55、いざ、敵陣へ③
――天使様を見たことはあるか?
おそらく、正天使の加護を賜った人間に投げかけられる、人生最多の質問第一位。
本来であれば、天使が人間界に顕現し、人と言葉を交わすことは滅多にないことだが、正天使だけは別だ。
古来から、勇者候補となる人間の前に現れたり、神殿に現れたりしては、ありがたいお言葉や予言めいたことを告げて去っていくという。
その"お言葉"のおかげで、人間たちは導かれ、繁栄してきたというのだから、正天使を崇め、奉り、ありがたがる精神は納得できる。
普通に生きていたら決して目にすることのない人外の存在――天使という高尚な生き物が、いったいどういう存在で、どんな形をしていて、どんな声で、どんな内容を告げるのか――それを興味本位で聞いてみたい気持ちもわかる。
単純に、正天使の加護を賜った子供には、その特殊性ゆえに、子供個人に対する興味よりも天使に関する興味の方が勝ると言う側面もあるだろう。
幼いころから何度も繰り返されてきた言葉に、シグルト・ルーゲルは、いつも笑顔で、少しだけ申し訳なさそうに答えると決めていた。
「――ごめん。まだ、見たことはないんだ」
そう答えてやると、大抵、少し残念そうな顔をしてから、「大丈夫。魔界へ旅立つ前には必ずお言葉を賜れるさ」と、どこから目線なのかわからない励ましを口にして、ポンと肩に手を置かれることが殆どだ。
その余計なお世話極まりない言葉にも、「うん」と殊勝に返事をして、へらっと笑顔でやり過ごす。
十年近くも生きていれば、大人たちの上手なあしらい方も、自分の特殊性との付き合い方も、心得たものだ。
――天使というものが、一般的に信じられているような高尚な存在ではないと告げても、どうせ誰も信じてくれはしないのだから。
◆◆◆
「ほぅ……天使の加護を賜りながらも、病弱故に、この年齢まで、あの山の上の屋敷で暮らしていたと……?」
「はい、その通りでございます」
通された応接室で、この学園の教員だと名乗る目の前の男の言葉に、いけしゃあしゃあとゼルカヴィアは笑顔で頷く。
男は、年のころなら初老を迎えたばかりくらいだろうか。口をへの字に曲げて、皺が目立つ顔を顰めてさらに皺を刻み込みながら、不躾な視線をアリアネルへと投げ、じろじろと上から下までを眺める。
(ぅ、うぅ……)
居心地の悪さに、せめて不快な視線から逃れようと、アリアネルは無言でそっと瞼を伏せた。
魔王の趣味なのかは知らないが、魔界にいる魔族たちは皆、それぞれ個性はあれど基本的に顔立ちが整っている者が殆どだ。天使も美形しかいないというから、きっと同じなのだろう。
造形の醜さに加えて、アリアネルにこんな失礼な対応をする者など、魔界ではただ一人も存在しなかった。
――当たり前だ。
魔王様の”お気に入り”であり”一人娘”とまで認識されている少女に、敵意はもちろん、わかりやすい無礼を働く者など存在するはずがない。
「しかも、加護は――正天使のもの、だと?」
「はい」
ふん、と鼻を鳴らして小馬鹿にしたように告げる初老の教師に、笑顔のまま大きくゼルカヴィアは頷く。
アリアネルは、人生で初めて体験する慣れない対応に、ぎゅっと膝の上で拳を握っていることしかできない。
「ありえない。既に、学園にはシグルト・ルーゲルという正天使の加護を賜った勇者候補が在籍している」
「そのようですね」
「同時に二人の勇者候補が出るなど、前代未聞だ。聞いたことがない」
「左様ですか。――でも、先ほど、ご自身でお嬢様の結界と浮かび上がる紋章をご覧になったでしょう?」
ゼルカヴィアの笑顔の正論に、ぐっと教師が言葉に詰まる。
そう――天使の加護が本物かどうか、それがどの天使のものなのかなど、彼女に危害を加えようとすれば、おのずと証明される。
試験と称して剣を振り落とされた先――バチンッと硬質的な音を立てて光の結界に阻まれたのと、その結界に浮かび上がる紋章が正天使のものであることを目視したのは、他でもないこの目の前の教師だ。
「お嬢様のこの結界は、幼少期よりずっとあったものです。ではなぜ、発覚してすぐに学園に申し出なかったのかと言いたいそちらのお気持ちはわかります。ですがお嬢様は、幼少期から、一般人と交流するとすぐに体調を崩してしまうくらいに瘴気の気配に敏感で――ご存知でしょう?加護の結界は、敵意を持った攻撃に対しては殆ど無敵を誇るが、病気や衰弱といった自然発生する命の危機には無力です」
「それは……そう、だが……」
