49、魔法④
「っ――!」
「わっ!」
急にしっかりと抱きしめてくれていた両手のうち、片方の腕を離され、アリアネルは驚いてぎゅっと魔王の首に縋りつく。
「パパ!?――大丈夫!?」
「っ……く……なんだ、この記憶は――!」
「パパ!?頭が、痛むの?」
顔半分を覆うようにして苦悶の声を漏らす父に、アリアネルは蒼い顔で問いかける。
普段、涼しい顔をしている魔王からは想像が出来ないくらい表情がゆがんだ――と思ったとたん、ぐらり、と浮遊の軌道が大きくぶれて、高度を一瞬で落としてしまった。
「っ――パパ!」
すぅ――と音もなく、掴み取れそうだった星空が彼方へと遠ざかっていく。
心惹かれたそれらに見向きもせず、アリアネルは蒼い顔で父へと手をかざした。
「えっと、えっと……っ――我、癒しを司る治天使に乞う。彼の者の苦痛を癒し、安息を与えよ――!」
震える声で必死に呪文を紡ぎ終えた途端、ぱぁっと温かな波動が魔王を包む。
(馬鹿なことを――そんなものが、効くはずがない――!)
割れそうな頭痛に歪む視界の中、無駄な抵抗をしているらしいアリアネルを見やる。
血の気の引いた真っ白な顔で、唇は紫色になっている。
揺れる竜胆の瞳が一心に見ているのは――魔王の顔だ。
(っ……怖く、ないのか)
ぐんぐんと高度を落とし、墜落する危険を察知していないわけではないだろう。
先ほど、安定した飛行状態でもあんなに怖そうにしていたくせに――今は、そんなことよりも怖いものがあるとでも言いたげに、魔王の顔を心配そうに覗きこんでいる。
「ごめんなさい、パパ……!私、まだ、魔法が上手く使えないから、き、効かなかったのかな……も、もう一回――!」
「っ……いい……構うな――」
「嫌だよ!だって――家族だもん!」
言い切って、泣きそうな顔でもう一度同じ詠唱を始める。
(これは、怪我や病から来る痛みではない……治天使の力を借りる治癒の魔法が効くはずがない)
そう伝えるのも苦しいほどの絶え間ない頭痛に、顔を顰めてうめき声を何とか飲み込む。
アリアネルの魔法の腕前のせいではないのだが、少女にはそんなことはわからないだろう。
ただ一心に、魔王を苦痛から救いたいと願い、己に出来ることを考えて必死に振舞っているだけだ。
(あぁ――人間は、やはり、愚かだ)
全く以て理解が出来ない。
下らない一時の感情で動き、無意味にしか思えないことを本気で取り組む、脆弱な種族。
――造物主が愛した、不出来な生き物。
「っ……捕まって、いろ……!」
「え?――ゎっ!」
歪む視界を叱咤するようにぐっと奥歯を噛みしめ、腕の中の生き物を抱えながら高度と体勢を整える。
「パパ!無理しないで!魔界に帰ろう?帰ったらすぐに、ゼルに頼んで――」
「今日は新月だ。ゼルカヴィアには頼れない」
「なら、オゥゾでもルミィでも――!」
「うるさい。少し黙れ。……集中が途切れる」
不機嫌そうに呟いて、ゆっくりと深呼吸を繰り返すと、荒波がさざ波へと変わっていくように、呼吸に合わせて頭痛もいくらか落ち着くような気がした。
「パパ……」
いつも涼しい顔をしている魔王の額に汗の珠が光っているのを見て、アリアネルはそっと持ってきたハンカチでその雫を拭う。
それくらいしか出来ない自分の不甲斐なさに歯噛みしながら、苦し気な父の顔をじっと固唾を飲んで見つめた。
やがて、ゆっくりと晴れた日の蒼空を映しこんだような美しい瞳が開いて、チラリと腕の中のアリアネルを見る。
「……お前は、あまり天使の力を借りる魔法を使うな」
「え……?」
「特に、治天使と――正天使の力を借りる魔法は、駄目だ」
「ど……どうして……?」
急に始まったお説教に、アリアネルは戸惑いながら聞き返す。
乱れた吐息を整えながら、魔王はアリアネルの外套についているフードをおもむろに掴むと、ばさっと象牙色の小さな頭に被せた。
「ひゃ!?パパ!?何す――」
「お前は、天界から見ても明らかなほどに、眩しい。――地上で、何度も必死に天使に力を乞うため呼びかければ、存在を気づかれやすくなる」
「!」
「現に今も、俺の結界が、弱まっている。……少し、静かにしていろ」
ぶっきらぼうに言い放って、フードをかぶせた頭をぎゅっと抱きしめる。
まるで子を慈しむような抱き方に、ドキン、とアリアネルの心臓が一つ跳ねた。
キン……と小さな硬質的な音が響いて、何かの魔法が発動したことを知る。
「……これでいい。人間界では、極力魔族の力を借りる魔法を使え。天使の力を借りる魔法は、下位の天使に限定するか――いっそ、無詠唱で発動できるまでに昇華させろ」
「そ、そんなの無理だよ……パパじゃないんだから……」
へにょ、とアリアネルはフードの下で情けなく眉を下げる。
少し間抜けなその顔を見て、ふ、と魔王の口の端にうっすらと微かな笑みが浮かんだ。
「子は親を超える――と、人間界では言うのだろう?俺が直々に教えているのだ。それくらいの気概を見せろ」
「ぅぅぅ……パパが意地悪なこと言う……」
今日はゼルカヴィアがいないから、アリアネルの味方になってくれる者はいない。
俯きながら口を尖らせる少女を見て、魔王はくっと喉の奥で小さく笑いをかみ殺した。
小さくて、脆弱で、大した役にも立たない子供だが――
腕の中でくるくると変わる表情を見ていると、いつのまにか、先ほどの耐えがたい苦痛など、どこかへと消え去っていた。




