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魔王様の娘  作者: 神崎右京
第三章

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52、【断章】朝の来ない部屋

 太陽のない魔界には、朝日という概念はない。

 ただ、果てのない絶望のような闇色に塗り込まれた空に覆われ、明かりが無ければ一寸先も見えぬような漆黒の世界だったところが、ほんのりと薄らぎ、周囲を見回せる程度の明るさを取り戻していく――それが、魔界における『朝らしきもの』の正体だ。


 永遠に朝の来ない部屋で、魔王は私室のソファに腰掛けて部屋に備え付けられた巨大な窓を眺めていた。

 窓の外には、魔界における貴重な植物らしきもの――太陽の樹と呼ばれるそれが、力強く幹と枝を伸ばし、青々とした葉を今日も元気に茂らせている。


 どれくらいの時間そうしていたのか――魔王の思考を現実に引き戻したのは、扉を叩く硬質的な音だった。


「魔王様。ゼルカヴィアです」


 聞き慣れた声に、視線をめぐらす。


「……戻ったのか。入れ」

「失礼します」


 主の許可を得て、恭しく礼をしてから、漆黒の衣装を身にまとったゼルカヴィアが入ってきた。


「お休みかと思いましたが――お早いお目覚めですね。昨夜はアリアネルと人間界に魔法訓練に出ていたのではなかったでしょうか?」

「帰って来てからも、なんとなく目が冴えて眠る気にならなかっただけだ。俺が造ったはずの夢天使が死んでからは、眠りに魔法を使うこともなくなった」

「確か、くだんの天使の名が無効になったと仰っていたのは、五百年ほど昔でしたか?……魔族の私には、天使の力を借りる魔法は使えませんが、魔王様なら可能でしょう。新しく眷属として力を付与されているであろう天使の通称で力を行使しても良いのでは?」

「フン……くだらん。そこまでして眠りたいとも思わん。どうせ眠らなくとも死にはせん。せいぜい、頭の中で記憶の整理がされぬだけだ」


 その昔、自分が命と役割を与えた夢天使の顔を思い出し、鼻で笑い飛ばすように息を吐く。

 銀に近い金色の長い髪に、夜明け空を思わす薄紫の瞳を持った、何に付けてもオドオドとして自信が無さげな女性型の天使だった。自分の意志を強く打ち出すことの出来ぬ気弱で繊細な天使だった記憶がある。

 臆病な彼女が、造物主や天界に不利益をもたらすような行いをするとは考えにくいが、強き者に逆らえぬ性格は、傍若無人な振る舞いをする二代目正天使あたりの毒牙にかかれば良い様に利用されてしまってもおかしくはない。

 当時、天界で最も権力と力を持っていた命天使すら、謀略で魔界の底に堕としてのけた正天使だ。それくらいのことは軽くすることだろう。


 自分が使命感と共にその手で命を終わらせたわけでもないのに、ある日突然名前を呼んでも手ごたえが無くなった時の、なんとも言えぬ感覚は、後味の悪いものだった。

 あれが――寂寥、と呼ばれる感情に近い心の動きなのだろうか。


「そう言えば、アリアネルは帰ってきて大人しく寝てくれましたか?泣いてぐずって、魔王様にご迷惑をおかけしなかったでしょうか」

「普段あまり練習をしない聖気を使った魔法を使ったせいで疲れたんだろう。布団に入ってから程なく寝息を立てていたぞ」

「おや。……布団に入れて寝付くまで傍で見ていてくださったのですか」


 意外な返答に、ゼルカヴィアは目を瞬く。

 魔王の普段を想えば、自分の私室の前に転移してそこで別れを告げるか、慈悲を見せたとしてもアリアネルの部屋の前に置き去りにするくらいだと思っていた。

 忠臣の言葉に揶揄の気配を感じ取り、魔王は不愉快気に顔を歪める。


「離れがたいだのなんだのとうるさく言われては面倒だと思っただけだ」

「いえ、助かりますよ。どうにも、新月の夜は、不安が強くなるようです。昔、妙な悪夢を見たせいかとは思いますが――最近、独りで寝られるようになったばかりですからね。まだ少し、不安定になる新月の夜に、独りきりでいさせるのは不安でしたので」

