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魔王様の娘  作者: 神崎右京
第二章

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38、お兄ちゃん⑤

 部屋の前まで小走りでたどり着くと、息を整えてから、きょろきょろとあたりを見回す。

 廊下に誰の姿も気配も感じられないことをしっかりと確認してから、アリアネルはトントンと扉を叩いた。


「あの――アリィだよ。入っても、いい……?」


 昼間、”お兄ちゃん”という単語すら口にするなと魔王に厳命されたことを思い出し、言葉を選びながら部屋の中へと語りかける。


「周りには、誰もいないから――」

「わかりました。……いいですよ。入りなさい」


 中から返って来たのは、聞き馴染みのあるいつも通りのゼルカヴィアの声だ。

 ホッと息を吐いてから、アリアネルは背伸びをしてドアノブを回し、ドアを開ける。

 万が一誰かが通りかかっても、部屋の中を覗かれないように、少しだけ隙間を空けて、滑るようにして部屋へと入った。


「ただい――」

「アリアネル……!一体、どこに行っていたのですか……!!帰ってきたら、部屋がもぬけの殻で、焦りましたよ――!」

「ひゃっ……ご、ごめんなさい……!」


 部屋に滑り込んでドアを閉じた途端、掬い上げるようにして身体を抱きすくめられて小言を言われ、素直に謝罪を口にする。


「私のいない間に、何か不測の事態でも起きたのかと――!」


 ぎゅっ……と痛いくらいに抱きしめられる力の強さは、そのまま青年の心配の大きさを示していた。


「ぅ……心配かけてごめんなさい。――”お兄ちゃん”」


 アリアネルは再び謝罪した後、ゆっくりと手を伸ばして、青年の髪に触れる。

 ――輝くような、黄金の短髪を。


「独りでご飯食べるのが、寂しくなっちゃって……ロォヌの調理場で、一緒に食べようって言ったの」

「……」

「途中で、オゥゾに会って、オゥゾも一緒に――あ、えっと、食べてる途中にパパが来て、パパともおしゃべりしてたら、遅くなっちゃった。……ごめんなさい」

「そうですか……貴女が無事なら、いいのです。いつも言っているでしょう。――”影”の私には、いつものゼルカヴィアと違って、貴女を外敵から守る力がありません。くれぐれも、危険に巻き込まれるような事態は避けなさい、と」

「うん。……ごめんなさい」


 しゅん、と瞳を伏せて真摯に謝罪すると、やっと身体が離された。

 余程心配だったのだろう。――月に一度しか顔を合わせない青年は、元々色白の肌をさらに青白く染めていた。


(本当に――”お兄ちゃん”はゼルと一緒、なんだなぁ……ううん。ゼルよりちょっと、過保護かも)


 それは、彼が言うように、彼自身に外敵から守る力がないからなのかもしれないが――それ以外は、小言のいい方も、声も、何もかもがゼルカヴィアと同じだ。


(……外見は、こんなに違うのに)


 アリアネルは、改めて”お兄ちゃん”――ゼルカヴィアが自身の”影”だと称する青年を眺める。

 髪の色は、ゼルカヴィアの腰まで届く宵闇の長髪とは似ても似つかぬ、明かりに透かすと溶け出すような蜂蜜色の短髪。瞳は、いつもの深い青緑よりも少し黄色掛かった不思議な色をしていて、ゼルカヴィアのトレードマークの眼鏡はどこにもない。

 顔の造り自体には、かろうじてゼルカヴィアの面影も感じられるが、自信に満ち溢れた上級魔族の彼とは違って、まるでこの部屋の外の世界全てを敵だと言わんばかりに警戒し怯えるかのような振る舞いのせいで、全くの別人のように思えてしまう。


「せめて、貴女が自分の身を護れるくらいの強さになるまでは――ゼルカヴィアも、新月に安心して任務に集中することが出来ません。早く、一人前になるのですよ」

「う、うん」


 心配そうに瞳を揺らして告げる青年に、アリアネルはぎこちなく頷く。


「さて……歯は磨きましたか?日記は書きましたか?全部終わったなら早く寝てしまいましょう」


 よしよし、と頭を撫でてくれる手の大きさは、ゼルカヴィアと変わらない。

 髪と瞳とその身に宿す能力が違うだけで、彼はゼルカヴィアとよく似た造形だ。雰囲気は異なるが、声や体温や体格はまるで同じだから、抱きしめられたり頭を撫でられれば、自然とゼルカヴィアを思い出す。

 ゼルカヴィアはこの青年を”影”――己の分身だと言ってのけた。

 自分のそれまでの記憶も完全に受け継がせて造り出した分身は、この新月の一晩だけアリアネルの面倒を見て、朝になれば任務を終えて帰ってきたゼルカヴィアと融合し、一晩の間の記憶を共有するのだと――


