53、いざ、敵陣へ①
それは、アリアネルが九歳になったときにやってきた。
「やっと、学園に潜り込んで勇者らと接触する準備が整いましたよ」
いつも通りビシッとした黒ずくめに身を包んだゼルカヴィアは、アリアネルのカップに茶を注ぎながらサラリと重要事項を告げた。
「えっ……!?」
「貴女も、何度も人間界に赴き、慣れてきたでしょう。街全体に私の魔法で、山の上の屋敷が富豪の家であること、病弱な深窓の令嬢がいることを記憶に植え付け終えましたから」
にこり、と笑って告げる表情には、人々の記憶改竄など何とも思っていない魔族らしさが滲む。
「ですから明日は、勉強と訓練はお休みです。勇者候補が通う聖騎士養成学園の見学のために、人間界に行きましょう」
「!」
アリアネルは弾かれたように向かいに座る父を見た。
九歳になった今でも、父がの執務室でのお茶会は、毎日飽きずに続けられている。
「パパ――いいの!?」
「フン……せいぜい、魔界の利となる情報をもたらすことだな」
「わぁ――!やったぁ――!」
竜胆の瞳を輝かせ、頬を嬉しそうに上気させるアリアネルに、ゼルカヴィアは首をひねる。
「おや。てっきり、勇者の元になど行きたくない、ずっと魔王様や魔族の皆と一緒にいたいとゴネるかと思っていました」
「もうっ!ゼル、私が何歳だと思ってるの?お姉さんなんだから、そんな我儘言わないよ」
ぷくっと頬を不満げに膨らませたあと、堪えきれずにフフッと笑いを漏らす。
「ごめん、ちょっとだけ嘘かも。私だって、皆とずっといられるならそれは嬉しいけど――魔法訓練の度に、パパにはダメ出しばっかりされて、このままじゃパパの役に立つ人間になるなんて夢のまた夢だ……みたいなことを言われ続けてたから」
「……なるほど」
ゼルカヴィアは言葉少なく返答して、物言いたげな視線を上司へと向ける。
魔王は、いつも通りの涼しい顔で花茶を飲むだけだ。
(魔王様直々のご指導とあって、魔法の練度は既に竜族を一撃で瀕死にするレベルまでになったというのに……相変わらず、素直ではない方ですね)
とうに人間が到達できる高みなど超越しているであろうアリアネルが役に立てないならば、一体誰が役に立てると言うのか。竜は、上級魔族の中でも手こずる者がいるくらいなのに。
「武術について教えてくれる城にいる魔族の皆は、上級魔族と切り結べる人間なんていない、って手放しで褒めてくれるのに……私、魔法は下手なのかな……瘴気を使った魔法は、上位魔族の皆の名前を使えるから、私が使える魔法も多いけど、聖気を使った魔法は、上位天使の力を借りちゃ駄目って言われるし」
「まぁ、あまり気にしなくて良いでしょう。瘴気の魔法さえ一定以上使えれば、来るべき勇者との戦いで後れを取ることはありませんし」
ずず……と素知らぬ顔で花茶を啜る魔王を半眼で見ながら、アリアネルに返答する。
数年前、偉そうに情を移すな入れ込むなと言っていたのは誰だったのか。所詮使い捨ての駒と割り切っている対象に必要水準以上の育成を施しておいて、一体どの口が言うのかと、上司でなければその矛盾を問い詰めてやりたいところだ。
「魔界で聖気を使う魔法はほとんど役に立ちませんから、ここでの戦いで貴女に敵う人間はいないでしょう。聖気を使う魔法は、あくまで人間界の中――それも、聖気が充満しているであろう聖騎士養成学園の特待クラスで、素性を怪しまれない程度に使えればいいのです」
「うん……」
大好きな父親に認められるくらいになって、彼の役に立ちたい、という根底の気持ちは変わらないのだろう。少女はしぶしぶ頷き、焼き菓子を口に運ぶ。
「貴女には期待しているのですよ、アリアネル。我ら魔族にとって、勇者教育については未知のものが多い。ぜひとも、私たちに――魔王様に利のある情報をもたらす存在となってくださいね」
「うん!頑張る!」
気を取り直したように元気に頷き、張り切る少女に、嘆息しながら笑みを向ける。
勇者候補が勇者となるまでのタイムリミットは、あと六年。
そうなれば――駒、と魔王に称されたこの少女がどうなるのかは、わからない。
(相変わらず、魔王様は徹底してアリアネルの名前を呼ぶことも『おめでとう』の一言を告げてやることもしないですからね。……行動だけは、随分とアリアネルに甘いようですが)
さすがに九歳にもなれば、いつぞやのように本人が『抱っこ!』と堂々と甘えることは無くなったが、魔法訓練のために人間界に赴くときは、空中浮遊の方が移動が楽だと思うのか、戯れに抱え上げることがある。成長と共に恥ずかしそうにもじもじとするようになった少女の反応も気に留めず、乞われたわけでもないのにひょいと抱き上げてみせるのは、まるで父親が溺愛する娘にするそれのようだ。――表情だけは、いつも石像のように冷ややかなまま固まっているが。
さらに、幼少期よりも一緒に過ごす時間が圧倒的に増えたせいだろうか。ゼルカヴィアと同じく、なんだかんだと実は面倒見のよい性質があるのか、アリアネルのことを気にかける言動が増えた気がする。
勉強にのめり込んで夜更かしをした次の日のお茶会で少女の眼もとに隈を発見すれば、どうしたのかと問いかけ、眠りを司る天使の存在を教えて眠れない夜の対処法を教えてやる。
武術の鍛錬や座学は魔王の管轄ではないはずにもかかわらず、進捗を聞いては躓いているポイントについてぶっきらぼうにアドバイスをしてやる。
誕生日を祝う言葉など微塵も口にしないくせに、毎年その時期になると、黄金の魔族ミュルソスに命じて小遣いを渡してやれ、と告げておく。――魔王から直接贈り物をするつもりはないが、少女が好きなものを買う分には咎めないと言うことなのだろう。
魔王の不器用だが確かな愛情めいた何かの表現を目にした城の魔族たちは、皆一様に、アリアネルを魔王の『お気に入り』と認め――いや、アリアネルがしつこく呼び続ける呼称のせいで『一人娘』と認識している者も少なくはないはずだ。
「じゃあ、明日は人間界なんだね。――パパにも、またお土産買ってくるからね」
「いらん」
「いいの。――私が、パパに、あげたいの」
ふわり、と優しい笑みを浮かべる視線の先には、武骨な執務机に不似合いな、小さな花瓶。
アリアネルがゼルカヴィアと共に人間界に行くたびに土産として持ってくる、花束を飾る用にいつからか用意されたもの。
当然、何度、何を持ってこようと、魔王がアリアネルに何かを返すことはない。感謝の言葉を口にすることすらしない。
ただただ不毛な一方通行でしかない”愛情”を――それでも少女は、九歳になるこの日までずっと、飽きずに全身で伝えてくる。
「面倒ごとに巻き込まれんように、結界を張る首飾りだけは忘れるな」
「はぁい!――パパ、大好き!」
帰り際に、チュッといつものように頬にキスを落としてから、鼻歌交じりに執務室を出ていくアリアネルを、魔王は嘆息しながら見送った。




