7、すべての始まり①
それは、雪がチラつく寒い日のことだった。
ふわり、ふわりと視界を舞い落ちるそれは、忌まわしい天使の羽を思い出して、気分が悪かったのを酷く覚えている。
「魔王様、街道を封鎖していた魔族を捕らえました」
「……そうか」
魔界の頂点に立つ男の前に跪き、恭しく首を垂れて報告するゼルカヴィアに、魔王はいつも通り淡々と言葉を返す。
ちらり、と眼をやれば、魔王の足元には、赤黒い血だまりが広がっており、その中心に痩せた魔族が地に伏している。
(あれは――疫病を振り撒く魔族、ザフォルですか。彼は、ここ百年で造られた中では最も高位の魔族だったはず――さすがは魔王様。お召し物に汚れどころか、皺ひとつ許さずその命を屠ったのですね)
むせ返る血臭に眉を顰めることもなく、ただ静かにたたずむ君主に、感嘆の吐息を漏らす。
「この村の人間たちはどうしている?」
「我らが現れて、些かパニックになったようですが、街道を封鎖されていては、逃げ道などございません。戦意を喪失し、逃げる気力すら奪われたのか、住民同士で一か所に寄り添い、ただ首を垂れて魔王様の沙汰を待っております」
「そうか」
魔王がくるりと身を翻すと、眩い黄金の髪が風をはらんで揺れた。
太陽の祝福を閉じ込めたような黄金の髪から覗く美貌と、チラチラと視界に踊る純白の雪花が重なれば、人間は彼のことを空から舞い降りた天使と見紛うかもしれない。
ここは、人間たちの間で、ワトレク村と呼ばれる小さな村落だ。
都市部から遠く離れたこの土地は、ル=ガルト神聖王国と、隣国エクスシア帝国の狭間にあるピタヤ荒原の端に位置する。
昔から、二国間の軍事衝突が起きるといえばもっぱらこの荒原で、戦争が起きるたびに土地は荒れ果て、瘴気が渦巻き、魔族が沸いては治安が悪化することで有名だ。
当然、定住する者は少なく、移住者などほとんどいない。地図上にポツンと忘れられたように位置しているだけの、貧しい村落に過ぎなかった。
今回のことの始まりは、久しぶりに二国間の軍事衝突が起きた三年前――
血で血を洗う愚かしい戦争行為に、膨大な量の瘴気が噴き出し、この周辺は魔族にとって格好の餌場となった。
濃度の濃い瘴気の方が、より美味に感じられるのは事実だ。魔族たちは、ただ渦巻く瘴気を摂取するだけではなく、いたずらに姿を現しては人間を脅かし、恐怖や憎しみを助長させては食事を楽しんだ。ゼルカヴィアも、数度足を運んだことがある。
それ自体は、悪いことではない。人間からしたら堪ったものではないだろうが、これが魔族の生態なのだ。世界中のいたるところで起きている、特に珍しくもない食事の光景に過ぎない。
だが――戦争が終結し、瘴気が薄れ始めた一年ほど前から、事態は予想と異なる方向へと転がり始める。
「ザフォル。……愚かな同胞よ。せめて、魔王様の手によってその命を終えられたことを誇りなさい」
魔王の背中を見送った後、ゼルカヴィアは、何度か魔界で顔を合わせたこともある同胞の物言わぬ躯に近寄り、恐怖と絶望に大きく見開いたまま光を失った眼をそっと手で閉じてやる。
「お前の力は、濃度の濃い瘴気を効率的に集めすぎる。甘美なそれは、たやすく同胞と――己自身の理性を奪うと、何度も、忠告したでしょう」
もはや言葉が届かぬことなどわかり切っていたが、やり切れない気持ちで苦言を口にする。
少し軽薄なところのあるザフォルは、上級魔族にしか開くことのできない転移門を瘴気が濃い地域に開いて、疫病を振り撒くことが出来る魔族だった。
疫病は、恐怖と絶望と苦しみを効率的に広げていく。――瘴気を生成するには、これ以上ない能力だ。
そもそも魔王がそんな能力を持つ魔族を作ろうと思ったのは、世界に聖気の量が増えすぎて、現存する魔族が飢えてしまうほどの事態になった時に、自分自身では転移門を開けない下級魔族たちの糧を効率良く確保するためだ。
魔王は、冷酷無比に部下の命を奪うのは事実だが、無意味に虐殺したりはしない。世界のバランスを大きく崩すような事態に陥ったときにだけ、無慈悲に命を奪うだけだ。
本来、非常時に同胞への慈悲を施す目的で生まれたはずのザフォルは――今回、自分の能力に溺れ、我を忘れてしまったらしい。
戦争が終われば撤収すべきところを、この村落へと狩り場を移し、無意味に能力を使って甘美な瘴気を集め続けた。
