45、造物主⑥
「っ……パパ!」
「アリアネル!?」
退室を促すゼルカヴィアの腕からするりと逃れて、アリアネルは床を蹴って執務机に向かって駆け出す。
全く予想外の行動だったのだろう。魔王は蒼い瞳を大きく見開いていた。
そんな様子に構うことなく、少女は全力でその身体に飛びつき、首へと縋り付く。
「パパっ!――大好きだよ!」
飛びついた勢いをそのままに、少女が白皙の美しい頬に唇を押し当てると、ちゅっ……と小さな音がした。
「聞いて、パパ。私の名前は、アリアネル。――パパのことが世界で一番大好きな、たった一人の、パパの『家族』だよ」
何が起きたのかわからず、ぽかん、と目と口を開いて、魔王は呆然と幼子を見つめ返す。
「知ってる?キスは、大好きな人に、大好きだよって伝えるためのものなの」
少女は、首に縋り付いた至近距離からまっすぐに蒼天を思わす瞳を見つめ、ふわりと微笑んだ。
「今まで、パパを家族のように愛してくれる人がいなかったなら――私が、一番最初の『家族』になる。パパの幸せを一番願って、毎日抱きしめて、キスを贈って、大好きだって伝え続ける。何があっても私はずっと、パパの味方でいるよ」
冗談の影など入り込む隙を一切見せずに、真摯な顔で語りかけるアリアネルに、魔王の顔が不愉快そうに歪んだ。
「何を馬鹿な――そんなことをして、お前に何の利がある」
「?……誰かを好きになるのに、損得を考えたりしないでしょう?」
きょとん、と眼を瞬いたアリアネルに、吐き捨てるように言葉を重ねる。
「ありえない。お前が何をしようが、俺は万物に心を寄せることはない。どれだけお前が俺にすり寄ろうとも、俺がお前に興味を示すことは決して――」
「?……アリィがパパを好きかどうかと、パパがアリィを好きになってくれるかどうかは、関係がなくない?」
ぱちぱち、と竜胆の瞳が何度も不思議そうに瞬かれ、魔王は呆気に取られて言葉を失う。
「アリィが――あ、ちがう、私が――パパに大好きって伝えるのは、パパに好きになってほしいからじゃないもの。……勿論、好きになってくれたらうれしいよ?大好きな人に、大好きって言ってもらえるのは、すごく嬉しい。大嫌いって言われるのは、すごくつらいし、哀しい。――でも」
少し首をかしげて、父と慕う男の瞳を間近から覗き込みながら、アリアネルは不思議そうに言う。
「パパが、私のことを『嫌い』って言っても――だからって、パパのことを嫌いにはならないよ。私は、パパに何かをしてほしくて、好きになったわけじゃないもの。パパは、格好良くて、強くて、物知りで――何より、誰よりも優しいの。だから、私はパパが好き。……もしもパパが私を嫌いになっても、パパは格好いいし、強いし、物知りだし、優しいのは変わらないもの。私は絶対に、パパを嫌いになったりしないよ」
「何を馬鹿な――そんなものは、”愛”ではない。何も見返りを求めない感情など、あるはずがない。誰かを愛し、愛されるとは、契約と同じだ。生涯互いを裏切らぬと言う、呪いのような契約だ。依存と執着に塗れた鎖のような重たい契約を、俺は理解が出来んし、するつもりも――」
「??……アリィには、難しいことはよくわからないけれど――」
こて、と逆方向に首を傾げた後、アリアネルは満面の笑顔を浮かべる。
「アリィは、パパが、大好き!」
「な――」
「パパって呼んでも怒らないでいてくれた。地面に落ちた花冠を拾ってくれた。抱っこして、ってお願いしたら、抱き上げてくれた。わからないことを丁寧に教えてくれて、おやつも用意してくれて……『ごらく』の思い付きだってちゃんと考えてくれた。今だって――急に抱き着いたのに、アリィが落ちないように、ずっと支えてくれてる。パパのそういう優しいところ、大好きだよ」
言われて、無意識に幼女の身体を支えていたことに気付いて、ハッとする。
「くだらない――こんなもの――!」
「だから、パパ。アリィはパパが誰を好きでも、嫌いでも、関係なくパパのことが大好きだけど、もしも――もしも、いつか、パパがアリィのことを好きになってくれたら――」
身体を離そうとする魔王にもめげず、アリアネルははにかんだように笑う。
「アリィの名前を呼んで、優しくキスをしてね」
少女の顔に浮かぶのは、太陽が似合う晴れやかな笑顔。
ほんのわずかな翳りすら見つけられない、善性の塊の魂が輝くような、笑顔だった。
「――――」
理解の出来ないものをみる目で、魔王は言葉を失って少女を見返す。
(パパは、今はまだ少しだけど、それでも確かに、誰かを、何かを愛する心を持ってる)
花茶も、太陽の樹も――きっと、ゼルカヴィアや魔族たちのことだって。
(だけど――”愛される”ってことは、よくわからないみたいだから――)
本当は、魔族たちにも心から愛されているのだろう。
だが、そこには明確に主従の関係があり、魔王も、魔族も、互いに交わらぬ一線を互いの間に引こうとする。
だから魔王は永遠に孤独で、孤高で――愛されたことがないから、愛するということも上手く思い描けない。
(本当は――ただ、不器用なだけなんだよね)
面と向かって口にすれば、機嫌を損ねてしまうだろう言葉を胸の中にしまって、アリアネルはクスリと吐息だけで笑って魔王の膝からぴょんと飛び降りる。
「また明日ね、パパ。――大好きだよ」
毎日、ゼルカヴィアにしているのと同じように、家族への愛の言葉を心を込めて贈る。
魔族ではないアリアネルは、たった百年ぽっちも生きられない。
魔王の時間軸では、瞬く間に過ぎていくだろうその限られた時間で――少しでも、”愛されること”を知ってほしい。
きっと、それは――”お戯れ”で拾われたアリアネルにしかできない、唯一のこと。
アリアネルが知る『家族の愛』は、太陽のないこの魔界でも、ぽかぽかと温かく、心地が良い、慈しむべき存在だから――




