54、いざ、敵陣へ②
屋敷の扉を開け放つと同時、キラキラと眩しい日差しが網膜を焼き、思わず手をかざして目を眇める。
魔界にない『太陽』という存在は、どれだけ人間界を訪れようと、なかなか慣れない眩しさだ。
「おや、アリアネル嬢。お出かけですか?」
「あ、ミュルソス!」
後ろから掛けられた声に、振り返ると、幼いころから算術を中心とした座学を教えてくれた黄金の魔族が立っていた。
転移門で人間界の拠点としている屋敷の中に移動した後、瘴気の薄さや太陽の明るさに身体を慣らしてから出発しようと言ったのはゼルカヴィアだ。人間界での活動を怪しまれぬようにと調達した馬車で向かうらしい。
今日のアリアネルは、魔王の娘ではなく、微かな瘴気ですぐに体調を崩してしまう深窓の令嬢だ。
ゼルカヴィアは執事兼御者として、学園のある市街まで降りていく準備をしてくれている。
「うん、ゼルと一緒に学園の見学に行くの」
「そうですか。……では、アリアネル嬢。手を出してください」
鋼色の髪をぴったりとオールバックに撫でつけた黄金色の瞳を持つ垂れ目の紳士は、穏やかな笑みを湛えて差し出されたアリアネルの手を取る。
少女は疑問符を上げながら、昔から魔族らしからぬ品の良い大人の余裕を感じさせる風貌のミュルソスにされるがまま、掌を上に向けた。
「ミュルソス?一体どうし――あっ」
声は途中で途切れる。
紳士的に支えられた掌の上に、ミュルソスが骨ばった男性らしい指先を伸ばして上下に振った――と思った瞬間、コロコロッと輝くばかりの黄金色の貨幣が少女の小さな掌に散らばった。
「だ、駄目だよ!魔法でお金を生むのは、みだりにしちゃいけない行為だって、パパも言って――!」
「これは、私の『固有魔法』です。そもそも、魔王様の許可が無ければ使用できぬ魔法。……今、使用できたということは、魔王様も貴女に小遣いを与えることをお許しになったと言うこと。何の問題もありませんよ」
垂れた目尻を強調するように微笑んだミュルソスは、しゃあしゃあと言ってのける。
幼女だったころのアリアネルにも、大人の余裕で甘やかしてくれた魔族に、アリアネルはぷくっと頬を膨らませた。
「もうっ……いっつもそんなこと言いながら、なんだかんだ人間界に来るたびに、毎回お小遣いくれる癖に――」
「ふふ。あの恐ろしい魔王様であっても、たった一人の愛らしい娘には甘いようですね」
「もう……でも、本当にやり過ぎちゃだめだよ?パパ、怖いときは本当に怖いんだからね?」
心配そうに竜胆の瞳が下から見上げるのを、苦笑と共に受け止める。
その恐ろしさは、少女に言われるまでもなく、ミュルソスの方が骨身に染みて知っていることだ。
「そろそろ、ゼルカヴィア殿の準備も整った頃でしょう。さぁ、お行きなさい」
「うん。……行ってきます!」
ばいばい、といつもの眩しい笑顔で手を振って、つばの広い帽子を深く被り、キラキラ輝く世界へと足を踏み出す少女の背中を見送り、ミュルソスは苦笑して呟いた。
「全く――本当に、嫌になるくらい太陽の下が似合う子供ですね」
◆◆◆
ギッ……と手綱が軋む音がして、馬車がゆっくりと停車する。どうやら、目的地に着いたらしい。
「お嬢様。到着いたしました」
「えっ……あ、は、はい!」
一瞬、物心つく前から聞き馴染んだ声が呼ぶその呼称が、自分を指すものだとわからず間抜けな声を上げてから、一拍遅れて返事をする。
(そうだった――今の私は、お金持ちの家のお嬢様で、ゼルはそのお屋敷に雇われた執事、っていう設定……)
お嬢様、などとむず痒い呼び方をされても、澄ました顔で平然と返事をせねばらならないわけだ。
パンパン、と軽く両頬を叩いて気合を入れ直していると、馬車の扉が外から静かに開かれる。
そのまま流れるように自然な仕草で、いつもとは違う執事服に身を包んだゼルカヴィアが、恭しく手を差し出しエスコートを申し出た。
「どうぞ、お嬢様。お足元にお気を付けください」
「わぁ――!」
小さく口の中で思わず歓声を上げる。
まるで、昔何度も繰り返し読んだ、絵本の中のお姫様のような待遇ではないか。
ドキドキと興奮に胸を高鳴らせてそっと白い手袋に包まれた手を取り、優雅なエスコートを受けて馬車の外へと躍り出ると、至近距離で誰にも分らぬよう、ゼルカヴィアがこっそりと耳元で囁いた。
「その子供みたいな表情は仕舞いなさい、アリアネル。元気いっぱいなお転婆が露見しますよ」
「ぅ゛っ……は、はぁい……ごめんなさい」
ギクリ、と肩をはねさせてから反省する。
自分は高貴な家柄出身の、おしとやかで病弱なお嬢様という設定なのだ。確かに、たかが馬車から出るエスコートを受けただけで元気いっぱいにキラキラと目を輝かせていてはおかしいだろう。
(だって、魔界じゃ長距離を移動するときは、ゼルかパパが転移門を開いてくれるのが当たり前だったから――)
馬車に乗った経験など、アリアネルには皆無なのだ。つい、ウキウキしてしまっても仕方がないだろう。
必死に、幼いころにゼルカヴィアに与えられた、人間界の上流階級が行儀作法を学ぶための教本を思い返しながら、コホンと咳払いをして気持ちを切り替える。
「それでは、お嬢様。参りましょう」
「はい」
導かれるままに、緊張して足を踏み出す。
ここは、聖騎士養成学園――
――将来、血で血を洗う壮絶な決戦をする相手がいるはずの、敵陣ど真ん中だった。




