39、お兄ちゃん⑥
「あのね……夢で、アリィは、大きくなってるの」
「えぇ」
「鎧みたいな服を着て、大きな斧を持ってるの」
「ほう」
青年は興味深げに頷く。
ゼルカヴィアがアリアネルに施している鍛錬は、確かに巨大な武器を扱うことを想定したものだったが、まだ彼女に斧を持たせたことはない。
勿論それは想定される選択肢の一つではあったが、今の段階では、適正に合わせて大剣でも長槍でも柔軟に対応できるようにと基礎の練習を繰り返しているところだ。
変な先入観を持たせないためにも、まだ幼い彼女にそんなことを告げたことはなく――それ故、夢の中で成長したという少女が持っているのが巨大な斧に限定されているのは、妙にリアルで気味が悪い。
「それで――それでね。頭に、声が響くの」
「声……?」
「魔王を殺せ――魔族を殺せ――って」
「――――……」
「アリィはね、絶対に嫌なの。でも、意識がぼんやりしていて、身体が自由に動かないの。まるで、誰かに操られてるみたいに――夢の中にいるみたいに」
事実それは夢なのだが、夢の中で、夢の中にいるような奇妙な感覚に、アリアネルは本能的な恐怖を抱いたらしい。ぎゅっ……と青年に縋る腕に力がこもった。
「そのまま、アリィの意思を無視して、身体はまっすぐに敵に向かっていくの」
「敵?」
「うん。――パパを先頭にした、魔族の軍団」
「!」
青年は驚きに息を飲む。
ひくっ……とアリアネルの喉が再び小さく哀しい音を立てた。
「パパの隣には、ゼルがいるの。その後ろには、たくさんの魔族たち――知ってる人もいっぱいいるの。オゥゾも、ルミィも、ロォヌも――皆、皆、怖い顔で、武器を持ってるの」
「それは――」
「アリィは嫌だ、って思うのに――身体は勝手に、武器を持ったまま飛び出すの。……パパとゼルの前に飛び出して、斧を振り下ろすの」
しん……と静寂が部屋の中に舞い降りる。
「あれは――アリィの、未来なのかな……?」
「そんなはずは――」
「ない?本当に?本当に、本当?」
アリアネルは、再び頬を涙で濡らして、縋るように青年を抱きしめる。
「皆――皆、アリィのこと嫌いになったりしない?アリィが天使の手下になって、天使に命令されて皆を攻撃しても?」
「それは――」
「将来、そういう風になるかもしれない子供でも――ちゃんと、魔界に置いてくれる?優しくしてくれる?敵の手先だって言って、いじめたりしない?」
ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、アリアネルは青年の肩口に顔をうずめた。
「ゼルも、パパも――アリィのこと、ずっと、家族だって思ってくれる……?」
「――――……」
青年は、返答に困ってただ少女の背中を撫でさすった。
(どうやって答えるのが正解なのでしょうか……)
青年は、知っている。
魔王は、天地がひっくり返っても、アリアネルに情を移すようなことはしないことを。
ゼルカヴィアは、少女に情を移しているが――それでも少女の『家族』だと肯定することはないことを。
そんなことは、きっと、少女とて百も承知なのだろう。
だから彼女は、ゼルカヴィアに決してこの不安を打ち明けなかった。
きっとゼルカヴィアは、ただの夢だから気にするなと言って、『大丈夫』と答えたことだろう。
何を問われても、巧みに少女の『家族』であると明言するようなことだけは避けながら――
「……そうですね。妙な夢を見てしまったせいで、アリアネルがとても不安に思っていることはよくわかりました」
「ぅ……ふぇ……ぐすっ……」
いったん、否定も肯定もせずに少女の気持ちをまっすぐに受け止めてやる。
今の少女に必要なのは、感情を発露し、受け入れてもらえたという体験だろうと思ったためだ。
「夢の中の話なので、どういういきさつでそんな状況になったのか――肝心のそこがわからないので、『そんなことはあり得ない』も『あり得る』もどちらも明言できないのが歯がゆい所ですが」
