうし……魔王様の恩情で放っておいてもらえたことに、この幼い子供は気づいているんでしょうかね)
きっと、自分のことで精一杯になっているアリアネルにはわからないのだろう。――魔王の、わかりにくい優しさの本質など、きっと。
ゼルカヴィアは小さく嘆息してから、恐る恐る開けられた扉に、ゆっくりと手をかけたのだった。