「一般的に聖気が濃いと言われている王都に居を構えていても、お嬢様の体質は決して改善しなかった。そもそも、幼少期は生きることだけで精一杯だったのです。使用人に少しでも瘴気を纏った者がいると、数日寝込んでしまうほどでしたから、相当厳選せねばならず……何年も苦心して、やっとのことで見つけたのが、物理的に人がいない場所――あの山奥のような立地に居を構えて、ひっそりと、信頼する人間だけを傍に置いて、少しずつ、生きるために最低限の瘴気に慣れていく、という方法でした」
「う……うむ……」
すらすらと用意してきた御託を並べるゼルカヴィアに、教師は押され気味になりながら頷く。
「とはいえ、我らとて善良なル=ガルト神聖王国民――勇者となるべき資質を有したお嬢様は、人間界を救うべしと天使様に選ばれた存在です。いつかは、お国のために、人間界のために、責務を果たさねばならない――そう思っておりました」
「そ、それは良い心がけだ」
「はい。それゆえ、もしも体調がよくなればすぐにでも学園の門を叩こうと、いくつかあった候補の中でも、あの山奥を選んだのが五年ほど前でしたか――我々の耳に、シグルトなる少年の噂が飛び込んできました」
何食わぬ顔で嘘八百を並べ立てるゼルカヴィアに、アリアネルは俯いてやり過ごす。善良な魂を持つアリアネルにとって、他者を欺く行為は、どうにも心地よく思えない。
「最初にそれを知ったときは、俄かには信じられませんでした。ですが、これこそ天使様の思し召し。……まぁ、天使様もきっと、お嬢様がここまで瘴気を克服するのに苦戦するとは思わなかったのかもしれませんね。勇者として相応しい別の候補をお探しになったのかもしれない。シグルト少年が責務を果たしてくれるのならば、お嬢様が無理をして学園に行く必要もないのではないか――お嬢様を慈しむ我々使用人や旦那様は、皆そのように考えたのですが、さすが正天使の加護を賜るほどの善性の魂を持つお嬢様。彼女は、決して己の責務から身勝手に逃れるつもりはない、ときっぱり言い切って、屋敷で座学と武術、魔術を独学で学び、やっと人里に降りて来られるようになった今、学園の扉を叩くと自ら仰ったのですよ」
よよ、と感動に打ち震える様で涙を堪える素振りすらしてのけるゼルカヴィアには、もはや呆れるばかりだ。
「……ですが、やっと人里に降りて来られるようになった――と言う程度では、魔族が蔓延る地域や魔界での作戦行動は難しいのでは?」
教師のもっともな疑問に、ゼルカヴィアは待っていましたとばかりに頷く。
「それはもちろん承知の上です。実際、お嬢様は、日常の学園での活動すら苦しむことがあるでしょう。先日王都に赴いたときですら、時折息苦しい時があるとおっしゃるくらいです。……ですが、特待クラスには、天使の加護を賜った存在ばかりが集められているのでしょう?善性の魂を持つとお墨付きのある生徒ばかりの中であれば、学ぶことくらいは出来るはずです。……とはいえ、仰る通り、実際に魔族討伐の実地作戦に組み込まれたり、魔界に赴くパーティに組み込むことは難しいと思いますが――将来は、王都の神殿にでも務めて、天使様のお声を届ける役目を担えれば、とおっしゃっています」
「まぁ……確かに、加護とは、言うなれば天使様の寵愛の証だという者もいますからね。実際に、過去の記録を見ても、正天使様は勇者候補の前に顕現することが圧倒的に多いとも聞きます。シグルトはまだ、正天使様にお会いしたことはないと言っていますが――シグルトが魔界へと旅立った後も、王都の神殿でお勤めを果たしていれば、正天使様のお言葉を賜れる機会が増えるかもしれない、というのはその通りでしょう」
どうやら、ある程度は納得してくれたらしい。ほっ……とアリアネルは隠れて安堵の息を吐く。
「……わかりました。何を言われたところで、その少女に正天使様の加護がついていることはまぎれもない事実。天使様の加護を賜る子供は、貴賤を問わず、授業料も全て無料で受け入れる、というのが我が学園の方針です」
「ありがとうございます」
ゼルカヴィアは、にこりと笑顔で礼を言う。彼を良く知るアリアネルには、胡散臭い笑顔だなとしか思えなかったが。
「ただ……」
「何か、問題でも?」
教員の言葉に、ゼルカヴィアはピクリと眉を動かす。
「いえ。身分の貴賤を問わない、というのは事実なのですが――しかし、素性が全くわからぬ者を入れる、というのは、ねぇ……?」
教師の声色が変わった気がして、びくり、と肩を揺らし、アリアネルが顔を上げる。
そこには、聖騎士を養成する施設の教員とは思えぬほど、下卑た視線を寄こす初老の男がいた。




