4、パパ②
正門に近づき顔を上げれば、庶民は滅多にお目にかかれないような、豪華な馬車が正門に停まっている。
その傍らには、きっちりと漆黒の執事服を着用し、宵闇を閉じ込めたような長い髪を、執務に支障が出ないように後ろで一つに束ね、直立不動で隙なく佇む眼鏡をかけた美青年がいた。
「お帰りなさいませ。お嬢様」
「ただいま、ゼル」
アリアネルを見つけると、ゼルと呼ばれた執事――ゼルカヴィアは綺麗な所作で礼をした後、馬車の扉を優雅に開ける。
エスコートのためにアリアネルへと手を差し出しながら、ちらりと彼女の後ろに佇む二人へと視線を遣った。
「御学友ですか?」
「うん。シグルトと、マナリーア。正天使と治天使の加護を受けた優秀なお友達なの」
「ほぅ……それは素晴らしい」
アリアネルの紹介を聞いて、すぅっと眼鏡の奥の瞳が細まり、笑みを作る。
どこか陰のある、ミステリアスな色香を湛えた笑みだった。
「それじゃぁ、二人とも。明日は、怪我とかしないように気を付けてね」
「大丈夫よ。もしシグルトがヘマしたって、あたしが魔法で完璧に治して見せるから」
ドン、と力強く胸を叩いて言い切るマナリーアに、にこりと柔らかな微笑みを浮かべてから、ゼルカヴィアの手を取って馬車の中へと乗り込む。
そのまま、ゼルカヴィアも共に馬車の中へと乗り込むと、ミヴァが御者台へと登った。
日中は学業に励む必要があるミヴァは、従者見習いとして勤しむ時間が限られるため、送り迎えの御者の代わりを率先して行っているという。
小柄な身体で手綱を握り、鞭を振るうと、馬が一つ嘶いて、ゆっくりと馬車が動き始めた。
「それじゃあ、またね」
「うん!またね!」
「心配すんな!ちゃんと明日、魔族はばっちり討伐してくるからよ!」
力強い学友の言葉に見送られて、窓から手を振っていたアリアネルは、その姿が見えなくなったのを確認すると、ゆっくりと馬車の中に座り直す。
「学園生活も、もう五年ですか。順調なようで何よりです」
「うん。……私には勿体ない友人だよ」
ゼルカヴィアの言葉に、アリアネルは物憂げに瞳を伏せて口を開く。
少しの沈黙の後、こほん、と少女は咳払いをして、気を取り直したように話題を変えた。
「そういえば、ゼル。……明日、ブルグ村に、生徒たちが聖騎士団の補佐として赴く件だけれど」
「はい。昨日お教えくださった件ですね。……先ほどの二人も、赴くのでしょうか」
「うん。……パパに伝えなくてもいい?」
ゼルカヴィアはアリアネルを視線だけで見返す。何やら、ごそごそと鞄の中を探っていた少女は、一冊のノートをずぃっと差し出した。
――先ほど、マナリーアに乞われて見せたノートを。
「これ、今日の授業で聞いた、明日の選抜メンバーの作戦内容。村の周辺で目撃情報があった魔族の名前も書いてあるの。誰が見ても理解できるように、わかりやすく書いたつもり。必要なら――」
「御心配には及びません。すでに、現地での処理は進んでいます。貴女の御学友が赴く頃には、そのノートに書かれているような強力な魔族たちは誰もおらず、勇んで行った割に肩透かしだと、残念がるのではないでしょうか?」
クスクス、とゼルカヴィアは、意地悪そうに笑って見せる。
「なぁんだ。せっかく、パパの役に立てると思ったのに」
「残念でしたね。しかし、学園に依頼が行く程度に、事態が大事になっているのは事実。今回の件では、お灸をすえるべき者も多いので、暫く留まるかもとのことでした」
「えっ、嘘!」