「日記、書く……」

「そうですか。では、私は貴女の寝間着を用意しておきましょう」


 習慣になっている日記を引っ張り出しながら告げるアリアネルに、青年はもう一度だけ頭を撫でてから背を向けてクローゼットへと向かっていく。

 見慣れた日記の最新ページを開いて――アリアネルは、ぎゅっと筆を握ったまま固まった。


「どうしましたか?」


 お絵かきが好きで、絵本が好きで、人間界の草花が好きで――不器用なところはあるが、感受性に優れるアリアネルが日記を前に固まることなど珍しい。

 いつまで経っても白紙のまま固まっているアリアネルに、青年は着替えをベッドの上に置いてから近づいてくる。


「……アリアネル……?」


 そっと伺うように俯く少女の顔を覗き込むと、青年はぎょっと目を剥いた。


「なっ……ど、どうしましたか!?」

「ひっ……ぅ……ぅわぁぁああん」


 ぼたぼたぼたっと大粒の涙が、アリアネルの頬を伝って零れ落ちる。


「あ、アリィ!?どこか、具合でも悪いのですか!?痛い所でも――」

「ぅっ、ぅえっ、ぅえぇえええん」


 オロオロする青年を前に、声を上げて泣きながら、ぎゅっと力任せに握り締めた筆を乱暴に動かす。

 相変わらずミミズが這ったような汚い文字で描かれた言葉は――


 ――夢を見た。


「夢……?」

「ひっく、ぅ、う、うえぇえええん」


 竜胆の瞳から溢れてくる洪水は、日記帳の頁をふやかしていく。

 アリアネルは、やっとの想いで書いたはずのたった一言を、ぐしゃぐしゃと塗りつぶすようにして上から黒で塗りつぶしてしまった。


「アリィ……!?一体、どうしたと言うのですか。泣いていてはわかりません」


 嗚咽を漏らして号泣する少女に狼狽しながら、青年はとりあえず少女の身体を抱き上げる。筋力に関しても一般的な人間界の成人男性程度になっているため、ゼルカヴィアとしてアリアネルを持ち上げていたときの記憶よりも重く感じるが、この異常事態を前に四の五の言ってはいられない。

 しゃくりあげながら目元を乱暴に擦るアリアネルをなだめるように、彼女が赤子だった時にしてやったように上下に軽く揺らしてあやしながら、頬を濡らす水滴を指の腹で拭う。


「ほら、落ち着きなさい。一体、どんな夢を見たと言うのですか」


 そう言えば、昼間、少女がやけに不安そうにしていたことを思い出し、青年はなるべく優しい声で問いかける。

 しかしアリアネルは、何度も嗚咽を漏らすばかりで、ぶんぶんと首を横に振って回答を拒否した。


「私には言えないような内容だったのですか……?」


 困ったように眉を下げて問いかける。そういえば、昼間も、ゼルカヴィアが何度か水を向けたが最後までアリアネルは何も打ち明けることはなかった。

 

「ひっく……だって――だって、お兄ちゃん……ゼルに、言うもん……!」

「ゼルカヴィアに知られたくないようなことだったのですか?」

「だって――だってっ……ゼルは、『大丈夫』って言うだけだもんっ……!」


 しゃっくりを繰り返して、青年の肩口を涙と鼻水で濡らしながら、くぐもった声で訴える。


「それは……聞いてみないとわからないでしょう」

「わかるもん!」

「困りましたね……」


 ゼルカヴィアの記憶をたどっても、少女がこれほど号泣する夢の内容には全く心当たりが無く、ほとほと困り果てた青年はそっとアイボリーの髪を梳く。


「では……ゼルカヴィアには言わない、と約束したら――私にだけ、こっそり打ち明けてくれますか?」

「ぅ……そ、そんなこと、出来――」

「出来ますよ。私は確かに、ゼルカヴィアの”影”ですが――この身は魔族ではなく、人間に近い。今の私には、魔王様への度を越した忠誠も無ければ、瘴気を美味に感じるような感覚もないのです。……ね?ゼルカヴィアとは全く違うでしょう?」

「でも――」

「リアルタイムでゼルカヴィアに記憶や体験したことを送っているわけではありません。朝になってから、ゼルカヴィアとしての活動の支障があってはいけないと、必要な記憶を共有しているだけですから――意図的に、これは共有しなくてもいいと思う記憶があれば、隠しておくことは出来ますよ」


 その言葉に、少女が少しだけ嗚咽を落ち着かせた気配を感じ取り、青年はアリアネルを抱きかかえたままゆっくりとベッドに腰を下ろす。


「さぁ、安心出来ましたか?絶対にゼルカヴィアには秘密にすると約束するので、教えてください。……貴女のその可愛らしい顔を、涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしてしまった悪い夢は、どんなものだったのですか?」

「ぅ……ぅぅぅ……」


 ぎゅっとアリアネルは青年の首に縋りつく。いつものゼルカヴィアなら背中を覆っているはずの宵闇の髪はどこになく、青年のむき出しの項に直接触れれば、彼とゼルカヴィアが別人だと言う主張は頷けるものだった。

 まだ少し涙に濡れた声で、アリアネルはゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。



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