このひと月ほどは、結界を張る魔族と共謀し、完全にこの村落を世界から孤立させ、人間たちが逃げることも、外部へ助けを求めることも許しはしなかった。
(おそらく、甘美な瘴気に酔って、正気を失っていたんでしょうね。病死ではない、惨殺された死体が村の外に討ち捨てられていましたし)
戯れに姿を現して、恐怖を誘発しては、見せしめのように村民を惨殺して、より甘美な瘴気を集めようとしたのだろう。
何度も伝言で忠告を発し、数度、ザフォルを拘束し魔界へ引きずり戻すための魔族を数名送り込んだが、甘美な瘴気をたらふく食べて力を蓄えていたザフォルは最後まで聞き入れることなく抵抗を続けた。
最終的に、魔王とゼルカヴィアが直々に赴くことになったのだが――彼らが訪れて一目見たときのワトレク村は、間違いなく、現世に現れた地獄と言うに相応しい様相だった。
「また……生んでもらいなさい。父なる王に」
言いながら、ゼルカヴィアはそっと両手を躯へとかざし、小さく口の中で呪文を唱えた後、力ある言葉を吐き出した。
「転移門」
ヴン……と小さな音がすると同時に、ザフォルの死体を囲むようにぐるりと紫色の光る魔方陣が現れ、死体を飲み込み、消えていく。
魔界へと転移した遺体は、中級魔族たちがよきに計らい、処分してくれるだろう。
(さて――魔王様は……)
視線を巡らせ、その神々しいとすら思える偉大なる王の姿を探す。
彼が赴くとしたら、街道を塞いでいた魔族か、村民の元だろう。
(長い付き合いです。今の状況で、魔王様であれば――)
少し考えてから、ゼルカヴィアは迷いなく村民が会している場所へと足を向けた。
彼には、手に取るように魔王の考えがわかる。
(たくさんの同胞が、様々な理由で命を落として――結局、魔王様が初めて魔界に君臨された時代を知っているのは、私だけになってしまいましたね。もう、一体、魔王様との付き合いも、どれくらいになることやら……)
軽く眼鏡を押し上げながら、ふっと口の端に皮肉な笑みを浮かべる。
数千年――という単位で足りるのだろうか。もしかすると、いつの間にか、万年に達しているかもしれない。寿命という概念がない魔族にとっては、些末なことだ。
人間に討伐されたり、魔王が自ら手を下したり――今まで数えきれないほどの命を見送ってきた。
今、ゼルカヴィアが魔王の右腕として隣に立つことを許されているのは、気の遠くなるほどの時間をずっと、魔王の意図に背くことなく、彼が望む通りの魔族として、忠実に有能に生きてきたことの証に他ならない。
誰にも情を移さない魔王は、ゼルカヴィアにも心を寄せることなどありはしないが、彼にとっては今の地位を得ていることこそが、魔王からの最大の賛辞である。
「魔王様のことです。無情に――そしてどこまでも慈悲深く――人間どもを一瞬で骨も残さず焼き尽くせ、とおっしゃることでしょう」
ふ、と笑みを浮かべて、主の考えを予測する。
疫病に長く犯され続けたこの村を、このまま放置したところで、村民に待っているのは残酷な未来だけだ。
誰かが外部へ助けを求めに走ったとて、走った先で疫病を広げて、そこに再び魔族が現れ、瘴気を貪ることになる。
今回のことは、魔王の配下がしでかした、世界への迷惑行為に他ならない。
それであれば、その不始末の責を負うことも兼ねて、この地を地獄の業火で焼き払い、蔓延した疫病の種も村民も全て根絶やしにせよ――と命じるとゼルカヴィアは予想していた。
「どこまでも素晴らしく、そしてお優しい御方。人間ごときに慈悲をお与えになるなど――並の魔族には決して出来ない……!」
くっ、と喉の奥で愉悦の笑いが漏れる。
一瞬で焼き尽くせ――というのは、村民に苦しみを与えるな、ということ。
彼らからこれ以上甘美な瘴気を貪り、愉しむことは許さないということだ。
「あぁ――どこまでもついてまいります、魔王様……!」
恍惚とした表情で囁くゼルカヴィアもまた、この地にまだ渦巻いている甘美な瘴気に酔っているのかもしれない。
足を速めて、敬愛する主君の元へと急ぐ。
だが――まだ、ゼルカヴィアは知らない。
その敬愛する主君が、この直後――長い付き合いのゼルカヴィアにすら予想の付かない、とんでもない”お戯れ”を言い出し、これから先十五年ほど、未知の存在を目の前に、必死に悪戦苦闘する羽目になるとは。