アリアネルは、驚いて目を見開いて声を上げる。
「明後日には帰ってきてくれる?私の十五歳の誕生日なんだよ?今年こそは、パパに『誕生日おめでとう』って言ってもらえると思ってたのに……!」
ぎゅっと不安そうに眉根を寄せて、悲痛な顔をする少女は、これ以上なく見るものすべての憐憫を誘う。
「残念ですが、お帰りの日程は不明です。留守の間、しっかりと城を護るようにと仰せつかっております。とんとん拍子に事が進めば、明日にも戻っていらっしゃる可能性はありますが――」
ゼルカヴィアはふるふる、とゆっくりと首を振ると、ため息に乗せるようにして、哀れな少女に現実を伝える。
「たとえ明日お戻りになったとしても、貴女の誕生日に、貴女が望むような祝福の言葉を貰えるなどとは、期待せぬよう。……それくらい、貴女もわかっているでしょう?アリアネル」
「――……」
呼称を変えた執事の前で、アリアネルは下唇を軽く噛んで寂しそうに俯く。
やれやれ、と小さく嘆息していると、コンコン、と御者台から窓を叩く音がした。
「ゼルカヴィア様。先ほど、結界の中に入りました。もう、この馬車を視認できる者はいないでしょう」
猫のような少女が、礼儀正しく伝える。
窓の外を見れば、いつの間にか街を抜けて、山の中に入っていたようだった。キラキラと輝く陽光が降り注いでいた街中から、チラチラと影を纏った木漏れ日が降り注ぐ緑の世界へと車窓が変わっている。
「わかりました。それでは、転移門を開きます。備えてください」
ゼルカヴィアはそう言って、口の中で何か呪文を唱える。
「転移門」
最後に力強く宣言し、その深い青緑の瞳がゆらり、と揺らいだと思った瞬間――馬車の目の前に、紫色の奇妙な魔方陣が虚空に浮かび上がり、馬車がすっぽりと飲み込まれた。
――ガタンッ!
「きゃっ――」
魔方陣に飲まれた直後、馬車が大きく揺れて、アリアネルが小さな悲鳴と共に身を竦める。咄嗟にゼルカヴィアがその身体を支えてくれた。
「大丈夫ですか」
「う、うん……ごめん、今日は揺れが大きくてびっくりしちゃった」
驚愕にドキドキと走っていた心臓をなだめながら答える。慣れ親しんだ隙のない執事服の下にある逞しい身体に、しっかりと支えられていることがわかり、ほっと安堵の息を吐いた。
そのまま、すぅ――と大きく息を吸って、肺の中に取り込み、ゆっくりと吐き出す。
愛しい故郷の匂いがした。
「やっぱり、帰ってくると息がしやすいな。どうしても、授業中はミヴァもいないし、シグルトとマナリーアが傍にいると、苦しい時が多いから」
言いながら、そっと馬車の窓を開ける。
外に広がるのは、真昼間にも関わらず、分厚い雲で覆われた薄暗い世界。
先ほどまですぐそこに在った目に鮮やかな緑も、眩しく輝く木漏れ日も、何一つない。
ただ、おどろおどろしい雰囲気が漂う、武骨な黒い岩肌が広がっているだけだ。
「あの二人は、正天使と治天使の加護が付いている、と言っていましたね。だとすれば、普段から聖気の塊みたいなものでしょう。この地で育った貴女の身体には毒そのものです」
ガタン、ガタン、と荒れた岩肌を走って揺れる車内で、ゼルカヴィアは皮肉気に笑う。
アリアネルは「そうだけど」と小さく口の中で認めてから、頬杖をついて再び窓の外へと視線を投げた。
「あ~ぁ……魔王様、早く帰ってきてくれないかなぁ」
天使のような無垢な少女は、少し口を尖らせて寂しそうに呟く。
――ここは、魔界。
瘴気を食らう魔族を魔王が統べる、陽の差さない暗黒の世界だ――




