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魔王様の娘  作者: 神崎右京
第三章

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48、魔法③

 ヴン……と耳元で何かが唸るような重低音が響き、何とも言えない浮遊感が身を包んだ――と思った途端、目の前に広がる景色が切り替わる。

 見上げれば、魔界には決して存在しないキラキラと輝く満天の星空が視界いっぱいに広がっていた。


「何度くぐり抜けても、不思議な感覚……この転移門の魔法も、いつか私にも使えるようになる?」


 ちらりと視線で紫色の魔法陣を振り返りながらアリアネルは門を開いた張本人へと尋ねる。


「無理だろうな。……空間を捻じ曲げる上級魔族には、僻地に暮らす偏屈な隠者という性質を付与した。人間ごときの魔力では、奴の力を引き出すことは出来んだろう」


 無感動な青い瞳で告げた後、魔王はアリアネルを振り返り、無造作に手を伸ばした。


「その魔族に、名前を教えてもらっても?」

「どうしても試したいなら、広い魔界からあの偏屈者を探し出して心を開かせてみれば良いが――俺の命令でもなければ、人間ごときの前に顔を出すような男ではない。そして俺は、お前に会わせるためなどという理由であの男を呼び出したりはせん」

「むぅ……パパのケチ」


 頬を膨らませながらアリアネルが伸べられた手を取ると、魔王はそのままひょいと少女を抱き上げた。

 夜気に冷えぬようにと出発前にゼルカヴィアに用意された外套に包まれ、もこもこした身体は、いつも城の中で戯れに抱いてやる時よりも抱きにくい。


「随分と重くなったな」

「お姉さんになったって言ってよ。大きくなったの。もう、六歳になったんだから」

「……たかだか六年ごときで、何を威張っている」

「私にとっては凄いことなの!もう、ゼルがいなくても独りで寝られるようになったんだよ?」


 ぷくっと頬を膨らませる仕草は幼子そのものだ。

 やれやれと言いたげに嘆息してから、魔王は何の声掛けもせぬまま、唐突にふわりと宙へと浮かび上がった。


「わ――!」


 ぐんぐんと離れていく地上に、アリアネルは咄嗟にぎゅっと魔王の首に縋り付く。


「今日は、ゼルカヴィアは来ない。地面に落ちたとて、この暗がりの中で目を皿にして探してくれるような奇特な存在がいないということだ。加護で落下の衝撃からは守られるだろうが――真冬の山奥で凍死したく無ければ、しっかりと捕まっておけ」

「う、うん……!」


 ぎゅうっと力を込めてしがみつく幼子は、少し顔を青ざめさせている。


(……そうか。高所というのは、人間にとっては本能的に恐怖を感じるものなのか)


 父と慕う魔王に気を遣わせぬためか、弱音も吐かずに魔王の衣服を渾身の力で握り締めるアリアネルを見て、それまで考えたこともなかった事実に思い至る。

 翼を持つ天使にとって、空を飛ぶことは地上を歩くよりも慣れ親しんだ移動方法だ。

 翼を無くしてしまった今でこそ、徒歩での移動にも慣れてきたが、魔王は未だに空中浮遊の方が気楽で良いとすら思っている。

 当然、高所が怖いなどという感覚は、理解が出来ないものだった。


(そもそも、落ちたところで正天使の加護が身を守ると言うのに――全く論理的ではないな)


 命の危険がないというのに、なぜ血の気を引かせるほどに恐怖するのか、その思考回路がわからない。

 改めて、腕の中にいる存在が、酷く脆弱な存在であることを実感する。

 我知らず、抱いている腕に力を込めてやりながら、魔王は静かに口を開いた。


「……下を見るから、落ちたときのことを考える」

「え?」

「上を見ろ。――今日は、新月だ。星が良く見えるだろう」

「ぇ――わぁ――!」


 魔王のぶっきらぼうな言葉に促されて、言われた通りに空を見上げると、アリアネルはぱぁっと顔を輝かせる。桜色の唇からは、堪え切れない歓声がこぼれた。


「すごい――!パパ、見て!お星さまが、すごく近いよ――!」

「そうか」

「手を伸ばしたら届く?」

「届かん」


 拳が白むほどに魔王の服を固く握りしめていたはずの手を空へと伸ばして目を輝かせる子供に、魔王は素っ気なく言い放ってすぃ――と空中を渡っていく。

 どうやら、思惑通り、アリアネルの顔から恐怖の色は消え去ったらしい。

 掴み取れそうなほど近い満天の星空に心を奪われて、キラキラと竜胆の瞳を嬉しそうに煌めかせている。


(相変わらず――眩しい顔をする子供だ)