「っ……!」
少女は息を詰めて、絶対に嫌だと主張するように、ぎゅぅっと青年の首に全力でしがみ付く。
「もしそんな状況が現実になるとしたら、アリアネルが清廉な魂を持ったまま命を落とし、正天使の眷属になった時でしょうか。眷属は、直属の天使の命令には逆らえないらしいですし」
「やだっ……やだ、じゃあ、アリィ、悪い子になる!そしたら、天使のところに行かなくてもいい?」
涙声で震える少女を安心させるように象牙色の頭を撫でながら、青年は苦笑する。
小さな嘘の一つも満足に吐けないくせに、一体何を言っているのか。
「……ちなみに、アリアネル。その、頭に響く謎の声とやらは――『人間』に対しては、何と言っていたのですか?」
「え――?」
質問をしてやると、きょとん、と少女は目を瞬いて体を起こす。
ぱちぱち、と何度も瞬きをしながら記憶をたどるが――
「わかんない……何も、言ってなかったと思う」
「ほう?夢の中に、人間は出てこなかった?」
「ぁ――ううん。いたと思う。アリィの後ろに、いっぱい」
「ほうほう。なおのこと、天使に操られている説が濃厚ですが――となると、その状況の貴女は、人間には危害を加えられないわけですね」
「?」
「――天使は、人間を殺してはいけないのです。それは、造物主が決めた絶対のルールで――そもそも魔王様が魔界に堕とされたのも、それが理由でした。造物主本人が、一番のお気に入りの天使を魔界に堕とさざるを得ないほどに、厳罰として禁止しているのが、天使による人間の殺害です。貴女が、天使の眷属になったとしたらなおのこと――人間には手を出すことが出来ないでしょう」
それが何だと言うのか。
アリアネルは首をかしげて青年を見る。
一つ苦笑した青年は、そっと少女の頬の涙の痕を拭ってから、こつんと額をくっつけた。
「では、その時は、私が貴女の傍にいてあげましょう」
「ぇ――?」
「言ったでしょう。……私は、ゼルカヴィアと違って、魔族ではないのです。人間と同じと言って差し支えありません。その分、脆弱ではありますが――貴女がどうしても魔族の全てと敵対せねばならない状態になっても、私であれば、貴女の傍にいて、貴女の味方になることができる」
「――――……」
「それとも、”お兄ちゃん”は――家族には入れてくれないのですか?」
クス、と笑う顔は、ゼルカヴィアと似ていたが、彼が普段浮かべる笑みのような揶揄する色はない。
アリアネルは目を見開いて、その言葉をかみしめる。
「ほんとう?――お兄ちゃんは、ずっと、ずっと、アリィの傍にいてくれる?」
「えぇ。約束しましょう。その代わり、脆弱ですから……アリアネルが、私を守ってくださいね?私は、どんな時も貴女の傍に必ずいて――そうですね。その時は、分からず屋のゼルカヴィアを説得して差し上げますよ」
「そ、そんなこと出来るの!?」
「えぇ、勿論。私は”影”ですから。……ふふ、こんなに可愛かったアリィを忘れてしまったのかと、赤子を前に奮闘した魔界での数年間を思い出せと言って、ゼルカヴィアの頬を張ってあげます。魔族らしく狡猾に、どんな手を使ってもいいから、天使から己の手塩にかけた幼子を取り返せと発破をかけてやります。……さぁ、どうですか?少しは安心出来ましたか?」
「っ……うん!」
「それはよかった。”お兄ちゃん”に出来るのはそれくらいですからね」
ぱぁっと顔を輝かせたアリアネルに笑って、よしよしと頭を撫でる。
「下らないことを心配していないで、さぁ、今日はもう寝なさい。……ゼルカヴィアには、内緒にしておきますから、安心してくださいね」
「うん。……お兄ちゃん、ありがとう。大好き」
ちゅ、と頬にキスをして、アリアネルは嬉しそうに笑う。
「おやすみなさい、アリィ。良い夢を」
そう囁いて額に唇を落としてくれるのは、いつものゼルカヴィアと全く同じで。
アリアネルは、大好きな『家族』に見守られて、もう一度安堵の笑みを漏らしたのだった。