「過保護なことだ。……”お兄ちゃん”とやらを派遣すればよいだろう」


 フン、と鼻を鳴らして、お返しとばかりに揶揄を返す魔王に、ゼルカヴィアは肩を竦めて流す。


「まさか。”アレ”は人間界で陽が出る時刻まで、魔界では、ゼルカヴィアの部屋から一歩も出られません。……魔王様が誰よりもよくご存知でしょうに」


 面白くない返答を返した部下に、魔王は一つ嘆息した。


「だからと言って、新月の度に俺に子守りを押し付けるつもりか?」

「ひとえに、魔王様の優しさに助けられておりますね。誠にありがとうございます」


 嫌味なまでに恭しく、完璧な礼をしてみせるゼルカヴィアの慇懃無礼さは、筋金入りだ。

 これ以上この話題でやり合ってもゼルカヴィアの不遜な態度を崩すことは出来ないだろうと判断し、魔王はそれ以上の攻撃をやめた。このふてぶてしさは、一体誰の影響を受けたのか。


「……そういえば、ゼルカヴィア」

「はい、何でしょうか」


 魔王は、窓の外の太陽の樹を眺めながら、思い出したように口を開く。


「お前に限って、そんなことはないと思うが――」


 低く響く、ゾクリとするほど冷たい声。


「――この俺に、黙って魔法をかけたことが、あるか――?」


 しん……

 冬の朝の凍てつく空気が、部屋の中を支配する。


「それは……まぁ、長いお付き合いですから。一緒に戦いに赴いた際に、援護の魔法をかけたことくらいは――」

「とぼけるな。俺が言っているのは、お前の『固有魔法』――記憶を操る魔法についてだ」

「――――……」


 再び、冷ややかな静寂が陽の差さない部屋を支配する。

 少ししてから、ゼルカヴィアは小さく嘆息して告げた。


「何か、私は魔王様への忠誠を疑われるようなことをしてしまったのでしょうか?心当たりはないのですが」

「……疑っているわけではない。だが――最近、妙な記憶が蘇ることが多い」


 ぎゅっと魔王の形の良い眉が寄り、眉間に皺を刻む。


「あの、人間の子供と共にいると――何か、あるはずのない記憶が、蘇るような感覚がある。……酷く、不快だ」


 ゼルカヴィアは、少し驚いたように目を瞬く。


「最初は、お前がそんなことをするはずがないと考えていたから、思い至りもしなかったが――あまりにも、不自然なものが多い。もしも、不自然に、あるはずの記憶を忘れているのだとしたら――順当に考えれば、お前しかいないだろう。――お前だけはこの世で唯一、()()()()()()()()()固有魔法を使える」

「――――……」


 ギラリと光る蒼い瞳が、鋭く薄闇に沈む漆黒の男を見据える。


「俺が、お前を手元に置いているのは、お前の度を越した忠誠を信頼しているからだ。本来であれば、決してそばに置いたりはしない。――()()()()()()()()()()()()、決して支配を受けぬ特殊な存在など、決して」

「……よく理解しています。イレギュラーな存在である私を、その危険性を鑑みてもなお、魔王様のご慈悲によって、お傍に置いていただいている僥倖は」


 静かに言って、ゼルカヴィアは床に膝を突き、最上位の礼を取る。


「ですが、魔王様。初めてお会いしたときに誓った言葉に、決して嘘偽りはございません。私は、偶然の重なりの上に生まれた、異端な存在――だからこそ、誰よりも魔族らしく、魔王様の第一の僕として相応しく、己を律し、常に貴方の御心と共にあります。貴方の期待に応え、貴方のために全てを捧げ、生涯この命尽きるその日まで、貴方のお傍を離れぬ唯一絶対の存在であり続けると誓います」


 それは、気が遠くなるほど昔に諳んじた誓いの言葉。

 

「その言葉に――偽りはないな?」

「勿論でございます。ですが、何か、私のあずかり知らぬところで、私に疑念を持たれるようなことがあったのだとすれば――その時は、何も告げることすらなく、容赦なくこの首を刎ねてくれればいいと、そう申し上げたこともお忘れでしょうか」