 昏く淀んだ空気に支配される魔界に似つかわしくない、光の権化のような存在に、軽く魔王は目を眇める。

 聖気を光の輝きとして認識できなくなって久しいが、今はその能力がなくてよかったと思う。――きっと、天使の眼を通して見れば、この善性の塊のような無垢な少女は、こちらの目が潰れてしまいそうなほどに眩しい光を放っていることだろう。


「天界でも、こんなにきれいな夜空が見えるの?」

「いや?……天界は、四六時中昼間のような明るさの快晴だ。夜と言う概念はない。星も月も雨も雪も――人間界特有のものだな」

「そうなの!?じゃあ、天使が皆、布一枚で出来てるみたいな薄着なのってもしかして――」

「単純に、暑いからな。それに比べれば魔界は寒い」

「そうなんだ……!じゃあ、魔族やパバが()()()()服を着てるのは、寒いからなの?」

「あぁ。……魔界は、太陽がないからな」


 首元を爪襟仕立てのかっちりした衣服で包んだ魔王は、分厚いマントを風にたなびかせながら、いつも通りの素っ気無さで答える。

 黒地に金糸の刺繍が入った豪華な衣装の理由を知って、アリアネルは頬を上気させて嬉しそうに微笑む。

 それでは、父が天界にいたころは、彼も画集で見た天使のような薄着をしていたのだろうか。

 純白の大きな羽を広げて大空を舞う美貌の天使を思い浮かべて、アリアネルはぎゅっと父と慕う男に抱き付く。


「?……まだ怖いのか」

「ううん!全然!――パパがいるから、怖くないよ!」


 言ってから、ぐるりと周囲を見回す。

 魔王が言う通り、新月の今日は、驚くほど美しく星が輝いている。


「空中浮遊は、魔法ではない。いわば、天使のみに許された固有のスキルだ。……ゼルカヴィアですら、空を飛ぶことは叶わない。せっかくの機会だ。楽しんでおけ」

「うん!」


 星灯りを前にキラキラと瞳を輝かせるアリアネルに、魔王は続く言葉を飲み込む。

 ――少女が十五になった後に命を落とせば、彼女は天使の眷属となり、空を自由に飛ぶ能力を得ることだろう。

 そんなことを、皮肉も込めて告げてやろうと思ったが、大好きな父の腕の中で初めての空中浮遊に心を躍らせる純粋無垢な少女の横顔を見れば、何故か水を差すようなことを言う気にはなれなかった。


(……おかしな子供だ)


 冷酷と恐れられる自分が、妙に甘くなってしまうのは、微かに残っている天使のさがなのか。

 真っ暗な夜の中でも眩しいくらいに輝く善性の魂に、惹かれる心が残っているからなのか――


「ねぇ、パパ」

「なんだ」

「パパはいつも、こんなにも綺麗な世界を見てるの?」

「?」


 上空は、地上に比べると少し寒い。

 興奮で頬を上気させたまま、白い息を吐きながら、アリアネルは周囲を見回し、笑顔をはじけさせた。


「だって――まるで、星の海を泳いでるみたい!」


 竜胆の瞳が魔王を覗き込み――ふと、遠い記憶が脳裏をよぎる。


『貴方は、とても優雅に空を飛ぶのね』


 それは、今夜のような月のない夜。

 視界一面に金剛石の欠片を散りばめたような夜空を見上げて、月光を思わせる黄金の髪をした女が、呟くように言った。


『まるで、星の海を泳ぐみたい。――****とは、違うのね』



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