 顔を上げて、ふ、とゼルカヴィアの表情が緩む。

 いつものふてぶてしさの片鱗も見せぬ、哀しく、寂しい、笑みだった。


「……フン……下らんことを言った。忘れろ」


 興味を失った様に顔を背けると、ふぃっと手を振って、礼を解くように指示をする。

 ゼルカヴィアは笑みを苦笑へと変えて、ゆっくりと立ち上がった。


「ご安心ください。私が、魔王様を謀る目的で魔王様に魔法をかけることなど、あり得ません。ですが、貴方自身に強く望まれ、命令されて、固有魔法を使うことはあるかもしれませんね。……ちょうど先日、失った記憶を思い出す方法はないかと乞われたときのように」

「フン……先ほど、俺の問いをすぐに否定しなかったのはそのせいか。どこまでも馬鹿正直な奴だ」

「褒め言葉と受け取っておきます」

「魔族を相手に正直であることの、何が褒め言葉か。相変わらずお前は面倒な男だ」


 憎まれ口を叩く魔王の横顔は、一瞬氷のように冷え切った鋭さの鳴りを潜めている。

 ゼルカヴィアを疑わずに済んだことに、ほっとしているのかもしれなかった。


「ですが、気になるのは事実ですね。その、『妙な記憶』とは……良い、記憶ですか?それとも――」


 深緑の瞳が、痛ましげに揺らめく。

 魔王は、瞳を閉じてふるふると頭を振った。


「関係ない。それが――良い記憶だろうと、悪い記憶だろうと」


 昔から、愛情も憎悪も、何もかも遠い感情と割り切って生きてきた。

 そんなものに左右されていては、命を扱えない。――生み出すことも、奪うことも。


 平等に、公正に、全ての存在に無慈悲に。

 それこそが、この世の全てを支配下に置く造物主によって与えられた、己の使命。


「そうですね。下らぬことを質問しました」


 頭を下げて引き下がってから、ゼルカヴィアはふと話題を変える。


「そういえば、アリアネルが、誕生日に『おめでとう』を言ってもらえないとむくれていたブームは終わったのでしょうか」

「それこそくだらん質問だ。無視し続けていたら、諦めたようだ。……来年どうなるかは知らんが」

「やれやれ、酷いお人だ。減るものでもあるまいし、一言口先で告げてやればよいでしょうに」


 呆れながら半眼で告げると、万年変わらぬ忠誠を誓った右腕を、魔王はチラリと視線だけで見やった。


「ゼルカヴィア。――忘れるな。あれは、駒だ」

「――――……」

「それも、所詮、あと数年もすれば用なしになる駒だ。……正直なところを言えば、現時点でも駒としての役割は十分に果たしている。お前が人間界にここまで詳しくなっただけでも、十分な収穫だからだ」

「……はい」


 魔王の言葉を、ゼルカヴィアは瞼を伏せて静かに承る。


「勿論、今一歩不明瞭な所も多い。それを解明する機会は、これを逃せば二度と訪れぬだろう。そう考えれば、ある程度育成に力を入れるのも必要だが――あくまで、より人間どもと、奴らと天使の関係を知るための存在に過ぎない。その報酬として、一時的に庇護下に置いているだけだ」

「……はい。重々承知しております」


 深々と頭を下げた右腕に、深く嘆息してから立ち上がる。

 ギッと音を立てて、ソファのスプリングが軋んだ。


「わかったなら、下がれ。……たかが、人間だ。くだらん情を移すな」


 どうにも最近、目に余る行動をする忠臣に釘を刺しながら、魔王もふるふると首を振る。


 ゼルカヴィアに告げた言葉は、誰よりも、理解している。


 平等に、公正に、全ての存在に無慈悲に。

 それが、魔王としての、存在理由。


 そのはずなのに――


『パパ!』


 ――頭の中で、天使のような笑顔がはじける。


『パパ!――大好き!』


 嬉しそうに高い声で叫んでは、毎日飽きずにキスをしてくる、あの太陽を具現化したような無垢な顔が、どうにも消えない――


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